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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
プロローグ
1/36

薫風

かごを机に置くと、すっと身体から力が抜ける。それをまるで可視化するかのように町田莉子は長く息を吐いた。

今日は水曜だから……よし、一時間目はない。机の前に張ってある時間割を確認して莉子は椅子を引いた。


 ノートパソコンの電源を入れると自動更新が始まる。生徒たちへのITデバイスの配布に合わせて一新された教員用のパソコンは前のモノと比べるとはるかに高性能だ。ホーム画面にたどり着くまでに長々と待つ必要もないし、毎日のように更新強いられることもない。だからこうやってパソコンの起動を待つというのは随分久しぶりなことだった。

「町田先生、コーヒー飲みますか?」

パソコンに表示される更新のパーセンテージを見ながら体を伸ばしていた莉子にふと後ろから声が掛かる。

体を起こして振り返ると、そこには缶コーヒーを持った同僚が立っていた。

「えっと…?」

「缶コーヒー、飲みます?」

右手のコーヒーを差し出しながら僅かに首を傾けたのは久垣先生。莉子よりもわずかに、確か3歳ほど若い社会科の教員だ。

「コーヒー…ですか?」

「はい。実は昨日の夜に買っていたのを忘れて、さっきもう一本買ってしまったんですよ」

名前が《《宗》》なだけあって、《《爽》》やかな笑顔を彼は向ける。高校生の時にこんな先生がいたらきっと好きになってたんだろうなぁと思わせる、そんな整った顔だった。実際、女子生徒はもちろん女性教員にも彼の熱心なファンがいるというのは有名な話だ。中には彼が好きだと公言する者までいるというのだから驚く。イケメンに限らず、美男美女というのは日常生活を送るのも大変そうで気の毒だ。それにしても

「一本は明日飲めばいいんじゃないですか?」

缶コーヒーであれば今日でなくとも、というか半年ぐらいは置いておけるはずだ。かなりストレートに疑問をぶつけると彼は少し困ったように眉を下げ、うーんと少し唸る。

「確かにそうですね…………そうなんですけど!いやでも、きっと明日も買っちゃうような気がするんですよ!なので誰かに飲んでほしいんです!」

まるで何かに焦っているかのように、およそ国語教員の莉子としては看過できぬような文法で彼はまくし立てる。僅かに上気した顔は、ほんのりと赤い。なぜ彼がそこまで必死なのかは分からない。もっとも莉子にも頑なに断る理由など無い。

「…本当に貰っていいの?」

「はい!先輩にはいつもお世話になっているので!」

「じゃあ、貰おうかな。ありがとう、今度何か返すね」

そう言って受け取ると、久垣は満足そうに自席へ戻っていった。彼は本当に教師なのだろうか。彼と話していると時々、まるで年の離れた兄弟と話しているような感覚になる。なんというか歳不相応の幼さが垣間見える気がするのだ。普段生徒の前では見せない欠点のようなものが。


 「そんな風に他人の心情を読み取ろうとしてしまうのは、本を読みすぎる人の欠点かもね。」手に伝わる缶の冷たさに混じって不意にそんな言葉が胸中に蘇る。誰に言われた言葉だっけ、記憶を探っても思い出せない。いや実際は分かっている。脳裏で再生された声はかつて交際していたある男性のものだったのだから。

 胸の奥で何層にも覆われた《《彼》》の記憶に意識を向けた途端、薄れて混濁した彼との思い出が一気に胸へと流れ込んできた。壊れたDVDを無理やり回しているかのように途切れ途切れの映像がよぎっては消える。彼の声を聞くだけで幸せだった時が、何かにぶつけた怒りが、そして激しい絶望が呼び出され感情を滅茶苦茶にする。胸が痛い。息ができず、莉子が抵抗できない間隙を縫うように洪水は首を飲み込み、頭へと迫る。まるで足を取られて立ち上がれないかのように、なすすべがない自分に焦燥が募っていく。

一度発生した思い出の洪水を処理することが容易では無いことを莉子は知っていた。そしてそれ以上に復旧が難しいのが洪水が頭にまで達した時であることも。だからこそ彼の記憶を慎重に胸の地層処分場の奥深くに埋め、気付かないふりをしてきたのだ。


何か気を紛らわさないと、焦燥が広がり身体を包む。その時、狭窄する視界にふと手元が映った……!


