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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第一章 錦見夏希
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異変

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ベッドの腰掛けてスマホを手に取る。湯船でふやけた人差し指でロック画面を押しやり、そのままLINEを開いた。

 未読は3件、赤字がそう告げている。2件は京子、1件は三桜。

ひとまず先輩とのデートに着ていく服に迷う乙女に返信しよう。京子なら正直何を着てもかわいいのだが、一応真面目に考えねば。少し考え、それからSNSで流行りの格好を見て回る。そのうちいくつかの写真を京子宛ての紙飛行機へと乗せる。だが一度に送り過ぎたのか、紙飛行機型の送信ボタンの上では頼りなさげに白色の円が回っていた。

 

 ふぅっと息を吐いて夏希は乱雑にスマホを横に放ると、仰向けに体を投げ出した。天井の白っぽいLEDが目に入り、その痛みが身体に疲れを連れてくる。疲労はどっと高波のように押し寄せ、身体を走る。もう寝ようかな、と夏希は不意に思う。身体の悲鳴に意識を預ける心地よさに、心が引かれる。それに付け込むようにまどろみが身体を包み始めた。駄目だ、まだすることがある。宿題もまだやっていないし、勉強だってしないと。それに三桜からのLINEへの返事もしていないままだ。それなのに自分の声にまるで耳を貸さぬように、気付けば夏希の意識は完全に睡魔に飲み込まれた。



 はっと目が覚めた。夏希はベッドを横切るように眠っていたようだ。電気が点いたままの天井が、目に沁み、

脳が乾ききっているのか頭が擦れるように痛む。

今何時なんだろう、夏希は無造作にベッドの上を手で探る。頭上から引き寄せたスマホは3:42を示していた。変な時間に起きてしまった。もう一度寝ようか、欲望が一瞬頭をよぎる。でも

「もう目、完全に覚めちゃったよね」


15分ほど二度寝の努力をして、結局夏希は体を起こした。


机に座り、真っ青なチャート式を開く。鮮やかな表紙とは裏腹に、中は淡く淡白な色遣いだ。

込み上げるあくびを噛み殺しながら、夏希はペンを握る。


中学生のころから数学は得意科目の一つだった。複雑な問題文の理解、必要な式と思考の推測、そして秩序だった論理。すべての手順を独りで考えるのは楽しく、自分の頭をまるで機械かのように動かす感覚は気持ちがいい。一度始めれば徐々に頭は問題へ没頭していく、その集中が後から連れてくる疲労もまた夏希には好ましい。

 今日も徐々に脳は数学への傾斜を強めていく。だんだんと他のことへの意識が剥ぎ取られていき、ひたすら目の前の問題に向けられていく。その感覚を頼りに、夏希は右手を強くノートへ走らせた。



「……き……な……なつき……、ねぇ夏希!?」

まるで空間から引っ張り出されるように急激に、夏希の意識は参考書から解かれた。体をねじり、数式の残像を残した眼で声の主を見つめた。

「お母さん?」

そこには心配そうに眉を落とした母親がいた。こんな時間になぜ起きているのだろうか、いや違う。起こしてしまったのだろう。集中しすぎて音には気が回っていなかったし。

「ごめん、起こしちゃった?」

「え?」

母はしかめたような顔を崩さない。怒ってるのだろうか

「だからごめんって」

「ちょっと朝からどうしたのよ、夏希」

どうやら怒っているわけではない母は、困惑を顔に張り付けている。

「起こしちゃったのかなって」

「夏希が?」

「違うの……?」

母の怪訝な顔、声。何か変なところがあるのだろうか。一度目線を自分に戻す。椅子の上でパジャマを羽織った自分に変なところなどない。

「ねぇ、どうした……

母に目線を戻してようやく夏希は違和感に気付き、絶句した。なぜ母はスーツを着ているのだろう、こんな時間に。…………時間?今何時なの?

