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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第二章 三桜晴斗
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夜来

漕ぎ出しさえすれば、自転車は勝手に進みだす。速度は徐々に上がり、夏の空気が前半身によりかかってくる。

皮膚と不快に触れ合っていたポロシャツは浮き上がり、汗で落ちていた髪はなびく。

 部活終わり、強い日差しと背の高い木々の合間を晴斗は走る。鼓膜を破らんとする蝉の声を浴びながら、坂を下っていく。


 夏休みは佳境を超え、すでに終わりへと移ろい始めていた。今はシューズにテーピング、着替えだけしか入っていないリュックにも、来週からは教科書が増え、筆記用具が加わることになる。


「夏休み、短けぇんだよ」「二倍は必要だろ」「学校とかだるいわー」

部活の休憩中に交わされる会話に同意を示しながらも、内心では再び学校が始めるの楽しみに待っていた。後期には初めての文化祭があって、球技大会がある。なにより部活以外の友人とも毎日会うことができる。それが待ち遠しい。


山の輪郭に沿うようにカーブした道路へと晴斗は差し掛かる。ふいにツタと落葉樹で覆われた斜面から鳥の声が届く。何の鳥だろうか、そう思って耳を澄まして声はもう聞こえない。そうする間に、自転車は山の脇を通り過ぎてしまう。やがて視界を占めていた緑は後ろへと消えていった。

 やがてスイッチを押すようにこの暑さが引けば、あの山もあっという間に色を変えるのだろう。移ろう季節の中で寒さに怯える名も知らない鳥を晴斗は思った。


遠回りしよう、不意にそんな考えが頭をよぎったのは町に出て、最初の信号の前まで来た時だった。信号が変わるのを待って真っすぐ進めば、家はもうそこだ。それなのに気付けば晴斗はハンドルを左に切っている。

 普段は走ることのない道を進む。道一つを違えただけで、こんなにも景色は変わるのかと晴斗はかすかに驚き、そして初めて学校に行く時のような感覚に襲われる。恐怖なのか、期待なのか、それとも現実からの逃避なのか。名も存在も知らない感情が自然と胸を突いた。

 並木と道路と、そしていくつかの信号を超えて、晴斗は広瀬川にたどり着く。その河の畔、人工的な河川敷で自転車を停めた。芝生が音を立て、靴裏を触る。自転車ごと包むかのように少しだけ涼しげな風が吹いた。

 石の上を走る河に、夕日が差し込み光が乱れる。線のような光がキラキラと転がるその様子を晴斗はぼうっと眺める。

 思えば、こんな風に寄り道するようになったのは独りで帰るようになってからだった。時間を持て余しているのか、小さな寂しさを冒険心で埋めようとしているのか、理由は分からない。まだら模様の感情を解きほぐし、その根底を覗き込むことができるほど大人にはなれていなかった。


 また風が吹く。さっきとは違う、生暖かい風だった。台風前夜のような湿り気と共に、夏が晴斗の前を通り過ぎてゆくのを感じる。

 

 高校受験の勉強中に、中学校の卒業時に、入学式の帰り道に、部活終わりに、夏希と話した理想の夏休みは何一つ形にならず、砂へと消えていった。彼女にとっては軽い妄想の類だったのかもしれない話たちを晴斗は丁寧に記憶からかき集め、頭のコルクボードにピンで留めていた。そのうちのいくつかを二人で選ぶ夏にしようと思っていたのに、夏の記憶の中に彼女はいない。

 

 


 夏休みが始める直前、夏希が宮城に戻って来た。ようやく会える。そう指折り数えて待つ合間に、晴斗のスマホのウィジェットにはカレンダーが増えていた。

 丁度高校は夏休みを控え色めき立っていた。晴斗が大きく背伸びをして入学した向坂(むかいさか)高校は、晴斗よりもはるかに賢い同級生ばかりが集う学校で、晴斗は置いて行かれないように毎日必死だった。入学試験でトップを取った夏希のように余裕綽々とはいかず、授業と部活、塾に忙殺されるような日々。そんな忙しさにようやく一つの節目が見え始め、肌が夏の陽に染まり始めた頃だった。


「病院が終わったら」「少し遅くなるかも」そう前もって聞いていた晴斗は、家でバッグを持ってスマホをひたすら眺めていた。早く会いたい。はやる気持ちを必死で抑えては、画面を覗き、ベッドに放る。その繰り返し。

 だが日が暮れても夏希からの連絡はないままだ。何かあったのかと不安が募っていた最中、不意に夏希宛てのLINEに既読が付いた。

「よし!」

思わずそう声に出しながら、晴斗は立ち上がり部屋を出た。

「お待たせー!」とか「終わったよー」とかそういうメッセージがすぐに来て、それが会いに行く合図になるはずだ。そう思いながら、靴を履く。横に置いたスマホは画面を光らせたままに夏希からの返信を待っている。

 家を出る。8時を前に暗闇に包まれた道路は日差しの余熱を未だ残していた。スマホを手にしたまま駅への道を進んでいく。歩が止まるたび、画面を開いては通知を待つ。来ていない、来ていない、来ない、来ない…………

 結局、駅についてもなお夏希からLINEが送られてくることはなかった。




 ふと地鳴りのような音が響き、晴斗の意識は現実へと戻される。視線を上げると、赤い橋梁の上を銀に緑の線が入った車両が通り過ぎるところだった。土手の先、新幹線用線路の手前に轟音だけを残して車両は消える。その反響もやがて薄れ、夜に溶けた。

 



 あの日もこんな風にいくつもの電車を見送ったのだと晴斗は思い出す。


 改札を通って階段を上り、プラットフォームに立つ。仙台への上り列車を待つ列の後ろで晴斗は夏希からの連絡を待った。東北にしては珍しくいくつもの路線が乗り入れるその駅には8時を過ぎてもなお次々に電車が滑り込んでくる。その扉が開くたびに晴斗は足を踏み入れるかを迷い、スマホの電源ボタンに触れた。その数と同じだけ晴斗はため息をつき、足を戻すのだった。

 日付も変わるころ、仙台行き最終列車のアナウンスが入る。懇願するように強くスマホを握り締め、晴斗は待つ。酔っ払いと残業終わりのサラリーマンの中、指は何度も画面に触れた。夏希からの言葉が送られてこないまま、電車は滑り込んでくる。窓から溢れる光が目の前を通り過ぎて、止まる。古びた機械音がしてドアが開く。通知は空のままだ。

「仙台行き、こちらが最終便です。お乗りの方はお急ぎください」

アナウンスの後、階段からスーツが一つ中に入り込んで行く。だが晴斗は動けない。

「二番線、発車いたします。」

空気を絞り出すような音、そして車両がゆっくりと動き出す。不意にその影が夏希に重なる。まるで彼女が離れていくかのような錯覚に陥り、晴斗は思わず手を伸ばしている。だがその指は空を切り、銀色の列車は暗闇の中へと転がっていく。それが見えなくなった後も、晴斗は手を下ろすことができなかった。




あれから一ヵ月以上の時が経ってもなお、晴斗は夏希と会うことはおろか、電話すらできずにいる。


彼女の病気は想像していたよりもずっと深刻なものだったのだと晴斗は夏希の母に聞いた。夏希が部屋に籠り、絶望の淵で塞ぎきっていることも。

「全然気にしないでね!」

学校に行こうとしていた晴斗に声を掛けた夏希によく似た母は、最期にそう付け加えたのだった。




「気にならないわけないだろ」

わざと語気を強めた呟きは、河原のどこかではじけて消えた。







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