20.淵の底
(中学生・樹拓也)
夜の森。
傾斜のきつい斜面をぼくらは降っていた。行き先を案内してくれるモコはぼくが抱えているので一番先頭を歩いてる。続いて紺野さん、それから、星さん。夜の森は暗く、先は見えない。真っ暗な中を進む。
『あっち』
モコが顔を回して、暗闇のその先を指し示す。
暗闇の底を。
紺野さんが後から懐中電灯で照らしくれているから、なんとか進めるけど、そうでなかったらきっと、1メートル歩くのにも苦労するだろうと思う。暗闇の森は、やっぱり怖い。それに、この先に待っているのは、ナノネットで凶暴になってしまった猫の群れだという。紺野さんは心配しなくていいと言っていたけど、そんな事を聞かされて怖くならないはずがない。けれど、それでもぼくの足は急いで進んでいた。どうしてなのかは、自分でも分からなかった。松野さんを助けたいから?それもあるかもしれない。でも、それだけじゃない気がした。
「にゃー」
モコは時折、ぼくにしがみつきながら、そんな声を上げた。少し、怯えているのかもしれない。そんなモコを観て、ぼくの心は少し強くなる。
そう。
ぼくは何故だか、怒っていた。
モコを殺そうとした。
その相手が、この先にいて、しかも、今は松野さんを殺そうとしている。なんだか、とっても嫌だ。
『松野さんは、まだ大丈夫?』
数分置きに、ぼくはそうモコに問い掛けた。モコはそれに『うん』と頷く。
どれだけ進めばいいのだろう? 早く行かないと松野さんが殺されてしまうかもしれない。気が焦っている所為か、降っている時間はとても長く感じられた。ふと、傾斜が緩やかになり始めている事に気が付く。いつの間にか、歩くのが楽になっていた。そして、
「ギ、ニャー!」
悲鳴のような猫の鳴き声がいきなり響いた。ぼくはびくりとしてその方角を見据えた。暗闇。何も見えない。けど、
「どうやら、近くまで来たようですね」
紺野さんがそう言った。見ると、モコの顔もそちらを向いていた。それを聞いて、星さんが紺野さんに言う。
「あの、それなら、明かりを消した方が良くないですか? ここに僕らがいるのがばれちゃいますよ」
「いえ。それなら、もう遅いでしょう。それに、夜目はあちらの方が利きます。暗闇になって有利になるのはあちらの方ですよ。まぁ、逃げられてしまう危険性はありますが、それでも、今の最優先事項は、松野さんを助ける事。猫ナノネットを退治する事じゃありませんから、最悪、それでも問題はありません」
そう言って紺野さんは、懐中電灯の明かりを声のした方に向けた。
瞬間、その明かりに反射して、たくさんの猫の瞳が光るのが分かった。こちらを一斉に見ている。流石に、それを見てぼくは少し竦んだ。怖い。こんなにたくさんいたのか。
「心配ありません」
ぼくが竦んだ事を見透かしてか、紺野さんは一言そう言った。それから紺野さんは、「私から、離れないでくださいね」と、そう言うと、スタスタと猫達がいる方へ向かって歩き出してしまった。ぼくらは仕方なしにそれに付いていく。猫達を見る。光の反射で瞳が全て、ぼくらを…… 否、紺野さんを見ているのが分かった。紺野さんが言う。「さて、どう出ますかね?」。相変わらずに、紺野さんの態度からは余裕が感じられた。この状況に至っても、猫達を冷静に観察している。「ほう、ヘビがいますね。しかも、たくさん。森のナノネットのモノでしょうか。なるほど、森のナノネットは、ヘビで松野さんの事を守っていたのですか。先の悲鳴は、このヘビ達との戦闘ですかね」、なんて独り言も言っている。
でも、少しだけ疑問だった。どうして紺野さんにはこんなに余裕があるのだろう?
モコがぼくの腕の中で身を硬くしている。それをギュッと抱きしめてやる。怖がっている。もしかしたら、近くにいるはずの松野さんの心が強く影響し始めたのかもしれない。
猫達は相変わらずに、こちらを凝視していた。どんどん紺野さんが近付いているのに、身動き一つしない。やがて、すぐ傍まで来ると紺野さんは突然に立ち止まった。辺りを見回す。
「どれが、いいですかね?」
なんて、事を言っている。
どれがいい? 何をするつもりなのだろう?
「――何を、しに来た?」
その時、突然に声がした。そちらに紺野さんは明かりを向けた。すると、少し離れた場所に誰かがいるのが見えた。何処かで見た事のある顔。あれは…… 多分、前に会った高校生だ。ぼくを道で待ち伏せしていた。その少し後には妙に大きな猫がいる。
「おや? 既にヒトも取り込んでいたのですか? これは、危なかった。もっと犠牲者を増やす事になっていたのかもしれないのですね」
それを見て紺野さんはそんな事を言う。その時になって初めて気が付いたのだけど、紺野さんは手に何かの装置を持っていた。いや、持っているのじゃなくて、指に嵌めているんだ。そして、それを翳しながら、高校生に向かって真っ直ぐ歩いていく。
何をやっているのだろう?
