19.奪い合い
(憑人・星はじめ)
『助けて 樹君』
と、子猫がそう言葉を発したのを紺野さんに伝えた瞬間でした。紺野さんは、「走りますよ」と普通の口調のままで言って、突然に駆け出したのです。僕も、樹君という少年も、それに反応し切れず少しだけ出遅れます。
「どうしたんですか? 急に」
車に乗り込んでそう尋ねると、
「急にも、何も、猫が『助けて』とまだ言っているからには、松野さんの命は無事だって事ですよ。手遅れにならない内に、早く助けださなければいけないでしょう? 急ぐのは当然です」
車には、樹君も乗り込んでいました。あの子猫を抱えて。紺野さんは既に車を発進させてしまっています。
僕は視線で、樹君も同行させてしまっていいのか?と紺野さんに訴えてみました。すると、紺野さんはコクリと頷いて、
「はい。森の中の何処に松野さんがいるのかを知る為には、この子猫が必要です。そして、一番、子猫のナノネットに馴染んでいるのは彼です。更に、恐らくは、この子と一緒じゃなければ、子猫は大人しくしていないでしょう。それに、この子自身だって、今一人になれば、森に入ってしまうかもしれない。そうなれば、そっちの方がよっぽど危険です。一緒に来てもらうのが一番です」
僕がコードを身体に取り付け終わると、例の装置が作動し、明確に、森の中へと続く一筋のリンクを画面は映し出しました。
「よし!」
紺野さんはそれを見てそう言います。
街のナノネットの妨害がなくなったのでしょう。
その一連の光景に、樹君は奇妙な視線を注いでいましたが、直ぐに納得したような顔になりました。不審には思われていない様子。どうもこの少年は、紺野さんの事を信頼しているような感じがしますから、そのお陰かもしれません。
……昨日、結局、その日の内に、動物病院の先生と会うことはできず、僕らは面会を一晩待ちました。しかも、今日になったらなったで、動物病院の営業が終わった後でと言われて、こんな時間になってしまったのです。ですが、それでも、この少年の住所を、動物病院の先生から聞き出せただけでも運が良かったと思います。いえ、厳密に言えば運だけじゃないのかもしれませんが。紺野さんがコネやら何やらを駆使して、巧くそういう流れに持っていたのでしょう。そういう事が巧くなければ、意図的に人間関係のネットワークを創り上げるなんて事はできないのかもしれません。……そう言えば、紺野さんは、樹君を説得するのに、少しばかりの嘘を吐いていました。あれも、そういう、人間関係を構築する為のスキルの一つなのかもしれないです。紺野さんは、樹君の家を突き止めたのも、猫を飼っている事を当てたのも、その猫と会話ができる事を当てたのも、全て自分の技術だと言ったのです。本当は、全部、動物病院で得た情報だったのですが。初めは動物病院が患者の情報を漏らした事を秘密にする為かとも思ったのですが、どうもそれだけじゃないような気もします。紺野さんは、もしかしたら、その嘘で樹君の信頼を得ようとしたのじゃないでしょうか? 分かりませんが、少なくとも結果的には、樹君は紺野さんを信頼しているように思えます。
紺野さんは、リンクの流れを辿るような感じで一直線に森を目指して車を走らせました。そして、ある程度進むと、金網のフェンスの前に車を停めます。
「ここからが一番、早いようです」
ドアを開けると、そう言いました。もちろん、森に入るための正規のルートではありません。フェンスを乗り越えろ、という意味でしょう。僕らは急いで車を出ると、金網を乗り越えて、森の入り口に立ちました。金網を昇る時、子猫をどうするつもりなのかと少し心配をしましたが、樹君は少し言い聞かせて子猫を背中に乗せると、器用にそのまま金網を越えてしまいました。少し感心します。中々、大したものです。ナノネットで会話ができるにしたって、本当に、よく馴れている。
森に入ると、紺野さんが言います。
「さて。ここからは、場所を探る為の機械はありませんよ。その子猫だけが頼りです。――場所は、分かりますか?」
それを受けると、樹君は頷きました。
「モコ。場所は分かる?」
モコ。と、呼ばれた子猫は『うん』とそう言いました。そして、それから、
『あっち』
顔で、森の奥を指し示します。
早くに行かねばならないと言っても、夜の森です。紺野さんが大きな懐中電灯を持ってきていましたが、それでも慎重に歩かないと危ない。それほど、速くは進めません。紺野さんは歩きながら樹君に色々と尋ねていました。何処で、どういう状況で、この子猫を見つけたのか、その後はどんな事が起きたのか。松野さんとは何処で知り合ったのか。もしかしたら、猫ナノネットと対峙する前に、できうる限り情報を集めようと考えているのかもしれません。一通り聞き終えると、紺野さんはこう言いました。
「なるほど。大体は、分かりました」
何が分かったのでしょう?
「何が、ですか?」
僕がそう尋ねると、紺野さんは、淡々とこう返してきました。
「この子猫の位置付け。そして、今、何が起こっているのか、ですよ」
それを聞いて、樹君がこちらを向きます。どういう事なのかを訊きたがっている様子。それもあってでしょうか、紺野さんは語り続けました。
「恐らくは、奪い合っているのでしょう」
奪い合ってる?
