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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第一章 錦見夏希
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減速を完全に終えて扉が開くとむっとした空気が夏希を包んだ。海外旅行に行っていたかのようなスーツケースを軽く持ち上げて、ホームへと飛び降りた。ガラガラと地面をこするような音を立てながら夏希は歩き出す。

 ふと風を受けて振り返ると、たった今降りたばかりの新幹線が走り出すところだった。鮮やかなエメラルドが岩手の方へと加速していく。かつて理科の授業で使った手回し発電機を全力で回しているかのような唸り声をあげて車両は足を止めた夏希の前を通り過ぎた。

 次で最後にしたい、新幹線の後ろ姿と風で乱れた髪の中で夏希はそう祈る。



全国病院行脚を終え、久しぶりに帰った宮城は梅雨の終盤にあった。例年、7月の終わりに明ける東北の梅雨は、その通りであればあと数日を残すのみとなっているはずだ。そう思えば、駅を包む雨もさほど気にはならなかった。もしかしたら、それは大学での検査が終わった後に会う約束をしている三桜のおかげかもしれないけれど。



検査の当日の空は朝から深い灰色に包まれていた。通勤ラッシュで混雑した南北線を北四番丁で降りる。人混みに押し出されるように改札を潜り、地上に出ると天気は雨に変わっていた。階段から少しだけ伸びた屋根の下で折り畳み傘を広げ、大学病院へと夏希は急いだ。


9時半に病院へと入った夏希を待っていたのはまだ30代ほどに見える医師だった。

久慈武彦(くじたけひこ)といいます」

そう告げた彼からは、これまで会ってきたどの医師よりも柔らかい印象を受ける。それが彼の目によるものだと気付いたのは検査がほとんど終わったころだった。淵の大きい眼鏡の中に仕舞われた瞳は、ミカンとビー玉の掛け算のように見える。まるでそれが久慈の醸し出す雰囲気の源のように夏希には思えた。

 ふいに手にしていたスマホの画面が点き、薄暗い病院の廊下を淡く照らした。ロック画面の時計は19時42分。丸一日を費やした検査は既に終わり、夏希は久慈の診療室前の廊下で彼に呼ばれるのを待っているところだ。すでに一般診療は終わっているのか廊下には人影がほとんどなく、心なしか電気も弱弱しい。そんな夏希のスマホの画面を点けたのは三桜からのLINEだった。「終わったら駅行くから、LINEしてねー」キャラクターのスタンプとともに送られてきたそのメールに夏希の口角が自然と上がる。久慈の話を聞けば、彼に会えるのだ。もう病名が分からろうが、そうでなかろうが、どうでもよかった。早く終わるのなら夏希にはそれで十分だった。

 返事しておこう。そう思って画面に触れ、キーボードが現れるのと同時に

「錦見夏希さんのお母様、一度いらしていただいてよろしいですか?」

スライドされて扉が開き、中から出てきた若い看護師がそう言った。午後から検査に合流し、少し離れた場所でパソコンを使っていた母は、それを閉じて扉へ歩み寄る。夏希も慌ててスマホをバッグに放り込むと立ち上がった。だが

「恐れ入りますが、夏希さんは今しばらくお待ちください」

そう若い看護師に止められ、夏希は固まる。どういうことだろうか、診療室へ入る母と目が合う。僅かに不安そうなその表情は、白い部屋へと吸い込まれ、まるで地獄の門番かのようにゆっくりと看護師は扉を閉める。ガッチャンと扉が閉まり切ると、廊下は再び静寂に戻った。行き場を失った筋肉がすっと引くかのように、夏希の身体は長椅子へ再び落ちる。

親だけが先に呼ばれる。それが実在するのだということと、ドラマが想像以上に現実に即したものであったということに夏希は驚く。本当はそんなことどうでもいい。ただ《《どうでもいいこと》》に気を散らしておかなければ平静を装うことすらできそうにないのだ。この後自分に向けられるであろう現実というガラス片の存在から夏希はひたすらに目を背けていた。



車輪が滑り、重い扉の動く音。そして

「錦見夏希さん、診察室へお入りください」

地獄の門番の声が耳に入り込む。もし立ち上がらなければ、この先の地獄を回避できるんじゃないかなんて、そんなことを本気で思う。それでも竦む足で立ち上がることができたのは、LINEを返し忘れていたことを思いだしたからだ。既読だけついて返事が返ってこないまま、彼を待たせるのは嫌だった。彼がそれだけで気を悪くするような幼稚さを持ち合わせていないとしても、そんなこと気にするなよと笑ってくれるとしても、だ。自分は思っているよりもずっと彼のことが好きなのかもしれない、立ち上がりながらそう気付く。診察が終わったら彼にそう伝えてあげよう。そんなことで恐怖を誤魔化しながら、夏希は門番と扉の前を抜け、診察室へと入った。










結局、その日夏希は三桜にLINEを返さなかった。







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