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華胥の国に遊ぶ  作者: 柴舟
弐章
21/51

梅桃の佳人を待て 05

 手元を誤り、見事に左指に針を刺してしまった。

私は痛みに眉を顰め、指に浮き出た血を見て周囲に気が向く。

針仕事に集中したが為、時の経つを忘れていたらしいと。

己が座してる板敷きの廊下には、既に傾き暮れる夕日が射していた。

 手元の布地に目を向けて私は呟く。

息を吐いて肩の力を抜き、霞む瞳を瞬かせ。

左右に首を傾ければ、小気味良く音が鳴った。


「今夜中に完成したいが、刺繍を引き受けたのは荷が重い」


 母上に厳しく躾けられたが、どう頑張っても裁縫は人並み以下の腕前だ。

一人で作り上げるは時間が無いと、屋敷の裁縫上手を総動員しての部分的な流れ作業。

美津と二人の侍女、頭を突き合わせ部屋の灯りを共有して針を動かしていた。

皆一様に祈り願うは武勲と無事、手元の糸を纏めて切り離す。


「此方の陣羽織は間もなく完成するよ、二人は何処まで進んだ?」


「申し訳御座いません、此方は未だ裏地を縫い付けております」


 作業の手を止め頷いて返事をくれた年配の侍女。

私の我侭に付き合せているのだ。

労働の無理を強いたと、功を労はねばなるまい。

御互い為疲労の色濃い顔立ちにて、苦笑が漏れ出た。


「忙しいのに協力してくれて有難う。

 御蔭で素晴らしい陣羽織が出来上がりそうだよ」 


 慌てて取り寄せた布と糸。

高価だが良く在る品だ、艶消しした紺の絹地と藍色の二色。

双方どちらも、一見味気無い色合である。

しかし、袖に裾端に銀糸で刺繍を施せばどうなる?

地味でもなく派手でもない、志向を凝らした粋な羽織となろう。

刺繍に手間と時間が掛かるを惜しむが、出来栄えに満足すれば苦は無い。


「あまり上手ではないのだが、後は私に任せてくれないか?」

 

 * *


 穏やかな空間と流れる時間が心地よい。

手元を見つめる振りをし雛姫の顔を眺める、上座脇の脇息にもたれて。

必死に針仕事へ集中し、俺との会話は成り立たないのに何故か楽しい。

不思議な感情が心を擽る。


「……あの、成実様?

