陽光と暗転と
扉を潜る。白を基調とした部屋の中で何人かが自分を待っている。顔はよく見えない。
気付けば夏希は椅子に座っている。固定されているわけでもないのに、身体は動かせない。
得体のしれない恐怖が血管を走り、皮膚を揺らす。背中がざらつく。
部屋にいた一人が、足音を立てて夏希の方へと近づいて来る。
「来ないで!」
意志とは無関係に口から飛び出した声が、白い空間に響く。だが《《男》》は止まらない。そこで夏希は近づいてきたのが男だと知る。
ほとんど目の前まで来て男は足を止める。手には薄い何かが握られているようだ。
それがゆっくりと振り上がり………………あぁ私は……
はっと目が覚めた。息は荒く、もはや嘔吐の直前という風だ。枕には唾液と涙が混じってシミをつくり、顔にも痕が残っている。そして夏希は、自分がまた同じ夢を見ていたことを悟る。
頭が内と外で乖離するように痛み、喉はひりひりと乾く。睡眠薬すら跳ねのける精神と、絶望的な体の状態が夏希に自分がまだ生きていることを実感させる。
ふと思い出したように吐き気が込み上げ、夏希はプラスチックのゴミ箱へ顔をうずめた。
もう何度見たのかすら分からない夢に夏希は取りつかれている。現実のオマージュのような夢に。
人工的な白色に覆われた部屋は、確かに夢の中のような景色だった。背の高い椅子とデスク、丸椅子、そしてパソコンの光、たったそれだけが部屋に色をもたらしている。
「錦見夏希さん、こちらに座っていただいてもよろしいですか?」
部屋に入って数歩のところで足を止めた夏希に、久慈が手前の椅子を手で示す。
「はい」
どうにか、絞り出した声はなぜか震えている。そのことが一層の恐怖を夏希の中で掻き立てる。
「さて、
椅子に掛けた夏希の前で、久慈は僅かに押し黙る。口の中で言葉を転がすかのように。
「さて、錦見さん。本日の結果と、これまで他の病院で行なわれた検査のデータを照合したところ、錦見さんはある症例に掛かっている可能性が高いことが分かりました。」
その口調は事務的のようにも、雑談のようにも聞こえ、夏希は戸惑う。
あんなにいくつもの病院に行っても、どれだけの機械に入っても分からなかったことが、たった一日の検査で分かった。喜ばしいことのはずなのに、心には暗雲が垂れ込めたままだ。
ようやく病名がわかる。もう病院巡りをする必要もない。ずっと自分が望んでいたことだったはずなのに、一滴の安心すら覚えられない。そこにあるのは茫漠とした不安と際限のない恐怖だけだった。
「錦見さん………錦見さんの症状は自覚時間不一致症候群によるものでると考えられます」
眼前の医者から発せられた名前は夏希にはまるでわからないものだった。病名をもう一度言ってください、どんな病気なんですか、どれくらいで治りますか。聞きたいことはいくつも頭をよぎったのに言葉にならない。
「自覚時間不一致症候群は、症例数が世界でもほとんどない極めて稀有な疾患なんです。ですから原因、発症までの過程など詳しいことはほとんど分かっていません。」
久慈は夏希の返事を待たずに言葉を紡ぎ続ける。まるで軽く打ち込んだ質問にAIが次々と回答を書き出していくみたいに。待って、少し待って。これも言葉にはならず、淡く消える。
「症状の特徴として、罹患者の自覚する時間と現実時間の大幅な乖離が挙げられます。つまり………もっと端的に言えば、夏希さんの感じている時間が実際の時計と大きくズレているということになります。」
久慈はそこで一度言葉を切ると、机に据えられたスクリーンを指さす。
「これは先ほど受けていただいた検査結果の一つなんですが、これによると夏希さんの脳は現実時間のおける5分の間に7分の処理をしていたことになります。それで…
「ちょっと
驚いたように久慈が口を噤む。彼を黙らせたいと衝動を覚えた時には、もう声が出ていた。
「ちょっと、待ってください。私、全然何を言っているのかは分からないんですけど、自覚時間って治療とか、そういう………………」
