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7.森

 (中学生・松野モコ)

 

 子供の頃の思い出を話そう。

 わたしは、森の中にいた。とても暗い、夜の森。わたしの傍らにはお母さんが。お母さんの様子はなんだかおかしくて、そのいつもとは違う雰囲気に不気味さを感じたわたしは、少なからず脅えていた。

 とても遠くの何処かから、お母さんを探す声、呼ぶ声が聞えた。わたしはそれに戸惑って、お母さんに大丈夫なのかと尋ねたりした。

 お母さんは言う。

 『大丈夫よ。大丈夫だから、モコちゃんはお母さんと一緒にいればいいの。お願いだから、傍を離れないでね』

 辺りは暗闇で、微かな視界は、おぼろげにしか周囲を映さない。お母さんの持っている懐中電灯だけが頼りだった。

 その内に、遠くからの声にお母さんを呼ぶ声だけじゃなく、わたしを呼ぶ声も混じり始めた。声は、お母さんを呼び、わたしを呼び、そして、更には、お母さんにわたしを返すように訴え始めたのだった。わたしはそれを聞いて、いよいよ不安になった。

 『大丈夫なの?』

 と再び聞く。

 『大丈夫よ。お母さんを信じて』

 そう言うお母さんの様子は尋常じゃなかった。声は震えていて、目は血走っている。懐中電灯の光によって、下から照らされて見えるその顔は、確かにお母さんの顔であるようにも思えたけど、同時に捉え難い、全く別の異質なもののようにも思えた。まるで、何処か知らない遠くの世界からやって来た化け物みたい。

 わたしはお母さんの手に掴まって、俯いたまま、妙な想像をした。これは、お母さんじゃない。お母さんはもっと優しくて、温かいもの。この、何かは、きっとお母さんの振りをした妖怪なんだ。妖怪が、お母さんに化けて、わたしを妖怪の世界に連れ去ろうとしているんだ。だから、みんなは、必死にわたし達の事を探しているんだ。

 その時、わたしは頭に鋭利な冷たさを感じた。びっくりして上を向くと、お母さんの口から涎が垂れているのが見えた。だらしなく、半開きになった口から、お母さんは涎を垂らしているのだ。それは、わたしの記憶しているお母さんには、絶対に有り得ないはずの光景だった。

 怖かった。それで、もうわたしは完全に、これがお母さんだとは思えなくなってしまったんだ。そして、わたしは確信した。

 逃げなくちゃいけない。

 このままついていけば、きっと食べられてしまう。

 わたしは機を見て、お母さんから手を離すとそのまま逃げ出した。夜の森の中を。わたしが逃げ出した瞬間に、お母さんは絶叫した。それは狂気的な悲鳴だった。『モコちゃん! 何処へ行くのー!』。わたしは大人では通り難そうな、長けの低い潅木の下を通ってお母さんから逃げた。お母さんが、後から物凄い勢いで迫ってくるのが分かる。お母さんはずっと叫んでいた。『何処へ行くの?モコちゃん?お母さんはココよ。お母さんはココよ』。その泣き出しそうな声にわたしは困惑した。恐怖もより一層に感じたけど、それと同時に、戻ってあげたくなる気持ちも膨れ上がってきたからだ。

 

 『お母さんを、置いていかないでー!!』

 

 ……そこから先の記憶は、とても曖昧ではっきりとは思い出せない。なんとか逃げ切れた事だけは覚えている。気が付くと、わたしは大勢の大人達に保護されていて、お母さんはそのまま行方不明になってしまった。それから二度と、お母さんはその森の中から戻っては来なかったのだ。――或いは、本当に妖怪の世界に行ってしまったのかもしれない。

 お母さんが、どうしてそんな行動を執ったのか、その原因は後で教えてもらえた。お母さんは、精神に異常をきたしていたらしい。その当時、社会問題にまでなっていた新種のウィルスが伝染する事によってかかってしまう、ケッカイ病という名の恐ろしい病の所為で。ケッカイ病は、初め熱が出てそれが進行すると、徐々に精神が侵されていくという独特の症状があって、お母さんもそれにやられていたのだった。

 大人達は、病院から逃げ出したお母さんを保護する為、わたし達の事を必死に探していたらしい。早く見つけなくては、お母さんの病気がわたしに伝染してしまうかもしれない。それで、わたしを連れて森へ逃げ込んだお母さんの事を追っていたのだ。

 なんでお母さんがわたしを連れて逃げようとしたのかは分からない。お母さんが、一種の強迫神経症のような状態になっていた事は聞かされた。でも、どうして、わたしを連れて行こうとしたのだろう?そして、わたしに何をするつもりだったのだろう?

