21.(淵の底)
(子供・松野モコ)
真っ暗だった。
嫌だ。
お母さんがいる。とてもとても恐ろしい顔をしてわたしを見ている。うらめしそうに、にくらしそうに、わたしを見ている。
きっと、お母さんはわたしを嫌いなんだ。だから、それで、わたしを殺そうとしているんだ。
南海先輩が言った。
『お母さんが君を助けてくれるとでも思ったのかい? 残念だね。君のお母さんも、君を取り込もうとしているだけだよ。僕たちと同じさ。君を食べる気なんだ』
“君を食べる気なんだ”
食べられちゃう。
助けて。――助けて 樹君。
そこは冷たい場所だった。とてもとても冷たい場所だった。わたしを包んでくれているはずの温かいものが、逆にわたしを冷たい場所に追いやっている。
なんでだろう?
多分、それは、わたしが悪い子だからなんだ。わたしが悪い子だから、それでお母さんは、わたしを殺そうとしているんだ。わたしがいらなくなったから、わたしが邪魔になったから。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
――でも、いくら謝っても、お母さんはわたしを許してはくれない。
『モコちゃん。こっちへおいで』
お母さんが誘っていた。わたしの事を、誘っていた。あの、恐ろしい顔のままで。わたしはその声を聞いて、怖くなる。まだ、わたしを罰するつもりでいるんだ。お母さんは。
――嫌だ。
そんなモノが、お母さんであるはずがない。だから、あれは化け物なんだ。騙されるな!あれは、恐ろしい化け物なんだ!
『モコちゃん。こっちへおいで』
……なんで、お母さんは、わたしを殺そうとしているんだろう?
わたしは悪い事をたくさんやった。ワガママを言ってお母さんを困らせた。デパートで買い物に出掛けた時、オモチャを買ってと駄々をこねた。病院でさわいで、お母さんに恥ずかしい思いをさせてしまった。わたしにお弁当が必要な為に、お母さんは毎日早起きをして苦労をした。――わたしなんかいなかったら、とお母さんは思っていたはずだ。だって、わたしは悪い子だから。
世界に依存したままでいいと思っていた。いくら迷惑をかけても、大丈夫なんだと思っていた。それでも、お母さんはわたしを許してくれるから。そういう存在だと思っていた。でも、それは間違いだったんだ。
お母さんは。――否、世界は、そんなにやさしい場所じゃない。わたしに、庇護されるだけの価値があるはずもなく、だから、わたしは殺されてしまう。
『モコちゃん。こっちへおいで』
ふざけるな。
お前となんか、一緒になるか!
お前はお母さんじゃない。お前は化け物だ! お前は優しくない。お前はわたしを否定する。だから、わたしは、お前になんか食べられてやらない!
わたしには、価値があるんだ!
わたしには、わたしがあるんだ!
(だから)
反発してやる! 歯向かってやる! 拒絶してやる! 大嫌いなお前を破壊してやる!
『モコちゃん。こっちへおいで』
ごめんなさい。
わたしは、やっぱり悪い子です。
(助けて。樹君)
……お願い。もう言わないで。もう許して。わたしはお母さんが好きなんだ。だから、お母さんがわたしにとって恐ろしい存在であるのが嫌なんだ。
そんなに怖い顔を、わたしに向けるのはやめて!
(助けて。樹君)
――でも。
わたしがそう言う度に、お母さんの顔は醜く歪んでいくような気がした。その度に、わたしを強く求めてくる。
うらめしそうに。にくらしそうに。……そして、悲しそうに。
だから、わたしはわたしを悪い子だと思う。
『モコちゃん。こっちへおいで』
不意に、何か温かいものに、わたしはくるまれているような気分になった。その感触は、まるでお母さんみたいだった。誰かの、腕の中。見上げる。そこにやさしいお母さんの顔があるのを期待して。でも、そこにある顔はよくは見えなかった。視界がなんだか、曖昧になってる。でも、この匂いは覚えている。この匂いは、樹君だ。
――樹君。
『樹君 助けて』
わたしはそう言った。
樹君は、それを聞くとコクリと頷いた。
『うん。助けるよ、モコ』
わたしはそれを聞いて、安心する。だけど、少し不安でもある。ここは、いつもの部屋の中じゃない。森の中だ。しかも、樹君以外の気配もあるような感じがする。匂い。別の。
「どうやら、巧く繋がったみたいですね」
その別の匂いの主は、そんな事を言っている。
繋がった? なんの事?
「よく聞いて下さいね、松野さん…」
しかし、それを聞き終わるのを待たず、またわたしの感覚はおかしくなった。
声はまだ響いていたけど、意識は再び別の場所に飛び始めてる。多分、あの暗い淵に戻っているのだと思う。恐ろしいお母さんのいた、あの、暗い淵の底へと。
『……あなたのお母さんは、あの当時、病に侵されていました。お母さんの顔が恐ろしいのは、その為です。あなたも知っているかもしれませんが、その病は精神までも侵食します。そして、その事によって、あなたのお母さんはとても苦しんでいた。
どんな苦しみや不安が襲っていたのかは分かりません。しかし、自分をコントロールできる状態になかった事だけは確かです』
自分をコントロールできていなかった?
わたしはそれに反応する。見上げる。恐ろしいお母さんの顔を。悲しそうなお母さんの顔を。――苦しそうなお母さんの顔を。
『そして、人には、いえ、子供を育てる性質を持っている哺乳類全般に言える事ですが、哺乳類には母性本能があります。母性本能は利他行動を起こす仕組みのうち、恐らく、最大の効力を発揮するものですが、それは欲望でもあるのです。つまり、何か可愛い対象に触れる事で、人は快感を得る事ができるのです。
更に、その効力は快感を得られるばかりではありません。不安を軽減する事もできる。ストレスに対しての抵抗力を上げるのです。それによって、自らの危険を省みない行動を起こす事もできるようになる。しかし……』
お母さんを、わたしは見続けた。
お母さんは苦しそうな顔をしている。
『子供に対する執着が、悲惨な事態をもたらす例が、古今東西、あらゆる社会に存在する事からも分かる通り、その本能は、時として暴走し、人を問題行動に走らせます。孤独に耐え切れず、子供に依存してしまう親。子供を庇護する事で、苦しみから解放されようとするのですね』
お母さんは、わたしを殺そうとしていたはずだった。でも、それなら何故、こんなに苦しそうにわたしを見ているのだろう?
“お母さんを、置いていかないでー!!”
あの時、わたしが逃げ出した時、お母さんは、そう悲鳴を上げていた。今も耳に残っている、その残響音。
『つまり、苦しみから逃れる為に、親は、子供を求める場合があるのです』
声は、そのタイミングでそう告げた。
それで、わたしは理解をした。
あの時、お母さんは、わたしをさらおうとしていたのじゃないって事を。お母さんは、とても苦しんでいたんだ。だから、それで、わたしに助けを求めていたんだ。
――それなのに、
罪悪感が込み上げてくる。
それなのに、わたしは、お母さんから逃げ出してしまった。お母さんを見捨てた。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい、お母さん。
『モコちゃん。こっちへおいで』
その言葉を聞き、わたしはゆっくりと立ち上がった。
――今度こそ、わたしがお母さんを助ける。
その為に。