7.鏡面 2
夏目が物音に振り返ると、壁面のシャッターが口を開けていた。しかしそこには誰もいない。
暗い空間の奥から猛獣が出てくるんじゃないか、そんな妄想さえ浮かんでくる、おどろおどろしい雰囲気の黒い洞。夏目は唾を飲んだ。
ふいに、気配を感じた──背後から。
振り返ると、黒いスーツの人物が、水族館で見た黒い武器を夏目に向かって振りかざしていた。光を反射して輝く長い刃先が、空気を切り裂いて夏目の眼前に迫る。
「え──」
頭で考える時間など微塵もなく、夏目は反射的に目を強く瞑った。
ブツン、と意識が途切れる。
痛いほどの沈黙が、部屋に満ちた。
恋も冬柚も目を見開いて口を覆い、六花は強張った顔で息を呑んだ。千早と白夜だけが冷静にそれを見守る。
どうして気がつかなかったの。一体いつから、あなたは。
悪夢を見ているのだと思いたかった。強く拳を握りしめると、爪が皮膚に食い込んで鈍い痛みが広がる。
現実なのだ。これは、決して夢などではない。
夏目。
あなたは──私と同じ、イヴィルブラッドなんだ。
夏目に武器を向けた人物──史織は、目を見開いた。
黒い双刃刀、スピアの刃先は夏目の首に届くことなく、ピタリと動きをとめていた。素手でそれを受け止めた夏目の手は薄いヴェールを纏ったように黒く染まり、人の手とは思えない硬度、そして膂力がある。
スピアがまるで動かないことを認め、史織はスピアを早々に手放すと、無防備な横腹を目掛けて回し蹴りを放った。それさえ見切った夏目の姿をしたものは、天井に届きそうなほど高く跳び上がる。
黒い指先の靄が揺らぎ煙のように拡がると、つららのような結晶針が幾百も降り注いだ。
史織は驚嘆しながらもその軌道を見抜き、踊るようなステップでそれを躱す。広範囲に渡る結晶針の雨は、史織を部屋の端まで追いやった。
数メートルの高さから難なく着地した夏目が、攻撃をすべて躱されたことに目を丸くする。
そして少しだけ愉しそうに、口角を上げた。
呆然と成り行きを見つめていた潮が我に帰る。慌ててあたりを見回した。
千早と六花が立つその後ろに、下へ続く階段があった。それがあの部屋へ通じているかはわからない。それでも、このまま黙って見ているわけにはいかない。
足を踏み出した潮の腕を白夜が掴んだ。
「どこに行く」
「夏目のところです! とめないと……」
「おまえが? どうやって」
「どうって……」
言葉に詰まる。具体的な解決策なんて浮かばない。ただ、あんなものを目の前にして、じっとしていられるわけがなかった。
白夜が続ける。
「おまえにできることがあるなら行けばいい。ないならここから動くな。史織の邪魔になる」
「……でも……」
「二度は言わない」
そう言って、白夜の手は潮から離れた。引き留めるものがなくなっても、潮はそこから動くことができなかった。
行っても邪魔になるだけ。その通りだ。
もしも自分が行ってさっきと同じ結晶針が来たら、彼女のようには避けられない。
夏目が私に傷を負わせることになる。
誰よりも優しい彼女に、そんな事実はいらない。
窓に目をやる。旧友と同じ姿の、違う人。いや、人ですらないだろう。
どうして黙っていたの。それとも知らなかった?
夏目に直接確かめなくちゃいけない。
だから、どうか、戻ってきて。
潮は祈るように、駆けつけたい衝動を必死に堪えるように、きつく拳を握りしめた。
床に突き刺さった結晶針はすでに霧散しかけており、蹴れば砕けるほど脆い。二人は足場を気にすることなく剣戟を繰り広げた。
史織のスピアと夏目が生成した黒い短剣が交わっては弾かれる。史織には擦り傷一つなく、夏目もまた無傷だった。
不毛な剣戟に史織が眉を寄せ、一際大きくスピアを薙いだ。それを短剣で防いだ夏目が目を瞠る。スピアの勢いに押し負けた短剣の刃が、欠けた。
その隙をつき、史織は後ろに飛び退き距離をとった。夏目は手の中の欠けた短剣を一瞥して放り、胡乱ながらも鋭さを孕む眼光を史織に投げつける。
ぞくりと背筋が戦慄いた。人のかたちをしたものが、人ではない何かによって動いている。
史織が体勢を低くして身構えた。『なるべく相手を傷つけないように』──千早の言葉を反芻しながら、相手の次の挙動に神経を張り巡らせる。
しかし──。
夏目は両腕を大きく天に伸ばすと、「んー」と渋い顔で唸りを上げた。まるで狭い部屋から抜け出したみたいに、首を左右に鳴らしたり肩を回したりしてストレッチを始める。
「はあ……久々にこんな動いた。ずいぶん手荒な真似で呼び出して、私に一体何の用?」
「……な」
──意思の疎通ができる!
史織が動揺を隠せずに観察室を見上げると、同じく唖然とした表情の千早と目が合った。彼女は我に帰ったように肩を揺らして、身振り手振りで何かを伝えようとする。史織は真顔で顎を引いた。
──何を伝えたいのかまったくわからない。
なんだ、アヒルの物真似か? アヒルを校舎裏に呼び出せと。あ、違う? そんなに手を動かしたら下のコントロールパネルに指をぶつけそうだ……ああほら、言わんこっちゃない。大丈夫か?
あれ、何か持ってきた。手持ちのホワイトボードだ。黒いペンで文字を走り書き、それをこちらに向けて見せる。
『会話して。可能ならこのあと話したい』──ああ、なるほど。ようやく理解した。
史織は警戒を続けながらも、会話の継続を試みた。
「きみは、イヴィルなのか」
「……はあ?」
夏目は心外だと言わんばかりに目を細める。
「私はそうだよ。でも、夏目は違う。あいつは人間だ」
「きみとその宿主は別の存在だと?」
「私に限らないだろ。人間とイヴィルは同一じゃない。おまえたちが言うところのイヴィルブラッドだって、一つの身体に二つの存在があるだけだ」
会話ができるどころか、あまりにも明確な意思と思想がある。
これでは、まるで人間じゃないか。
史織は息を呑み、最後の質問を投げかけた。
「まだ戦う意志はあるか」
「ないね。てか、けしかけて来たのそっちだろ。私は愉しかったけど」
その返答に、史織は観察室の千早に目配せをした。千早が頷き、部屋の奥へと消える。まもなく階段を下ってここへ来るだろう。
史織はスピアを床に置いた。その手から離れた途端、スピアは黒い靄を放ちゆっくりほどけていく。
史織は正面から夏目を見据えると、両手を腰の横に付け頭を下げた。夏目が怪訝な眼差しでそれを見下ろす。
「手荒な真似をしてすまなかった。話ができるのなら、きみのことを訊かせてほしい」
「私のこと?」
「宿主のスコアを改竄したのは、きみだろう」
「……ああ、なるほどね。あれでバレたのか」
夏目は思い当たる節に辟易し髪を掻き上げながら、「いいよ。話してもいいと思える範囲なら」と頷いた。