「森のナノネット。つまり、松野さんのお母さんが元になっているナノネットと、猫のナノネットで、松野モコさんの事を」
パキッ
誰かが枝を踏んだ音がしました。
「樹君が子猫モコを見つけた時、子猫モコは、他の猫に殺されかかっていたそうですね。予想ですが、多分、その前辺りから、その奪い合いは始まっています。松野さんは、恐らくかなりの量のナノマシンを体内に保有しているはずです。しかも、そのナノマシンは、何処のナノネットにも属していない。猫のナノネットが狙っているのはそれでしょう。そして、森のナノネットも、別の理由から松野さんを狙っていた。その理由は、生前の執着。松野さんの母親であった森のナノネットは、娘の、松野モコさん自身を求めている」
「森のナノネットも、松野さんのナノマシンを狙っていたとは考えられませんか?」
その可能性もあるのじゃないかと思って、僕はそう尋ねてみました。すると、即座に紺野さんはそれを否定しました。
「考え難いですね。ナノマシンなら、ここにたくさん繁殖しているし、外部に勢力を拡大したいのなら、わざわざ遠く離れた松野モコさんを狙う理由がないでしょう。それに、これは憶測でしかありませんが、松野モコさんの身体に、ナノマシンを注入していったのは森のナノネットです」
「森のナノネットが?」
「はい。そう考えると、子猫モコの存在がクッキリと浮かび上がるのですよ。
森のナノネットは、松野さんの脳になんとかアクセスをしたかった。しかし、松野さんはナノマシンを保有していない。それで、少しずつ食べ物の中にナノマシンを混ぜたりして、体内に注入していったのでしょう。森から伸びるわずかなリンクを駆使して、街のナノネットに邪魔されないように気を配りながら。長い月日を要したでしょうがね」
僕はそれを聞くと、少し考えてから言いました。
「あの、その時点で、森のナノネットが松野さんにリンクを結ばなかった理由は?」
話を聞く限りでは、それもできたように思います。
「街のナノネットですよ。森のナノネットは、街のナノネットを警戒していたのでしょう。だから、取り敢えずは、ネットワークを結んでいないナノマシンを注入し続けた。それに、森のナノネットが欲しがっていたのは、松野さんの身体ではなく、松野さんの人格そのものでしょうから、その方が或いは都合が良かったのかもしれません。ノーマルのナノマシンが体内にあれば、少しずつ、松野さんの人格をコピーし、やがてはナノネットを形成するでしょうから」
紺野さんがそこまでを語った時、樹君が口を開きました。
「初めてモコを見つけた時、他の猫に襲われていたモコは、とても震えていたんです。何故だかその姿と、自分の母親が森で死んだとぼくに告げた時の松野さんが重なるように思えて」
それを受けて紺野さんは言います。
「なるほどね。それは、あながち気のせいとばかりも言えないかもしれないですよ。樹君が何処まで聞いているかは分かりませんが、松野モコさんは母親に、この森でさらわれかけています」
樹君は驚いた表情を見せる。
「どうして?」
「理由は分かりません。しかし、或いは母性本能が暴走したのかもしれない……。その当時流行っていた病気と、そして、ナノマシンとによって」
その説明を聞いて、樹君は少し考えます。そして、
「モコが他の猫に襲われていたのも、それが原因ですか? ……森の、松野さんのお母さんのナノネットが、松野さんを殺そうとした?」
と、紺野さんにそう尋ねました。
森は更に険しくなっていました。傾斜がきつくなり始め、徐々に崖のようになって来ています。
「断定はできませんが、恐らく、違うでしょう」
紺野さんはそう返します。
月明かりすら届かなくなっていたので、表情は分かりませんでしたが、樹君はそれを聞いて安堵したように思えました。
「松野さんの体内に形成しかかったナノネットと唯一、直接リンクがあるのは、恐らく、この子猫モコの中のナノネットだけです。きっと、松野さんは何処かでこの子猫に触り、リンクを結んだのでしょう。或いは、その時にこの子猫が属していたのは、森ナノネットではなく、猫ナノネットだったのかもしれません。猫ナノネットは松野さんを狙っていますから。しかし、それからこの子猫モコのリンクを、森のナノネットはなんとかして奪い取ったのです。そのままでは自分の娘が猫に食べられてしまうかもしれない。だから、街のナノネットにも気を遣わず、思いっきりやったのかもしれませんね。いえ、或いは、街のナノネットが森のナノネットに協力した、という線も考えられなくはないですが。
しかし、そうして、子猫を奪い取られて、困るのは猫ナノネットです。そうすると、子猫の存在はむしろ邪魔になる。だから、猫ナノネットは子猫の事を…」
「……殺そうとしたって事ですか?」
樹君がそう言いました。少し、怒っているように思えます。
「はい。そして、それをあなたが救った。そうして、救われたこの子猫モコは、松野さんへの唯一のリンクとなったのです。ただ、それは完璧なリンクではありません。恐らく、猫ナノネットに何度も割り込まれているとは思いますが。もちろん、松野さんに直接アクセスした場合もあったかもしれません。
――そして、今。どうやったのかは分かりませんが、この森の中へ松野さんは誘い込まれてしまったのです。子猫モコから助けてくれ、というメッセージがあったという事から考えると、森のナノネットは松野さんを殺そうとはしていません。森ナノネットの立場なら、簡単に妨害ができますから、その可能性は低い。敵は猫ナノネットです」
それから、樹君は黙りました。
やはり、少し怒っているようです。傾斜の急な斜面を、急いで降り始めました。「気をつけて」。紺野さんがそう注意をしました。