晩春
下駄箱を閉め、靴を履きながら校舎を出ると僅かに肌寒い風が洋服を包んだ。
「うわ、さむぅ」
夏希を追うように飛び出してきた京子は肩を縮こませる演技をしながら大袈裟に声を出した。
「こんなんで寒くてよく冬の間に死ななかったよね」
彼女が大袈裟なことを言うのは、こういう適当な返しを求めている時だ。
「ほんとだよ~。死ぬ思いで冬を越したのに春になっても寒いなんてやってられない!」
言葉ではそう言いながらも彼女は随分と楽しそうだ。羽があったら空を飛び、ヒレがあったら海を泳いでいたんじゃないかと思うほどのハイテンション。だが惜しくも彼女は羽毛も鱗も持ってはいなくて、ただピョンピョンと夏希の前を跳ねるだけだった。
「なんかいいことでもあったの?」
男の子だろうな、そうだいたい察しは付く。
「うーん?知りたい?」
まるで餌を前に《《待て》》をされた犬のように彼女は尻尾を振る。どうやら聞いてほしいらしい。
「知りたい、知りたい。何があったの?」
わざと呆れた風を装って尋ね返す。どうやらそれで彼女は大いに満足したらしく、しょうがないなぁと間を置いた後
「実はね、彼と二人で遊びに行くことになったの!」
やっぱりそれだったか
「彼って……この前言ってた先輩?」
「そうそう、勇気出してLINEで誘ったらOKだって!」
「よかったじゃん京子!」
紅潮させた頬に両手を当てた彼女はまさに「幸せ」を具現化しているかのようだった。
「あ、時間!バス来ちゃう!!それじゃあ夏希また明日ね!!」
ハイテンションのままドタバタと京子は道路へと続く階段を駆け下りていった。
高校に入って知り合った三宅京子は嵐のような性格をした女の子だった。混濁した感情が表情にそのまま投影される彼女のことを錦見夏希はすぐに好きになった。京子が自身のことを大人な性格だと勘違いしていることも含めて。
「さて」
私も帰ろう。
腰の前ポケットに手を入れ、スマホを取りだす。青とも白ともつかぬ色のスマホは、夕日の下では白っぽく見える。そんな少し不思議な色の、お気に入りのスマホで夏希はLINEを開き、ピン止めした一番上の人物へ電話を掛けた。
「……もしもし?」
僅か数コールで三桜は電話に出た。部活はもう終わったようだ。
「もう部活終わったけど、そっちは?」
「こっちももう終わったから、着替えたらすぐ行く!」
三桜の後ろからは折り重なった男子の声と、部室を満たす熱気が伝わってくる。「晴斗、彼女?彼女?」「俺にも電話代われよ」背後のそんな声を掻き消すように三桜は声を張った。
「それじゃあ、着替えたらすぐ行くからちょっとだけ待ってて!!」
慌てたようにすぐ、彼は電話を切った。
「お待たせ」
夏希の想像よりも三桜の《《ちょっと》》はすぐだった。電話が切れてから僅か二分ほどで彼は昇降口の前に現われたのだ。いや、急いでくれたのだろう。夏希の目前でベルトを調節する三桜の姿がそれを物語る。ゆっくり着替えてくればよかったのに。そう思わず笑ってしまった夏希とベルトから顔を上げた三桜の視線が重なる。夕日の薄れた空の下で、良く日焼けした彼の顔が見えた。
「よし!帰ろうぜ!」
そう言うと三桜は駐輪場の方へと踵を返した。
「京子って三宅さんだよな?」
「うん、そうそう。先輩と出かけるんだって」
「それで今日あんなにはしゃいでいたのか」
京子と同じクラスの三桜もそう感じていたらしい。
「京子かわいいけど、結構分かりやすいよね」
京子が男子に人気だというのは普通に生活していれば分かる。彼女に見つめられると同性の夏希ですら心臓を掴まれるような感覚に陥ることがあるほどだ。
それなのに彼女自身は周囲の好意にあまりに無頓着だ。追いかけられることに興味がなく、自分から他者へ向かう感情を好む。それが三宅京子だった。
「そういう他人からの恋愛感情に興味がなさそうなところが三宅さんらしいよね」
会話のキャッチボールにしては長すぎるような間を置いて三桜が声を返してきた。