 “お母さんを置いてかないで”

 その言葉が、今も耳に残って離れない。お母さんは一体、あれから何処へ行ってしまったのだろうか?わたしを置いて……。

 この出来事を、わたしはきっと、一生忘れる事ができないだろう。強烈な体験。だから、それをわたしが思い出すのは別に不思議でもなんでもない。でも、それでも、最近おかしいんだ。何か、不当にその思い出を刺激されているような感覚がある。不思議な話なのだけど。しかも、その感覚に襲われるのは、朝目覚める時が一番多い。では、わたしが、夢の中でお母さんの事を思い出しているのかというと、それも違う気がする。もっと違う、別の夢をわたしは見ているように思う。はっきりとは思い出せないのだけど、わたしは何かとても小さいものになっていて、大きな何かと一緒に暮らしているのだ。……あれは、何なのだろう? まさか、また子猫になっている夢でも見ているのだろうか? そんな気もする。しかも、毎晩わたしは、その夢を見ている。これは、これで、不思議な話だ。

 お母さんがかかっていた病気について詳しく調べてみた事がある。

 ケッカイ病。

 交通網が発達し、各地で開発が行われるようになり始めてから、世界はある深刻な問題を抱えるようになってしまった。それは、新たな病気の誕生と、その蔓延。

 ネットワークが世界各地に繋がり、地球が人間にとって狭くなった事によって、伝染病の伝達速度が飛躍的に上昇してしまったのだ。その為、それを防ぐ事は極めて難しいらしい。その代表例がエイズや新種インフルエンザ。もちろん、病気はそれだけじゃない。次々と誕生する可能性がある。そして、ケッカイ病も、そんな新種の病気のうちの一つだった。

 わたし達の住む知久井市、この場所に、当時何処からか旅行者が持ち帰ってしまったのか、局地的にケッカイ病が蔓延してしまっていた。それで、当時はかなり騒がれていたらしいのだけど、まだ子供だったわたしはその事をあまりよく覚えていない。なんだか、世間が騒いでいたのは分かっていたけど、それがそんな理由からなんて知らなかった。

 ネズミ。そういえば、ネズミを触るなときつく言われていたように思う。このケッカイ病は、ネズミを媒介して感染するらしく、それで、病原体駆除用のナノマシンがかなり広域にばらまかれたとか、そんな話も聞いている。後になって、そのナノマシンには危険な性質がある事が分かって、問題にもなっていたのだけど、結局は何も対策は執られなかったはずだ。

 ……お母さんにも、その問題のあるナノマシンは投与されていたらしい。だから、もしかしたら、お母さんがあんな行動を執った原因は、それだったのかもしれないという話もある。もちろん、病院側は、ナノマシンの影響を否定した。けど信用なんてできない。だから、その真偽は分からない。ところが、お父さんも親戚も強くは追及しなかったので、その話もそれっきり消えてしまった。

 ……ナノマシン・ネットワーク というのを聞いた事がある。よくは理解できなかったのだけど、なんでも、ナノマシンのネットワークの中に、人の人格がコピーされるなんて現象が、それによって起こる事もあるらしい。そして、そのナノネットは、まるで幽霊のように人に影響を与えてくる。お母さんにもナノマシンが投与されていたし、この街全体にもナノマシンは散布されていた。だから、もしかしたらってわたしは考えてる。もしかしたら、お母さんはナノマシン・ネットワークになって今でも存在しているのかもしれない。あの森の何処かで。

