2.動物愛護
(獣医・柏木幸一)
その日、私の機嫌は悪かった。
原因は明らかだ。これから、ある男の訪問を受けなければいけないからだ。その男の名は紺野といい、ナノマシン・ネットワークを研究している人間だという。詳しくは知らないが、それなりに名の知れた人物という事である。私から、話を聞きたいらしい。
そもそもからして、ナノネット、というのがまず気に食わない。私はナノマシン・ネットワークの自然界における存在を、疑っている人間の内の一人なのだ。
初めは断るつもりだったが、断ると却って不審を呼ぶだろうから、と仲間の一人に忠告をされて渋々その訪問を受ける事になってしまった。どうも、その男のコネクションは広く、警察関係者にまで顔が利くのだそうだ。胡散臭い話である。
聞きたい話の内容は、過去に私達獣医の仲間が共同で行っていた、野良猫に対する伝染病予防運動に関してであるらしい。恐らくは、その時に使っていたナノマシンについて、だろう。いや、それだけとは限らない、もしかしたらその私達の行動を偽善的である、と非難するつもりでいるのかもしれない。それによって、自然界にナノマシンを散布してしまった、と。
気の滅入ることであるが、一般の人間の、動物愛護に対する理解は低い。殊更、傲慢さに敏感に反応をする我の強いタイプの人間達から、私達はこういった種の非難をたくさん浴びて来た。
『あなた達は肉を食わないのか? ならば、それによって、動物を殺しているのじゃないか? 動物愛護を主張しているにも拘らず』
もちろん、私達は肉を食い、そしてそれによって動物を殺している。人間だってこの生態系を生きる生物の一種なのだから、その営みとして動物を殺すのは、必然である。動物愛護を訴える人間だって、例外ではない。しかし、だからといって、私達は、物事を客観視できていない訳ではないのだ。私達は傲慢な潔癖さからそんな事を訴えている訳でも、杓子定規な実質的価値のない倫理を訴えているのでもない!
それが、人間にとって必要な行為だから、だから私達は、それを訴えている。
考えてもらいたい。
小さな子猫が、猫エイズやジステンパーなどで苦しんでいるのを、野放しにしておく社会と、それを救おうとする社会、一体、どちらが人間にとって住み易い社会なのだろう? もし、後者であると判断したのなら、我々はどんな行動を執るべきなのだろう?
生活する上で、人間に余裕があるのであれば、幼い子猫を救うくらいの負担が、我々に少しくらいかかってもいいではないか。
この考えは、動物愛護全般に言える事だ。
もちろん、そこには少なからず自己中心的な発想がある事はある。それは認めなくてはならないだろう。飽くまで、その行為は我々人間の為に行われる行為なのだ。何故なら、私達には、女性男性に拘らず、生得的に母性本能というものがあり、保護欲求対象が苦しむ事に対して、苦痛を感じる仕組みを持っているからだ。動物愛護とは、その苦痛を人間から取り除く為に必要な行為である。少なくとも、私はそう定義する。
だから、それは偽善的な行動などではない。人間の、自分達の住む社会を住み良いものに変えようとする、普遍的な活動の一つなのだ。その理由から、その限界を認めつつも、私はその必要性を堂々と主張したい。
そして、ナノマシンを散布するといったあの行為も、その一つだったのだ。
――私は、もし、その紺野とかいう男が、非難をして来たならば、それだけの事を毅然と言ってやるつもりでいた。しかし、
「母猫が、子猫を殺してしまう事がありますよね? 私、実は子供の頃、そのシーンを目撃した事がありまして、かなりショッキングだったのです。あれは、一体、何が原因で起こってしまうものなのでしょう?」
その紺野とかいう男が訪れ、まず質問をして来たのは、そんな他愛のない内容だった。
私は戸惑いながらも、答えてみせる。拍子抜けしてしまった所為か、その口調は病気の動物を連れて来たお客さんに向けてのと、同じものになってしまっていた。
「母猫が、子供を産んだばかりの状態というのは、子供を護らなくてはならない、というプレッシャーからか、非常に警戒心が高く、普段は立ち向かわないような相手にも攻撃をします。つまり、それだけ凶暴性が高くなっている状態です。そこに、何かしらの要因が重なる。例えば、子猫に人間の臭いがこびり付いている。人間の臭いとは多くの場合、母猫にとって敵の臭いです。すると、その臭いを嗅いだ母猫は、一種のパニックを起こし、その凶暴性を、本来は護るべき対象である子猫に対して向けてしまうことがある。
もちろん、全てのケースに当て嵌まるのかどうかは分かりませんが、今のところ、そんな説明がされているようですね」