僕は疑問に思う。しかし、やがて異変があった。猫達が一斉に、
「ニャー!」
と鳴いて、散っていってしまったのだ。一瞬で森の暗がりの何処かへと消え入ってしまった。
「どうやら、危険だと判断したようですね。でも、少し遅いです」
紺野さんはそれから軽く駆けると、高校生の首根っこを掴んだ。何故か、高校生は少しも抵抗をしない。その様子を見て、慌てて後にいた大猫が紺野さんに向かって飛びかかったけれど、飛びかかったいきなりで、その場に崩れ倒れてしまった。しかも、ピクピクと痙攣している。それと同時に、高校生も、その場で意識を失くして倒れ込んだ。それを見て、紺野さんはほぅっと息を漏らす。
「もう。大丈夫ですよ。猫ナノネットは消去しました。ショックは多少あるでしょうけど、もう、猫達はただの猫に戻ったはずです。この男の子も、そのうち目覚めるでしょう。もっとも、この大猫に関しては、完全に無事とまではいかないかもしれませんがね」
星さんが、その様子を見て目を丸くした。
「あの…… 何をやったのですか?」
もちろん、ぼくも気になっていた。
紺野さんはそれを聞くと、やや自慢げな口調でこう説明する。
「電磁波で、猫ナノネットを破壊する信号を送り込んだだけですよ。猫ナノネットは集中型のネットワークを形成していると説明したでしょう? 全てのリンクは、その中枢となっている猫に結び付いている。その構造は、情報伝達や、システムの形成には役立つかもしれませんが、こんな弱点も持っているのです。その中枢さえ破壊してしまえば、全体が破壊される。そして、どのリンク先もその中枢の近くに結び付いているのなら、何処からでもその中枢を素早く破壊できるのです。もちろん、情報伝達で破壊できる場合のみに限定される方法ですが。つまり、何処を攻撃しても、システム全体を一瞬で破壊できるのですね」
ぼくはそれを聞いて納得した。
なるほど。だから、紺野さんは、あんなに余裕があったのか、と。相手の弱点を、紺野さんは熟知していたんだ。
何にせよ、これでもう大丈夫だろう。しかし、そう思ってモコを見ると、モコは何か訴えかけるような視線をぼくに向け、そして、
『樹君 助けて』
と、そう言ったのだった。
どういう事?
ぼくの不安は、それで再び膨れ上がった。それで、「あの……」と、紺野さんにそれを報告しようとしかけたのだけど、その時に突然「うわぁ」と叫び声がしたんだ。それは、星さんの声だった。
「どうしました?」と、紺野さんが問いかける。
「いえ、ヘビに噛まれそうになって」
そう答える星さんに向けて、紺野さんは明かりを向けた。すると、そこには異様な光景が拡がっていた。
淵がある。その淵を中心にして、扇形に陣取ったヘビの群れがこちらを向いている。そして、少し中心からずれた、淵の岸に、倒れている少女の姿が見えた。松野さんだ。ヘビが、松野さんを守っているのだろうか。
「これは、よくないですねぇ」
紺野さんが顔をしかめつつそう言った。
「何が起こっているのですか?」
どうして、猫ナノネットはいなくなったのに、まだヘビは松野さんを守り続けているのだろう?疑問に思ったぼくがそう尋ねると、紺野さんは淡々とこう説明してくれた。
「森のナノネットは、松野さんを取り込もうとしているのでしょうね。そして、松野さんを我々に取られないように、まだ守っている」
そのタイミングだと思い、ぼくは告げる。
「あの。さっき、モコが、また『助けて』って」
「ほぅ。そう言いましたか。しかし、だとすれば妙ですね…… 森のナノネットは幾らでも情報伝達を妨害できます。なのに、それをしていない。しかし、松野さんを放そうともしない。となると…… もしかして」
紺野さんはそう言うと、考え込み始めた。星さんが、それを見て言う。
「あの… 僕が一度戻って、人を呼んできましょうか?」
「いえ、懐中電灯は一つだけですし。それに、下手に刺激すると、或いは松野さんの命が危ないかもしれません。それよりも、考えるんです。森のナノネットは、松野さんを奪われないようにしてはいますが、我々に敵意はないように思える。そして、我々と松野さんとの通信手段を残している。松野さんを殺そうともしていない。果たして、森のナノネットの目的は何なのでしょうか?」
ぼくはモコを見てみた。モコはまだこわばっていた。怯えている。
「街のナノネットは、それほど森のナノネットを敵視しているようには思えなかった。もしかしたら、森のナノネットは、勢力拡大に意欲がないのかもしれません。極稀に、そういう性質のナノネットがあります。しかし、普通、そういったタイプのナノネットは生き残りません。これほど、勢力が拡大する事もない。では、森のナノネットがこれほどまでに大きくなった理由はなんでしょうか?」
そう言いながら、紺野さんは、倒れた松野さんを見やりました。
「適応障害。人は、あまりに強いストレスを受けると、それが元になって障害を負います。あまりに重ければ、トラウマとなる。しかし、そこまでいかなくても、強いストレスは、人の脳に傷跡を残すのです……。
松野さんのお母さんは、松野さんをさらおうとした時、どんな想いを抱いていたのでしょうか? そして、松野さんにとって、それはどんな体験だったのでしょう? 今のこの状況は、二人にとってそれの再体験なのかもしれない」
紺野さんは、それからぼくを見ました。そして、
「これは“賭け”ですが、やってみましょう。二者間にある齟齬を、取り除きます」