 もし、本当にそんなものが存在するのだとすれば、お母さんのナノネットがいるのはあそこしかわたしには考えられない。

 でも、わたしには、それを確かめてみる勇気はない。子供の頃の、あの体験以来、わたしはあの森を酷く恐れるようになってしまったから。怖くて入れないんだ。もし、お母さんがいるとしても、あの森の中にいるのなら、あの時の、気の狂ったお母さんであるような気がする。だから、南海先輩から森の中へ誘われた時も、その誘いをわたしは断ってしまったんだ。

 「すいません。わたし、この森だけは駄目なんです」

 そう言った時、南海先輩は驚いた顔をした。それからゆっくりと普段どおりの柔らかいものに表情は変わっていき、その過程で「どうしてなの?」と、優しくそう尋ねて来た。爽やかに微笑んでいる。わたしは、その笑顔にホッと安心をする。もしかしたら、怒らせてしまったのじゃないか、と不安になったのだ。

 南海先輩は、今は中学を卒業して高校生になっている。憧れているこの先輩にわたしは、今でもこうして時々会っているのだ。

 「いえ、この森、実は子供の頃に嫌な思い出があって、軽くトラウマなんですよ」

 少し誤魔化すようにそう言ってみせた。お母さんが行方不明になった森だとは流石に言えない。

 「ふーん。そうなんだ。猫がたくさん集まって来る面白い森なんだけどなぁ」

 南海先輩は、最近になって、以前にあったようなヒョウキンな部分が少なくなってきたように思う。高校生になって少し大人になったからなのかもしれないけど、それでも、相変わらずの猫好きっぷりに変わりはない。なんでも、森の中が猫の集会場になっているらしく、それを見たいとわたしは誘われたのだ。

 いかにも残念そうにしている南海先輩を見て、わたしは何とかこの雰囲気を誤魔化そうと、話題を探した。それで、ちょっと前に知り合った少し変な男子生徒の事を思い付いたのだ。

 「この間、ちょっと面白い男の子を見付けたんですよ」

 他の男子生徒の話題だけど、でも、猫の話題でもあるからきっと先輩は気にしないだろう。

 「学校に白猫の親子がいるでしょう? 休み時間にわたしが見に行ったら、あの白猫達の世話をしてたんですが……」

 そう。初めはびっくりした。わたし以外の人間が休み時間にあの場所にいるのにも驚いたけど、いきなり皿に盛ってあったニボシを土に埋め始めてしまうのだもの。それで、わたしはイタズラでもするつもりでいるのかと思って、黙って見ていたんだ。すると、どうもイタズラには見えない。カバンから魚肉かなんかを取り出して、ニボシの代わりに皿に乗せている。そのうちに、白猫達がやって来てその肉を食い始めた。その男子は、とても猫達と仲良さそうにしているように見えた。なんというか、まるでお喋りでもしているような感じで。それでわたしは安心して帰ろうかと思ったのだけど、そのままでは、初めの行動がどうにも釈然としなかった。それで、彼にこう話しかけたのだ。

 「なんで、ニボシを土の中に埋めたりなんかするのよ?」

 と。

 すると彼は少し驚いた顔をしてわたしを見たけど、その後で塩分の高いニボシは、実は猫の身体にとって毒なのだという説明をわたしにしてくれた。彼の名前は、樹拓也というそうで、猫の世話は習慣になってしまっていて、ついやってしまっているという事だった。

 猫好きな人だとは思うけど、南海先輩とは違うタイプ。で、やっぱりちょっと変わってる。猫の世話をお忍びでやっているのも、少し変わっていると思うけど、それ以外でも何か不思議な感じがしたのを覚えている。なんとなく、だけど、親近感というか、この人は安心できる、と何故かそうわたしは感じてしまっていたのだ。

 南海先輩は、わたしの話を聞き終わると、何でか微妙な表情を見せた。それから、こうわたしに向かって尋ねてきた。

 「その彼の家、もしかしたら、この森の近くにあるのじゃないかな?」

 はい?

 わたしには、どうして先輩がそんな質問をするのか分からなかった。

 「いえ、そこまでは知りませんが、どうしてですか?」

 すると、ニッコリと笑って南海先輩はこう返して来た。

 「いや、いや、なになに。もしかしたら、知り合いかと思ってね。顔だけは知っている程度の知り合いだけどさ」

 「はぁ」

 わたしは、その先輩の反応を、少しだけ不思議に思った。

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