紺野という男はそれを聞くと、数度頷いた。
目の細い男だった。微笑みをつくると、その顔はまるで狐のように見える。
「なるほど、その強い母性が、却って悲惨な結果を招いてしまうのですね」
その発言で、私は警戒をした。
こんな事を考えたからだ。
もしかしたら、この紺野という男は、私が人間の母性的性質に着目をして、動物愛護を訴えている事を知っているのかもしれない。私は、様々な場所でその発言をして来た。広い範囲にコネクションを持つらしい、この男がそれを知っていたとしたって別におかしくはない。
「保護欲求というものは、欲求の一種です。それは、欲望なんだ。つまり、自己中心的なものです。だから、暴走する可能性だってある。それは、充分にコントロールされなければいけない。違いますか?」
私は慎重に答える。
「違いませんね。その通りです」
軽く頷き、紺野は続けて口を開いた。
「そして、人間の行動は自然界に影響を与えます。ジャパニーズ・ボブテイルという猫の種がありますね。私などが言うのは釈迦に説法かもしれませんが、名前の通り、日本産の尻尾の短い猫の事です。このボブテイルが生まれた経緯には、猫又の言い伝えが関係している、と言われているのをご存知ですか? 猫又の言い伝えの為に、日本人は尻尾の長い猫を嫌い、結果として尻尾の短い猫の種が誕生したのでは?と言われているそうです。人間文化が、他の動物に強い影響を与えている一つの例でしょうね。もちろん、人間の母性本能だって例外じゃない。それは、動物達に、いえ自然の生態系に、強い影響を与える。人間が保護欲求を生じさせる種ばかり保護していれば、自然界のバランスを崩してしまうかもしれない。ならば、それは抑制されなければいけない」
なんだ、そんな事。
と、それを聞いて私は思った。
台詞とは異なり、紺野の口調は飽くまで穏やかなものだった。そこに、私への敵意は感じられない。しかし、油断してはいけない。この男の弁の方向性は、明らかに私を非難する方へと向かっている。
……野良猫達を病気から救ってやれば、野良猫の数は確かに増えてしまうかもしれない。そうなれば、結果的に保健所に送られ、殺される猫の数も増えるかもしれない。しかし、これとそれとは別問題なのだ。猫の飼い方のルールを徹底するだとか、解決方法はある。――しかし、そう言い返そうと身構えた私よりも早く、紺野は矢継ぎ早に言葉を繋げてきた。
「実は、P―NGFF型というナノマシンのシリーズの一つに、母性本能に着目をしたものがあります。母性本能はストレスに対する耐性を強くし、結果的にそれが免疫力の向上に繋がるので、病原体駆除目的に開発されたこの型に、母性本能を促進させる効果がつけられた。しかし、このシリーズには、後に問題がある事が発覚しました。知っているかもしれませんが、突然変異を起こし易いのです」
私は頷いた。頷くしかなかったのだ。それは我々が用いてきたナノマシンの型だから、私だってそれを知っている。紺野は恐らく、だからこそ、そんな説明をして来たのだろう。私は憤る。そんな事では怯まないぞ、という意志を示す為、平然とこう返してみせる。
「もちろん、知っています。なにしろ、私達が野良猫達への伝染病予防に用いていたのが、そのナノマシンですから。そのナノマシンのシリーズは、神経成長に関わるタンパク質を分泌し、それをコントロールする事で、神経発達を促す。そして、私達が用いていたのは、あなたが仰った、母性本能を刺激するタイプだ」
私はそこまでを聞いて、男の意志を断定した。この男は間違いなく、私を批判するつもりでいる。私の行為を。私の、ナノマシンを散布した、という行為を。軽率だとかいって。だから、それだけ用意周到に調べ上げてきたのだ。
私は自分の視線が自然、鋭くなっていく事を分かっていた。しかし、そう自覚しつつも、そうなっていく自分の表情をどうにもできなかった。男に対しての敵意を明確に示してしまう。ところが、この紺野という男は、その視線を受けても表情を変えずに穏やかに微笑んでいたのだ。あの、狐のような顔になっている。
そして、敵意を抱き始めている私に向かって、こう語りかけてきた。
「P―NGFF型シリーズが、過去にあれだけ広く使われてしまったのは、明らかにナノマシン開発者達のミスです。その頃は、ナノネットの研究などはしていない学生でしたが、それでも、私も少しの罪悪感を覚えます。
あなた達は猫を救いたくて、ナノマシンを投与した。なのに、それによって、猫が被害を受けるケースを新たに発生させてしまったのだから……」
なに?