「遠投」と夏希が密かに心の中で呼んでいるこの行為を三桜は時々会話で見せる。夏希が心中で独り、考え事をしている間、彼は会話を止める。そして思考が一転した頃をめがけて、返球を寄こすのだった。
彼との仲がここまで深くなったのも、きっと彼の《《遠投》》によるものなのだろう。
自分のペースを乱されることを嫌っていた夏希は、誰かと深く関わることを避けていた。考え事している時に話しかけられることも、読書の邪魔をされることも、騒々しい環境も、誰かとの深い関わりがなければ避けられるとそう信じていたから。
そんな自分にとってただ一人、距離良く付き合えたのが三桜晴斗だった。
中学一年の秋、クラスに転校生が来た。もっとも友達のいなかった自分には誰が転校してこようと関係のない話だ、そう思っていた。ところが夏希の想像は思わぬ形で裏切られる。
三桜が転校してきたその日の放課後、夏希は担任に呼び出された。新任だったか二年目だったか、まだ若いそして綺麗な女性教師だった。夏希が呼び出された音楽室準備室へ行くと、彼女は分厚い書類の前で眼鏡をかけ、険しい顔をしていた。
「あぁ、錦見さん」
入り口に立った生徒に気付いた彼女は、すっと眼鏡を取って立ち上がった。一瞬見えた難しさはその顔にはもう無く、ただ美しい音楽教師がそこにはいた。
「ごめんね、わざわざ放課後に呼び出したりして」
入り口の方へ歩みよりながら話す彼女の手に西日が当たってきらめく
「いえ………それで……」
「うん、すぐ話すね。話っていうのは今日転校してきた三桜君のことなんだけれど」
足を止め、今度は真っすぐ夏希に目を合わせる
「はい」
「実は彼のご自宅が、夏希さんのお家のあるマンションと一緒なの」
「え?」
「それで先生からお願いなんだけれど、毎日じゃなくてもいいから、時々一緒に帰ってあげてほしい」
眼前の教師が何が言いたいのかよくわからない。小学生の集団下校じゃあるまいし、転校生だろうと家ぐらいまでは一人で帰れるはずだ。夏希の沈黙を彼女はどう解釈したのか、眉尻を下げた
「面倒な頼みだっていうのは先生も分かってる、だけど錦見さんにお願いしたいの!」
美しい顔にしわを引いて頼まれても困る。どう考えても自分向きなことではない。ただでさえ友達がいないのだ。帰り道を誰かと上手く過ごせるわけがなかった。
「いつもとは言わない。時々でいいか
「分かりました」
え?私、何言っているんだ?
「え?」
「いや、だからわかりましたって」
「本当に……?」
「はい」
夏希には自分が信じられない。つい先刻まで断ろうとあれほど強く思っていたはずなのに、口が勝手に了承していたのだ。今ならまだ間に合う、やっぱり無理ですと
「ありがとう錦見さん」
三度、いつもの美しい顔に戻って教師は笑う。あぁ、もう手遅れだ。
「きっと三桜君はいい友達になってくれるわよ」
当時のひねくれた夏希をもってしても、流石にここで断ることなどできなかった。
夏希にとって良かったのは、家の近い異性と一緒に帰るということに特別な理由がいる年頃ではまだなかったことだろう。近所の子同士は夏希に限らずみんな一緒に帰っていたから、自分だけが《《浮く》》ということは無かった。
そうして、夏希は三桜と一緒に帰るようになった。
今思えば、あの時の担任は夏希にチャンスをくれたのだろう。他人と関わるチャンスを。
当時、自分は他人を避けていると思い込んでいたが、実際は逆だった。面倒で偏屈な錦見夏希は、周囲から避けられていたのだ。きっと自分が一番そのことに気付いていて、だから自分を守るために人と関わりたくないという嘘をついていたのだと今ならわかる。あの時音楽教師の提案を承諾したのも、きっと本心では友達が欲しかったからに違いない。
もっとも当時の自分はそのことにまだ気付いてはおらず、彼との帰り道は嫌々なものだったのだが。
だが三桜との帰り道は、夏希の中での彼の存在を徐々に移ろわせ、捻れた性格をほぐしていった。