母国語とは思えないほどぐちゃぐちゃにまくし立てて、それなのに言葉は勢いを失って尻切れトンボに終わる。頭よりもずっと下のところが、適当に思ったことを音にしていくようだった。それでもとにかく、聞きたい。時間がかかりますとか、大変にはなりますがとかそういう無駄な前提が付いたって構わない。治りますと完治しますと、そう言って欲しい。
困ったように久慈は目をスクリーンに泳がし、そのままどこかへと移す。僅かに夏希の後ろを見つめ、頷き、そして鼻から息を長く吐いた。
「夏希さん。この疾患が発見されたころには自覚的な時間のずれによって生じると考えられていましたが、現在では脳の異常活動によるものだと分かっています。先ほどお伝えしたように夏希さんの脳は、5分の間に7分の処理を行っていますが、これは脳が他人よりも活発に脳が活動しているためです。この脳の過剰運動がこの疾患の原因だと言われています」
彼が少し大きく息を吸ったタイミングをじれったく待ち、息に声を乗せる。
「それで、それで……治るんですよね?」
もう我慢なんてできなかった。山積する不安と膨らむ恐怖に心が押しつぶされそうで、それを守るたった一つの特効薬はこれしかないように思えた。
「夏希さん……
言葉を探すように久慈はまた目を逸らす。後ろで誰かの抑えたような声が響く。気付けば二の腕は鳥肌に包まれている。
「夏希さん、大変残念ですが………………脳の運動は……
すっと体温が下がっていくのを感じる。久慈の声が理解できない。今度は体が聞くことを拒否しているのだ。頭の中に暗闇が広がっていき、そしてパチンと光が消えた。
顔を上げる。ゴミ箱には濁った吐しゃ物が広がっている。匂いが甘いのは薬のせいなのか、それともまともに食べていないせいなのか。
床にぺたんと座っていると少しずつ胸にせり上がっていた体液が下がっていき、吐き気も減退していく。口の中の最悪な唾を追いうちのようにゴミ箱へ吐き、夏希はティッシュに手を伸ばした。こうして定期的に吐き気が訪れるようになってから、ごみ箱の近くには箱のティッシュを常備していた。薄い繊維を口元に運ぶと僅かな粘り気が纏わりつく。
ベッドの上で目覚めた時には、日付が変わっていた。朝日が向かいのビルをに差し込む、その景色を夏希は起きて最初に見たのだった。横の簡素な椅子ではベッドに上半身を預けるように眠り、ベッドの端、板の上では久慈がカルテを手にしている。少し太めのペンを手にカルテとにらみ合う久慈は夏希にまだ気づいてはいないようだった。自分の腰横に両手と顔を置く母を起こさないように気を付けながら、夏希はゆっくり上半身を起こす。
「お」
衣擦れの音に目を上げた久慈は小さく声を上げた。淵の大きい眼鏡の中に浮かぶ温和な瞳が、ビルに反射して差し込むオレンジ色の朝日と美しく調和している。だが目の下には隈が広がり、疲れが浮かんでいた。
「いきなり体を起こして大丈夫ですか?」
それでも彼は夏希を気遣う。はい、そう言いたいのに声にできず、夏希はゆっくりと二度頷く。
「なら良かったです」
一応、救命の先生を呼んできますね、そう言ってカルテを抱えた久慈が部屋を出ると、夏希は柿色に染まる部屋に独り残された。
目覚めてから外側に使われていた燃料が、今度は内側に向けられるかのように、脳が動き出す。前回中断された記憶が丁寧に復元されていく。
「私、死ぬんだ」
実感もないまま、気付けば夏希はそう呟いている。不治の病も、寿命も、辞書とドラマ以外で登場したことのない言葉だったのに、それが今では目の前に巨体として立ちはだかっていた。距離も大きさも図れないそれに、まるで陽炎のようなそれに夏希は困惑する。まるで急に深海に連れてこられたかのようだ。実感も手立ても、光もなにも見えない。それなのにたった一つだけ確かなこと、それは巨体であろうと深海であろうと、その先で夏希を待つのが死であるという事実。絶望するまでも考えるまでもなく、それはただ未来としてそこにあった。
