夕菅は待宵を愁い 05
急激な変化は大きな戸惑いに余波を孕む。
嘲りが胸に込上げ、私は息を堰き止めていた。
親しむ師は幼い私に説いた、煩悩に塗れた人の業、生涯で人は計り知れない欲を求める生物だと。
しかし、其れは恥じる事無い自然の理……と、最後に私を諭して。
「……政宗様は、餓を抱えて居られる」
思うままの皮肉な言葉綴り。
数日間を側で過ごすうち、伺い悟った翳りを指摘する。
読み取るに必要と思えるスキルは、観察力と聡い思考位か。
英邁な頭脳を有する智将の片倉様。
近しい女性の存在であるならば、侍女頭である喜多。
そして、血縁たる成実様が一番深く読み取っていたはず。
近侍と懐刀、彼の人が思考を知らぬ筈は無い。
「俺が餓えているとは、実に興味深く面白い指摘だな。
是非、お前の口から詳細を聞かせて欲しい。
その、真意を是非に聞きたいものだ」
「……地位や権力そして、名誉を勝ち得ても満足出来ない、飢餓。
永遠と満たされない虚ろな欲、その眼差しが全てを物語っていると」
政宗様の隻眼に我が意を伝えた。
手中に収めても満たされない欲望、果てぬ飢餓。
存在意義の有無、物欲も性欲とも違う、虚ろな精神は穿たれた様な奈落の穴。
留まり切らぬ欲を指して、私は更に単語を紡ぐ。
「常に何かを求め彷徨う、満たされぬ欲望が心の深淵にありましょう?」
執着とは、覇者に必須の欲望。
それを持ち得ぬとは、当主として有るまじき希だ。
「それを自覚し、恥じてもいらっしゃる。
いえ、本心を気取られるを怖れ、政宗様は隠蔽されている」
「……ほう、随分な言い様とは思わぬのか?
女性で在りながら虎哉禅師に傾倒した、小賢しい女よ。
まあ、政景が男ならばと惜しむ理由は判らないでもない、が……実に勘に障る言い様だ」
政宗様が苛立たしげに座る私を睨めつける。
見上げた表情には嘲りと威圧、冷酷な微笑に竦む心音。
優雅な所作で上座の敷物へと歩み行かれ、漂わす気配は怒り。
ならば私は、静かに続く沙汰を待とう。
判決を待つ罪人の面持ちとは、この様な心情か。
* *
あの日、政宗様は早急に文を三通認めたと言う。
大崎鎮圧へと出立した、父上と祖父に一通。
そして、大森にて隠居なさっている実元様(成実様の御父上)に一通。
最後は、最上様の領内。成実様が御逗留なされる霞城(山形城)へ一通。
それら全てを、早馬を使いて文を飛ばしたのだと。
「今し方、連署で政景と月舟斎から文が届いた。
予想はしていたと思うが、随分と待たされたな……。
実元からの返信と同意“御当主の御心儘に”だ、そうだ……?」
「は、はい」
「しかし、大崎より近い霞城からの返事が来ない。
成実は何をしている、この事実は覆すこと出来ぬぞ……」
「すっ、全ての非と責は私に在ります。
成実様を咎めるは、どうかお止め下さい。
私は、私は…父上と政宗様の命に従います。
ですから、どうか咎め無きように……!!」
気魄のこもる声音で遮っていた。
主君の言葉を遮るのは、無礼に当たると知りつつも。
成実様が私事で勘気を被られるは、只々申し訳ない。
罪悪感、身の置き所のない不貞と自責の念、その一心に尽きる。
畳に額付いて心から誓う。
罪を問うなら私が受けよう、もう逃げはしない。
足掻こうとは思わぬ、手遅れと自覚し咎ならば喜んで受けようと。
全てを計算し実行された罠ならば甘んじて従順に。
「ほう、随分と良い心構えじゃないか?
従順と素直に従う姿なら、多少の不遜も可愛らしく思えるな」
俄かに沸立つ西殿廊下。
足早に近寄る人の気配に政宗様が振向く。
「……何事だ?」
入室を伺う侍女の言葉が掛かった。
隠匿と伏せられた声音に、私は密やかに耳を傾ける。
まるで此方を監視し様子を窺う様な眼差し、僅かに背へ悪寒が走った。
「成実からの“文”だ…そうだ…」
「……っ!!」
柔らかく微笑めば繊細に、けれども冷酷な微笑は他者を威圧する。
強張った私を嘲笑うかの様相で、静かに開け放たれた文箱。
書状が文字を追い始めて、彼の口角が俄と上がった。
男性であるに嬌笑を浮かべて。洗練された血筋、品良く纏まった横顔が文章を追う。
政宗様が答え示す沙汰を只待ち、所在なげに座り込む私。
ふと、彼の喉元が息を含んで上下した。
「潔い……と、思ったが随分と未練がある様子だな。
覚っていたがため、分を弁える……いや、諦めていた…だと?」
「如何なされました……」
不安に怯える雛姫の声音。
それを耳元に、震える手と隻眼で俺は文字を追う。
書き連ねた言葉綴りを躊躇しながら、揺らめく眼光で黙って追う。
成実からの文は所々に逡巡の墨跡が垣間見えた。
綴られた言葉の列は淡々とし、それはまるで成実の心情を現している……。
嘲るでもなく只、突きつけた事実を真に受け止めるべく。
文脈は婚約者を奪った俺を咎めるでも、非難するでもない玉章。
臣下として敬う手紙は、気遣う言葉綴りだった。
文脈から感じる意思は違和感を孕んでる。
成実は……いずれ俺が、雛姫を欲する事を予測していたのか?
