孤都
梅雨が明けるころには、「紹介状を書きます」だとか「追加の検査が必要ですが…」だとか、責任のようにも、それから逃れているようにも聞こえる言葉が夏希の前には積み重なっていた。
六月の中旬に行った病院では数時間の検査の後に、市立病院を紹介された。
「ごめんねぇ、ここではどれだけ検査しても全く分かりそうにないんだ」
初老をとうに過ぎた白髪の医者は本当に申し訳なさそうに夏希に紹介状を渡した。
紹介された市立病院で夏希を診たのは一転して、随分若い男性医師だった。鋭い眼光に拍車を駆けるようにシャープな眼鏡をかけた彼は、まるで鮫のような印象を夏希に与えた。
「できることは全部やってみましょう」
事務的だか、丁寧な口調でそう言った彼は、言葉通り様々な機械の前に夏希を連れ出した。知っている機器は最初に受けたMRIだけで、他は全て未知。名も用途も知らない機械の前に立って、彼は必ず説明を加えてはくれたが、いかに嚙み砕かれたとしても夏希には全くと言っていいほど理解できなかった。それでも、面倒な行程が終われば何かが分かるのだろうという希望があればそれで充分だった。
だが検査が続くにつれ、その慧眼は曇りを見せるようになった。自信が消え、機械の前でも不安そうな表情を隠せずにいる。そして気付けば若い医者の隣には、気付けば指導医と思しき中年の男が立つようになっていた。
「本当に申し訳ない」
そう謝られた時に、何かを感じることはなかった。彼が手を尽くしてくれたことを知っていたからなのか、それとも彼の能力以上の問題であったのが火を見るより明らかだったからのか、理由は分からなかった。診療室の椅子に下がった頭を労い、まるでなんでもないかのように夏希はその病院を去った。
昔流行ったものを現代風にリメイクした映画を見せられているかのように、そこからは似たようなことの繰り返しだった。新しい紹介状を得ては新しい病院であれこれ機械と対峙し、医者を唸らせ、謝罪と紹介状を貰う。その繰り返し。
三桜から電話を貰ったのは京都の病院での検査が終わった日の夜だった。母は観光に出かけ、一人ホテルの部屋でつまらないテレビを観ていた夏希の心はスマホに表示された彼の名前に踊った。
「やっほー元気?」
普段通りのその口調になんだか急に安心を覚える。思えば三桜ともしばらく会っていない。最後に学校に行った日、もう一ヵ月近くも前だ。全国の病院をまるでたらい回しのように動く夏希は、学校にも行けずにいた。
顔は見えずとも、会話の節々で見せる弾んだ彼の声はその表情を想起させた。部活の大会に行ったこと、二回戦は延長戦の末に負けてしまったのだということ、科学の先生が風邪をひいたこと。
日常の中にいる彼に安心し、その声に落ち着く。それなのに同時に嫉妬が溢れた。彼はなんてことなく学校に通い、部活を楽しみ、私が送るはずだった高校生活を送っている。悲しいような、それでいて怒りのような感情が徐々に大きくなっていく。
「私がいなくても楽しそうだね」
そんなことを急に言ってしまったのは、たぶん湧きあがった感情が嗜虐心として現れたからだろう。彼は何も悪くないのだと、分かっているはずなのに止められなかった。
電話越しの三桜の困惑が分かる。明るい彼の困り眉が目に浮かぶと、急に理性が返って来た。
「そういえば、次の病院は宮城の大学病院だよ!」
理性が慌ててまっとうな言葉を口から出す。
「久しぶりに帰って来るなら、せっかくだし会おうよ」
どうにか取り繕えたようで会話がつながる。
「会う?」
「うん。夏希しばらく学校来てなかったろ?その間にあったこといろいろ教えたいし」
不意に自分のいない教室と三桜の姿が脳裏に映る。彼が授業を受ける姿が、窓によりかかって誰かと話す姿が、女の子に笑う姿が。自分はいなくとも三桜の生活は続いている、その事実が再び理性を沈め、残酷な感情を如実に引き出す。
「何の病気か分かってない人と会って大丈夫なの?」
違う、私が言いたいのはそんなことじゃない。泣きそうになりながら夏希は思う。いいよとか、どこ行こうかとか、久しぶりに映画を観に行きたいなとか。そんな会話でいいのに。そんな会話がいいのに。自分の発した言葉で自分が傷つくということを初めて知った。そして同時に、自分が他人を傷つけておきながら自分の痛みにしか気付けない人間であるということも。
しばらくの沈黙があって「ねぇ」と彼が低く声を出した時、夏希は彼との関係の終わりを悟っていた。自分勝手に傷つけた代償だというのに、頬は強張っていて、その身勝手さが一層夏希には辛い。熱さにぼやける視界が痛い。
「ねぇ、夏希……大丈夫?」
はっと顔をあげてスマホを見つめる。そこには無機質でくだらないデバイスが一つあるだけだったけれど、まるで彼の体温がそこにあるように感じられた。
「夏希…?」
気付けば夏希はしゃくりをあげて泣き出している。だんだん激しく、まるで叱られた子供のように。嗚咽がこぼれ、涙は弛緩した頬をなぞる。
張り詰めていた感情がはち切れたのだと、ようやく夏希は気付く。本当は怖くて、恐ろしくてどうしようもなかった。医者が匙を投げるたびに、本当は泣き縋りたかった。助けてほしいと叫びたかった。それから必死に目を背けて笑顔でいようとするのは、もう限界だった。
泣き続ける夏希に彼はもう何も言わなかった。それでもスマホから漏れ伝わる彼の熱が優しく夏希を包んでいた。
この先何が起きようとも彼がいるならば、私はきっと大丈夫だと夏希には思える。
涙の端に滲む京都の町は、さっきまでの不快さとは別物に様変わりし、温かな光の中にUFOを串刺しにしたような塔が輝いていた。