 そう見つめられては手元が狂い、縫い目が曲がってしまいそう」


「うーん、雛姫は気にしないで。お裁縫に励んでよ」


 視線を感じたのか雛姫が手元を休め、俺を仰ぐ。

手元を覆い隠す袖端、可愛らしい動作に微笑ましい願事。

先程から彼女の興味を一心に受ける其れが気にかかる。

紺の布地に銀糸、繊細な刺繍を施す『それ』が。


「政景様の陣羽織だよね。

 伊達姓に複した御祝いと、戦勝祈願にかな?」


「正解です。祝う間もなく出陣を控える父上にと、思い立ちまして」


「銀糸で刺繍しているのは、トンボだね。

 退くに転ぜず、決して退却しない勝ち虫か……」


 成実様の仰る通り、願いを込めて糸で描くは蜻蛉である。

視線を手元の羽織から上座に送って首を傾げた。

傍らに座し、柔らかな笑みを浮かべる御姿を。


「武勇の誉れ高い百足の前立、成実様を真似ました」


「あらあら、それは照れるな」


 成実様の前立ては百足。

大きく鎌首上げた姿で、敵を威嚇している。

蜻蛉と同じく、百足は退かぬ事に因んだ兜飾り。

『英毅大略あり勇武無双』

 伊達の双璧を成す御方の姿。

成実様は穏やかな御顔立を宙に向け、答えてくれた。

城内での難しく思慮に耽った表情。

律せ漂わせる厳しい気配とは、全く異なった人柄にて。


「百足もね蜻蛉と同様、不転退の精神を現すんだ。

 縁起物だよ、攻撃的で勇猛な姿を武士に例えているんだからね」


 夏の終わり告げる蜩の声が聞こえる。

今、部屋に居るのは当の二人。

家人達は気を利かせ、極力近付く事を控えてくれている。

つまり、誰の目も憚る事無く雛姫と俺は二人きり。

 誰にも気兼ねする事無い空間。

穏やかで心地よい空気に、知らずと気が和む。

手元を休め、俺を仰ぎ見て彼女は笑った。


「さて……此処に、成実様に御渡したい物が御あります」


 小首を傾げて企み、含んだ問いを掛ける彼女。

俯く雛姫の手元に有る包み。

裁縫道具の脇に置かれたソレは、紐解かれた。

中からは、丁寧に包まれた藍色の陣羽織。

現れた品物に、俺は目を見開く。

期待していいのだろうか…と、逡巡し。


「その陣羽織、俺の為に縫ってくれた……の?」


「成実様から打掛を頂きました。

 その御返しと、戦勝祈願の思いを込めまして……」


 俺の問いに彼女は頷いた。

照れた表情を浮かべ、小袖の裾を押さえて立ち上がる。

何時も見惚れる淑やかな姿に、眩しさと嬉しさで俺は目を細めた。


「成実様、少し屈んで下さいませ?」


「……雛姫。俺ね、凄く嬉しくて仕方ないよ……。

 羽織の刺繍に手間が掛かったと、一目で判ったから」


 藍色の陣羽織には、華麗な刺繍が施されている。

おそらくは彼女の手製、政景殿と同じく繊細な図案。

銀に混じるは朱金の糸。

両袖に舞い踊るは、銀の蝶と輝く燐粉。

裾端には草の模様が同じ糸束で描いている。

促され羽織に腕を通せば、彼女の所作が風を生み仄かに香が鼻を掠めた。


「有難う、本当に嬉しい」


「し、成実様?」


 薫る彼女に、俺は堪らず抱き締めていた。

朱に染まった耳朶に口付けて、嬉しさと同時に不埒な感情が心を擽る。

その先を望みたいが流石に拙いだろう、と……。

彼女に逃出されては傷心するし、生憎と政景殿も御在宅。

背に回した俺の腕は、雛姫の動きを緩やかに束縛するに留まった。

引き寄せたのは、彼女の小さな頭。

己の肩に乗せて案じてやれるは、今後の事。


「間もなく政景様と月舟斎殿が出陣だね。

 明日は愛宕神社で戦勝を祈ろう、一日も早い無事の帰還も」


「御心遣い有難う御座います、成実様。

 残される身で出来る何よりの戦勝祈願です……」

 

 硬く強張っていた雛姫の体から、少しずつ力が抜け落ちる。

胸に組んだ彼女の白き腕先。

恥ずかしげに俺の背へと這う。

こうして二人、今後一緒に過す時間は得られない。

政景殿が出陣すれば、雛姫の身柄は米沢城に預けられる。

伊達の姫として身の安全を図る名目で。

婚約者として、彼女を預かるのは己が使命。

我が屋敷に連れ参ろうと、そう思っていただけに腑に落ちない。


「父上も成実様も、政宗様の御声一つで出陣なさる。

 また、休む間も無く転戦を重ねられるのでしょう…か……」


 回した腕の中、雛姫が切なげな息を漏らした。

戦に赴く人の身を案じ、酷く沈んだ声音と気配。

戒めを緩やかに解きて、俺は俯く彼女の顔色を覗き込んだ。

伏せた長い睫毛が濃い陰影を映している。

紅を刷いた口元から漏れ出るは、悲痛な胸の内。


「父上と成実様の陣羽織の裾下、図案化した模様は“事無草”です。

 功名は自らの力で切り開けましょうが、無事は祈る事しか出来ない『運』。

 不公平だとは思いませんか?

 残された私達はただ、祈り願いて神仏に思い託すだけとは……」


 儚く切々と語る婚約者。

華奢な体を震わせて、俺と視線を絡め見上げて呟く。

涙を浮かべ、一途に可愛らしく悩むのだ……。

溜息を一つ、俺は飲み込んだ。


「……人は、日々を耐え忍んで生きるモノなんだ。

 だから精進を重ねてこそ、強く世に生きていけるんだよ」


 うーん、違った意味で限界です。

そろそろ耐えるのが、苦しいってか辛くなりました。

体を密着させて、あんな可愛い顔で見つめられたらね。

俺も健全な男ですし、枯れてはいません。

当然と美人美女が大好きですよ、男ですもん。

なにせ雛姫は『歩く百合の花』です。

 細く儚げ純潔無垢、その姿は蕾か三部咲きか……な?

大輪を咲かせるその日まで、俺は手折るを耐え忍べるのだろうか。

彼女の髪を優しく梳き、早秋の夜空に切ないと目を向けた。



事無草=何事も無く、忍ぶ草とも。

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