私は、その言葉にショックを受けた。紺野は私を責めるどころか、自分を悪者にした。私の彼に対する敵意は空振りになり、代わりに、私の中に瞬間的に罪悪感が持ち上がってきた。紺野の発言によって、初めて気付かされた罪悪感。私の罪……。
いや、もしかしたら、これは、私の内に発生した攻撃性が、そのまま私に向かったのかもしれない。
猫。
紺野は確かに、猫が被害を受ける、とそう言ったのだ。
猫が?
私はそれを考えもしていなかった。
そう。何故だか私は今まで、ずっと、それを考えてこなかったのだった。動物愛護の必要性を訴える立場にいるこの私が、猫に被害を与えていた事を忘れてしまっていた。(いや、見ないようにしようとしていたのか?私は)。しかし、考えてみれば当たり前の話だ。問題のあるナノマシンを散布して被害を受けるのは、何も人ばかりではない。
猫も被害を受ける。
しかも、直接、投与しているのだから、ナノマシンの悪影響をそのまま受けるのだ。
私はいつの間にか、顔を下に向けていた。急いで顔を上げると、紺野が微笑んでいた。
「それほど、罪悪感を覚える必要はないと思いますよ。先にも言いましたが、これは明らかにナノマシン開発者側のミスです。専門でないあなた方が、それを信じて用いてしまっていたとしても仕方のない事だ」
そんな問題ではなかった。
私は自分の身を護る事ばかりに囚われ、肝心の猫たちの事を忘れていたのだ。その事実が、私自身を苦しめた。それは、私のアイデンティティーに関わる重要事なのだ。猫達の事が視野に入っていなかっただなんて!
もちろん、人よりも猫が重要だと言っているのではない。猫が、その視野に入っていなかった事が重大なのだ。
私は、けっきょく、猫達の事など考えていなかったのだろうか? 正論だと思って、思い込んで語っていたあの主張は、単なる自己弁護に過ぎなかったのだろうか?
何故、罪悪感を感じていなかった?
猫達に対して。
ならば、
ならば、私は。
「恐怖と怒りとは、かなり似ていて、しかも近しい関係にある感情だそうです。つまり、自分が非難されている、とそう思えば、恐怖が刺激され、怒りも動き易くなる。そして、怒りが反応をしてしまえば、自分自身の行為を省みる心理は働き難くなる。私は、あなたの行為に関して責めるべきだとか、どうだとか、そんな考えは持ってはいませんよ。だから、私に対して怒りを覚える必要はありません。しかし、それでも、あなたが自分自身を非難するのであれば、一つ協力していただきたい事があるのですが。
それで、もしかしたら、あなたの罪悪感も少しは楽になるかもしれない」
それから紺野氏は私に、猫への伝染病予防に用いていたナノマシンの詳しい情報と、それを散布していた地区の情報を求めて来た。そして、何かしら猫に異常行動が観られる、といった情報が入ってきたなら、それを知らせて欲しい、とも。
私は、もちろん、その求めに応じ、約束した。必ず協力する、と。
どうも、私が良かれと思って散布したナノマシンが、何かで悪さをしている可能性があるらしい。彼ははっきりとは語らなかったが、なんとなくそれが気配で感じられた。
紺野秀明。
その名前、覚えておこう。