一文字一文字に改めて示されるは、俺への敬いの言葉。
家臣としての立場、弁えた所作。
「一線を引かれたは、俺の方か?」
成実の答に、俺は動揺し目頭を押さえていた。
ある程度は予測していた。
だが、こうまで淡々とした承諾の意。
戸惑う程の恭順と潔白たる身の引き様。
休息に肘を突き、今更ながら成実の心中をあぐねえる。
「臣下としての距離と立場を弁え、賢明だと身を引いた……?
覚られる程、俺は成実を敵視していた訳ではない。
鞘当などしていない、それは嘘じゃない」
既に読み取られていた思惑。
道理なのか、成実の聡く鋭い思考ならば造作も無いのか。
英邁な頭脳を有する小十郎は知らなかった、俺が願いを口にするまで。
だが、喜多は薄々思いを覚っていたと……。
血縁たる成実様が読み取っていたならば、雛姫は?
思いを寄せた、当の本人はどうだった。
気取られぬ知らぬ筈は無い、小賢しいまでの頭脳と見識を持つ女だ。
来訪を重ねるが度、警戒の色濃く距離を保とうとした所作が物語っていた。
足下が崩れ落つる錯覚。
いや、見識の誤り。
「……政宗様、其れは違いましょう。
嘘偽りなく、成実様の思いは只一つなのです」
淡々とした口調が告げた言葉に、俺は息を呑んだ。
微かな衣擦れの音と近寄る気配。
移り香とも言える伽羅の香が間近に迫り寄る。
雛姫の悠然とした声音が耳元に届く。
見上げた表情と立ち姿、今し方まで彼女が纏っていた覇気に感情は欠落していた。
声の抑揚を押さえ、感情を消して自足している。
戸惑いと自らの嘆きを無理に込め、忘却へと運んだ雛姫の様相が告げた。
痛みすら忘れた佳人の心中を、嫣然とした姿と微苦笑で語る。
「人取り橋での戦いで誓った……と、御聞きしました。
恨みなど、妬みなど従兄弟として生まれ育った時点で忘れたと。
知音としての喜び、政宗様の心を誰よりも理解できる、その立場が殊の外嬉しいと」
「成実は薄々勘付いていたのか……。
いずれは俺が、雛姫を側室に望むだろうと?」
私は黙って頭を振った。
それは憶測、決して尋ねてはならぬ真実。
故に、政宗様から暗黙と手渡された文へ無言で目を落す。
流麗な文字が並ぶ、懐かしき成実様の直筆の文。
物言えぬ葛藤と逡巡した思いが鬩ぎ立ったが、意を決して一読する。
そして、否定するため再度頭を振ってしまった。
恨むでもなく、一身に忠義と政宗様への主従を貫く素志。
裏表の無ない思いが直に見て取れる文章、成実様の真心。
『御心に添う、雛姫の処遇一切を願い…御任せします』
其れが、其れが彼の本心なのか……。
筆跡は願っていた。たった一文が、それだけが婚約者であった彼の晴眼。
涙が出る暇など間など存在しない、目前の現実に私は瞠目するしかない。
ならば、己も成実様と同様の誠実なる品行を締めそうではないか。
拒む事無く、せめて過去の婚約者様の意向に従おう。
御心に適う敬愛する御当主に添うと此処に誓う。
「御当主が命に……」
迷う必要など無い結論である。
従妹として側室として、虚心坦懐の心を御誓約しよう。
「成実様の御言葉と心に、私も誓い従いましょう。
従妹で在るなら私とて同じ懐中、同じ心構えで御座います」
今思い返せば胸に留まった何気ない行い事。
あの日、米沢城を発つ成実様は予見していたのだ、間違い無く。
『留守中、何事も無く』と、優しい抱擁に続いた苦笑。
父上も、成実様も往き付く先は同じなのだ。
当主からの命“側室”と、望まれては逆らう術は無い。
今更だ、私如きが御手を煩わせては駄目なのだ。
「……幾久しく、お願いいたします」
思えば、満ちた好機だったのだ。
十六夜の満願ならば、謹んで側室へと加わらねばならぬ。
政宗様に改めて深く頭を垂れ、私は御挨拶を申し上げた。
しかし、未練がましい我が心が一時口上を拒んだ。
過ぎった記憶と留めた思い、成実様が誇らしげに語った姿で振り返り。
『隻眼の蒼き登竜、彼を親族として心から尊敬している』と、晴れやかに笑って。
他国に知れ渡る奥州が覇者。
心理の御心と立ち位置に恭順の意を表して、伊達家十七代当主、藤次郎政宗様へと深く叩頭する。
真心に添える立場ならば、これ以上望むべくもない。
側室へと望んで頂いた事実に、与え迎えてもらたった地位に深く御礼を。
和合の意味込めて、政宗様と偕老同穴を願いて挨拶申し上げた。