「ねぇ、お母さん、今って」

「もう8時!遅刻するわよ!」

「うそでしょ!」

「嘘って、夏希、あなたとっくの昔に起きていたじゃない。なにしていたのよ」

机に置かれたデジタル時計も確かに7時50分を刻んでいる。間違いない。

自分はいったいどれだけ集中していたのだろう。最後に時計を見たのは4時前だったから、

「私、4時間もぶっ通しで勉強してたの?」

集中力には自信があったが流石に驚きだ。いやもはや恐怖かもしれない。

「夏希!!お母さん、もう行くから気を付けて行くのよ!カギ閉めるの忘れないでね!!!」

気付けば母は部屋から消え、玄関から扉の開く音が声の向こうで響いた。

「やっばい!」

その扉が再び閉まる音を合図にしたかのように、夏希は飛び上がって用意を始める。右手の凝り固まった筋肉と違和感に過ぎ去った時間を覚えながら。


結局、学校には間に合わなかった。ただ高校入学後、初めての遅刻ということもあってか昇降口に立っていた学年主任の教師にも強く咎められはしなかった。「寝坊ではなく、数学のせいで遅刻した」というのは話のネタとしてはかなり優秀で、それで遅刻は帳消しみたいなものだと、昇降口を潜りながら夏希は思う。





「ねぇ、夏希?ほんとに大丈夫なの?!」

意識が急速に参考書から離れた時のその感覚で自分が《《またやったのだ》》と分かる。用意を急がないとな、そう思いながら振り返る。

「夏希?」

怪訝でも、困惑でもない。そこにいた母の顔に浮かぶのはほとんど泣きそうな歪んだ表情だった。時間だ、そう直感し時計に目を素早く送る。

「6時……?」

「本当に一度も気付かなかったの?」

その言葉に夏希は今が夕刻の6時であることを悟る。そして冷静な悟りは徐々に恐怖へと変わっていく。



高校に入って初めて遅刻した日から2か月弱の間に、あの奇妙な状況と感覚を夏希はなんども経験していた。徐々に頻度は高まり、時間は延び、意識は深化していく。

そしてついに夏希は自分のあずかり知らぬところで、一日を終えようとしていたのだった。


母によれば、夏希は8時頃の母からの呼びかけにいくらか反応し、それを見て彼女は出勤した。当然母は娘が普段のように鍵をかけ、登校したものだと思っていたようだが、夕刻になって帰宅するとそこには朝と同じ姿勢で机にかじりつく娘の姿があったのだという。


「ねぇ、どうなってるの?」

母からの問いに答えられる何かを夏希は持ち合わせてはいない。ただ背を伝う冷え切った汗が、身体に巣食う何かの輪郭をなぞるようだった。急に休んだりしてみんな心配してるかな、現実や心ととまるで乖離するかのように、頭はそんなことを考えていた。




病院に行くことにしたのは、その次の日だった。今度はちゃんと学校に欠席連絡を入れ、そういう日に限って時間通りに行動できたのだけれど、普段よりもゆっくりと家を出た。


「今日は何か変なところないの?」

信号に止まったタイミングでハンドルを握る母が、バックミラー越しに尋ねる。

「うん、今日は特に異常なし!」

わざとらしいぐらいに明るくそう答える。

「そう、ならいいけど」

運転中だからか、それとも娘に気を遣ったのか、母は振り返ったり、重ねて聞くようなことはしなかった。ただその目線が何度もミラーの中の娘へと向いていたことを夏希は知っている。


その視線を避けるように視線を外に逃がす。車はそれを待っていたかのように走り出した。


 丘陵地を出た車は、狭くくねった道を進む。舗装もちゃんとされているし、交通量だってそれなりに多い道路なのだが、やたら細い。周囲にはひたすら背の低い稲を抱えた水田が広がっている。

 自分はどこかおかしくなってしまった。疑いようのない事実に、夏希の心はどうしようもなく乱される。普段は好ましい広々とした田園風景も、今日は時間の動かないあの感覚が呼び起こされるようで気がめいった。確かな名前をもって正体を知って、薬でも飲んで直す。求めるのはそれだけだった。とにかく何も知らないままに時が進んでいくという恐怖に比べれば、病気など易しいものに違いないのだから。


 


 車はようやく田んぼの群れを抜けると、街へと入った。















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