「死ぬ」
自分の先に広がっていた広漠な無地のキャンパスはもうそこには無い。いや違う、今もそこにキャンパスはある。無くなったのは自分の手にあったはずのクレヨンだけだった。
「死ぬんだ」
気付けば陽光は暖かさを失い、冷たい死の前菜のように夏希に降り注ぐ。
残酷な光に包まれる病床の中で、ふいに夏希は三桜のことを思い出す。ベッド脇のデジタル時計は5時20分、そして朝日。理解が追い付かず、一瞬体が固まる。
「約束………………!」
慌ててスマホを探すがベッドの上には無い。ベッドの脇にもない。頭に血が上り、焦燥が身を包んだ。彼はずっと待っていたのかもしれない、約束を反故にされて悲しんでいるかもしれない。心の中の《《良い子な》》夏希が必死でそう考える。本当は違うというのに。私は今、彼のためにスマホを探しているわけじゃない。悪い子の夏希ではなく、夏希は本心でそう分かっている。彼に嫌われてしまうかもしれない自分、文字でも何でも彼と話したいという自分。結局夏希は自分のために必死になっている。
三桜だったら、三桜晴斗だったら。昨日のことは気にしないでいいよって笑って、夏希の哀しみを受け止めてくれるはずだ。自分のためにそう思い、夏希はスマホを探す。
「私、死ぬのに?」
上った血に殺虫剤でも撒いたかのような言葉が、三度夏希の思考を止め、布団の上を探っていた掌を強張らせる。
言葉にするたびに死の実感が近づいてきていたことを夏希はようやく悟る。そして同時にあの時電話で三桜に覚えた嫉妬が、三桜と一緒にいる誰かへの憎しみが蘇ってきた。
私の死に関係なく、彼の人生は続き、その人生は私以外の誰かで彩られていくのだと夏希は唐突に理解する。手は空っぽのまま、完全に止まった。
「死ぬ………………」
他の事への思考が消え去った時、開いた空白にようやく死への恐怖が流れ込み始めた。絶望、哀しみ、涙。気持ちの板に次々とペンキがかけられていくかのように、ぐちゃぐちゃの感情が次々に現われ、実体を伴わずに消えていく。
不意にやるせない気持ちに怒りが乗り、夏希は枕を壁へと力いっぱい投げつける。涙の中で枕が向こうの壁へ当たるのが見えた。叫び声がして、遅れて夏希はそれが自分のものだと知る。気でも狂ったかのように夏希は暴れた。いっそ狂ってしまいたい。何もかも感知できないくらい狂ってしまえば楽になれる。懇願するかのように、夏希は恐怖を外の世界にぶつけた。
泣き叫ぶ視界の中で白衣が蠢き、部屋に人影が次々現れる。
そしてすぐに体が押さえつけられる。夏希は力を込めるが、身体はどんどん抑え込まれていく。
完全に自由が封じられても、泣きながら、嗚咽混じりに夏希は騒ぐ。もう自分でもどこまでが自分なのか分からないほどに。
だが、その力も徐々に和らいでいく。
薬…か。意識が消える直前、急激に冷静になった脳がそう悟った。
目覚めて、思い出して、暴れて。そういう過程をなんどか繰り返し、表向きには夏希は落ち着きを取り戻していった。実際には絶望と虚無感が心を覆いつくし、現実の理不尽に暴れる気力すら失ったからだとしても。
夏希が落ち着きを取り戻し始めると久慈はゆっくりと病気のことを話すようになっていった。
脳が一生にできる運動量には限界があり、夏希はそれをいわば前借しているようなものだということ。夏希の卓越した成績も、過度な集中も、脳の過剰運動で説明がつくこと。そして寿命は長くないこと。
そのどれもが夏希をさらなる絶望の深みへと誘い込むために用意されたセリフのようだった。だがもう夏希には暗闇の判別すらできなかった。久慈に伝えられる情報の数々を、夏希は待合室のポスターぐらい適当に受け流す。
そうして盆が終わるころ、夏希はようやく退院した。
部屋での異常な体調と絶望は息苦しい病院に比べれば僅かに《《まし》》だと夏希は思っている。