あまり時間を経ないうちに、夏希は彼がいかに居心地の良い相手なのかを悟る。気負いも、心配も、退屈も彼といると感じない。退屈に花が添えられ色付くように、夕日と冷気に包まれていただけの帰り道は徐々に居心地の良い空間に変貌していった。そんな彼との時間は確実に夏希の偏見と価値観を揺らしていく。多くの人よりもはるかに遅く、そしてはるかに時間を要して、それでも夏希は他人との関わり方を覚えていった。
それから二年以上の時を経て、高校生となってもなお夏希は彼と下校を共にしている。もう子供じゃないのだ。互いの心中にある意識に、少なくとも夏希はもう気付いていた。
「それで、今日の部活はどうだった?」
やっぱり私の回想が一段落するのを待って彼が話を振る。
「私?」
「そりゃあ、そうだろ」
たしかにそうか。普段京子といると男の子が夏希自身の話をしないことに慣れてしまう。別に彼女を僻むつもりもないし、男の子を非難したいわけでもない。ただ、ただ少し寂しくはあった。まるで誰も私には興味がないと言われているようで。だからこそ自分の話をさせてくれる三桜のことを一層好ましく思える。
「うーん、特に変わったことはなかったよ。いつも通り」
「普通とかいつも通りとかは赤点の返事だね。何かしらはあったでしょ」
「うーん……なんだろう。のんびりしてただけだからなぁ」
なにかあっただろうかと思い返しても、やっぱり何もない。夏希の所属する文芸部はお菓子を食べながら本を読んでいるだけの部活なのだ。今日やったことなんてポッキー食べながら小説を読んだぐらい。あ、でもそういえば
「今日、三桜練習しているところ見たよ、窓から」
「俺が?」
「そうそう。なんかよくわかんないけど、たぶんシュート決めてた」
そう伝えると三桜は下唇を噛んで夏希から目を逸らした。これが彼の恥ずかしい時の癖だった。三桜が部活でやっているハンドボールのことを夏希は正直何も知らない。サッカーとバスケを癒合したようなスポーツだと彼に教えてもらっただけだ。だからなぜ普段は校庭で練習しているのに時々体育館でやっているのかも、なぜあんなにも部活の後に手を洗っているのかも分からない。そしてなぜ彼が中学までやっていた野球をやめてしまったのかも。
「かっこよかった?」
目線をようやく戻した三桜の顔には山からこぼれた夕日が当たり照っている。
「うーん、微妙」
何だよーと冗談のように三桜は笑い、顔をしかめる。本当はどうだったかなんて、彼は知る必要がない。私が知っていればそれで充分なのだから。
ガゴンと音がしてペットボトルが下へ降った。財布をしまいながら取り出し口へ手を伸ばし、冷え切ったジュースを引き抜く。バナナジュース、それも科学の色をした。人工甘味料だとか、読んでもわからないカタカナで構成されたこの飲み物が夏希の大好物だ。すぐに両手を絞るように捻ってキャップを開けると、そのまま口へ運ぶ。甘ったるい液体が口に流れ込み、鼻に本物のバナナとはいくらか違う香りが広がる。この瞬間がたまらない。
「なんだかなぁ」
甘さを孕んだ口が自然と声を出し、ただその音は駐車場の砂利に阻まれ消えた。
毎週火曜日の帰り道、塾に行く彼と別れた後にこの自販機に来ることがここ数か月の夏希ルーティンになっていた。普段であればマンションのエントランスまで一緒の帰り道が、その日だけ十分程短い。寂しさとも妙な解放感とも違う気持ちに包まれる、普段より静かな帰り道。そして夏希は理由も無く、この駐車場の隅に据え付けられた自動販売機のところへ来るのだった。
いいところだと夏希は思っている。駅のすぐ近くでありながら車の往来は少なく、それでいて見通しも良い。女子高生のティータイムに砂利敷きの駐車場はちょっと変なのかもしれないけれど。
ただ、夏希は一度も三桜をここに連れてきたことがなかった。なぜなのか理由はよくわからない。彼との帰り道に駐車場の脇を通ることはあっても、自動販売機へ誘うことも、火曜日の日課を話すこともなかった。今、少し考えてもやっぱりわからないままだ。
「理由なんてないのか、な」
独り言を他人に聞かれる心配がないのも、ここの良いところだ。