莉子は慌てて記憶の淵を離れると、左手の人差し指に力を込めた。

プシュッっと威勢の良い音がして、貰い物の缶コーヒーが開く。


 その音が契機となった。記憶の濁流は急激に衰え、頭へ到達する直前で引き始める。やがて胸に、荒れた跡だけを残して消えた。

 危なかった、そう思いながらコーヒーを口へ運ぶ。いつの間にか乾いていた口内が潤い、意識はまた少し彼から遠ざかる。これでもう大丈夫だろう。ただえぐられた胸が痛いだけなのだから。



仕事、しなきゃな。ようやく莉子はパソコンへと目を戻した。


 

 だが眼前の画面には無機質な57%という数値が映し出され、未だ真っ青だった。長いな、とコーヒーを左手に持ったまま視線を外へと放る。職員室の中でも窓側に位置する莉子の席はぼうっと外を見るのによく向いていた。

 窓の外は絵の具の原液そのままのように鮮やかなスカイブルー。春の暮、梅雨の暁。長い連休が明けて、ようやく新学期が落ち着き始める、そんな五月の終わり。

 大学入試はいまだ遠く、高校入試は終わったばかり。教員も生徒も皆、モラトリアムを味わうことのできる季節だと、新任のころの自分だったら考えていたはずだ。だが今は違う。高校の教員に楽な時期など無いと知ってしまったから。

 昼寝をしたくなるような風と気温、暖かい日差し。それらは現と夢との境を曖昧にしてしまう。妄言と言い切りたくなるような今後を進路希望調査の用紙に書く生徒がいるのもこの時期だった。まるで実力にそぐわない志望大学で希望欄を埋めた紙を出してくる生徒もいれば、はたまた何も書かずに白紙で提出する者すらいた。もちろん、それは彼らなりによく考えたものなのだろうが、現実は彼らの熟考など関知してはくれない。

だからこそ担任としてできる限り彼らの言葉に耳を貸し、知恵を絞らなければいけない。この世界で実現可能な、少なくとも可能性がある進路に向かうことができるように。


 ただ時々分からなくなる。私のやっていることは本当に正しいのだろうかと。

 新任の頃に比べればずいぶん仕事にも慣れた。毎日のように起こる問題や変わった生徒、意味の分からないクレームにも身体は順応した。しかしそれが教員としての成長なのかは分からない。普段は忙しさに相殺されて、気付くことのない不安。それが生徒の進路のこととなると如実に表れるのだった。

 私は他人の人生を現実の型にはめようとしているだけなのではないか、本当は可能性を潰して回っているのではないか。そんな不安ばかりが付きまとうのだ。

 かつてはこんなことなかった。自分のしていることに自信があって偉そうに他人に口出しできて、そのことに疑いすら持たなかった。それが今では躊躇いばかりになっている。

 雲一つない晩春の空が恨めしく感じられて、それを誤魔化すようにコーヒーを一気に飲み干す。首をもたげると視界から空は消え、薄汚れた職員室の天井が代わりにそこを占めた。


ピコン!!

まるで莉子がコーヒーを飲み終えるのを待っていたかのように更新が終わり、青かった画面がロック画面へ移る。

そこには数年前、自分が受け持った三年生の晴れ姿があった。スーツにドレス、袴。莉子もスーツに身を包んでいる。卒業式と書かれた舞台看板の下で思い思いに涙と笑顔を浮かべた写真。

「懐かしいな」

ロック画面で毎日見ているはずなのに思わず見入ってしまう。一人一人名前を思い出すように見つめていく目が不意にある男子生徒の前で止まる。三桜晴斗(みおはると)。一年から三年まで持ち上がりで担任した男子生徒だった。

 彼は東大進学者も輩出するこの学校でとりわけ目立った存在ではなかったはずだ。もちろん彼は高偏差値の学校に通う《《賢い》》高校生なのだが、その中では凡庸な部類だった。


そんな彼を莉子が今でも鮮明に覚えているのは、きっと私がまだ迷っているからなのだろう。あの時彼に話したことが本当に正しかったのかを。






手を止めた莉子を待つことなく画面は再び暗転し、あの頃よりも歳を重ねた自分の顔だけがそこに残った。




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