時雨心地 -百花の願い-
静寂漂う場内に、規則正しい獅子嚇が一際に響く。
室内を行き来して気を紛らわす動作は、時刻む代用の真似事に思えてくる。
固唾を呑んで見守る祝事は、命に関わる危険と隣り合わせ。
今か今かと苛立って、待って待っての十月十日。
当主の忙しない仕草に理解を示しつつ、周囲は少なからずも失笑が漂っていた。
一端柱に寄り掛かり、開け放った襖から離れの産屋を窺う。
岳父たる政景が何とも神妙に呟いた。
「苛立ちはごもっともですが、初産は遅れがと聞きます。
コレばかりは女性に任せ、男は祈って待つ事しかできませぬね……」
「解ってはいる、既に聞き飽きる程……に、な……」
「「……?!」」
外界から微かと拾った音の出所は、渦中の産屋だ。
続いて此方を目指すは、廊下を猛然と駆けて渡る騒音。
柱から身を起こして俺は構えた。
固唾を呑む、緊張で喉が成る。
傍らの岳父たる政景も俄に立ち上がりて待つ仕草。
放たれた襖より転がり近寄るは、見知りたる近習であり興奮を露にし声を張上げた。
「ごっ……御嫡男、御誕生で御座います!!」
嫡男誕生の吉報に俺は然り頷いた。
一斉に上座へ向けて平伏する家臣の頭髪、眼下に入れて沸立つ笑み。
口々に祝辞を紡ぐ人の波に満足する。
“外孫誕生”と、政景も歓喜の様相に吐息。
城内に生まれた歓声は、瞬く間に所領内外へ知れ渡った。
* *
大儀を労う己の唇が震え、伝えるべき口上が途切れた。
痛々しいまでの表情に悲しみ暮れる雛姫の顔、濃い疲労にて横たわる四肢。
彼女が吐いた申し出を疑った、通例事と頷かねばならぬ道理と理解していながら……。
承諾も是非も無い武門の習いだと、情を切捨てて意を得たりと頷いて。
動揺と一時の躊躇を押し隠し、辛うじて喉を絞って紡いた言葉は否定であった。
「嫡男 “犬松” の生母は御前だ、雛姫が手元にて養育すれば良い……」
己の夢枕に立った御子なのだ。
待ち切れずと冗談めかし、手を差し伸べ約束を交わた子。
雛姫と一緒に指折り数えて待ちわびた、沸き起こる喜びを噛み締めて。
誕生は何時頃かと聞耳立て語りかけ、浮世に生まれ出る前から幼名を決めていた。
安産にて誕生するよう願って……。
栽松院様が御夫婦に肖り思案した、松つの蘖と。
「愛様が御手元にて養育して下さいませ」
「何故、なぜ自ら手放すと……御前は言う」
雛姫の枕辺へ膝を進めた。
疲労の濃い面差しで横たわる姿を心配と見つめ、心痛めて。
彼女の側には産着に包まれ眠る赤子。
生まれ出た待望の嫡男へ顔を向け、雛姫は淡々と決意を告げる。
「私は一介の側室で御座います」
「誰も反対などしないだろう、俺が決して言わせない」
「今の言葉、伊達の御当主の口から出たとは思えません」
「……雛姫」
俺を嗜め諭す言葉は冷徹にして辛辣。
彼女が真っ先に切り捨てたのは情、親としての心だった。
映る瞳は蒼白の寒気、潔いまでの決意。
逡巡と震えた口唇が隠し切れぬ感情を現していた。
我が短慮を指摘されて、憤り覚える暇すらなくて口閉ざす。
無常な理を受け入る雛姫は聡い、御家安泰を願う臣下の様であると理解し。
だから尚更と、賢女たる心に采配を労わる言葉が見つからない。
「嫡男と御認め下さいますのなら尚の事。
御正室様が手元にて“犬松”を御養育下さいませ。
私が抱く望みは、それ以上も以下も御座いません……」
「其れを懇願だと、信じろと…‥云うのか?」
「……はい、左様で御座います」
確固たる意思と潔いまでの英断。
空気が場が震えた。
今にも泣き出しそうな雛姫の目元、溢れる心情を汲み取って。
俺を見据えた視線が突と逸らされる。
反対側へ体を背け、涙と嗚咽を隠し堪えるために。
謝罪の言葉を紡いだ。
どうしようもなく健気で愛しい佳人に、鎮痛の面差し向けて独り。
「……恨むなら俺を恨んでくれ」
「恨みなど、私に在るのは願いだけ」
否定した、頭を緩やかに振って。
彼女がもよおした深い悲しみ、俺が胸に渦巻いたのは罪悪感。
一目を憚らずに抱締めて詫びたいと思った。
哀色を流した瞳に慰めの言葉を、寒気の姿に温もり届けたいと。
けれども己の身分が、当主の立場が邪魔をする。
振りそそいだ表せぬ感情。
浮世の愁い、武家の理に従い無言で席を立った。
腕に抱くは白の産着に包まれた我が嫡男。
健やかな成長と受け継ぐ未来へ、俺は乞い願っていた。
不条理な定めに心を痛め我が子へ深く謝罪して。
-時雨心地-
今にも泣き出しそうな気持ちの事。
時雨の語源は“しばし暗し”と“過ぐる”。
蘖は曾孫の事。




