18.SOS
(中学生・樹拓也)
『助けて、樹君』
夕刻を過ぎた辺りで、モコが突然にそう言った。ぼくはそれに驚く。病気はもう随分と良くなっていると思っていたからだ。
「苦しいの?モコ」
しかし、ぼくがそう尋ねると、モコはクビを横に振った。
『違う』
違う?
「どういう事? なら、どうして助けてって言ったの?」
ぼくは続けて、そう尋ねたのだけど、その途端にモコの反応がおかしくなった。
『たすケレロ…』
え?
言葉の意味が分からなくなる。まるで、携帯電話がうまく聞えなくなったみたいな感じで、モコの言葉は聞き取り難くなった。
どうしたのだろう?
しばらく問い続けたのだけど、やっぱりモコの言葉ははっきりとは聞えなかった。
『たす… モ』
『はやク』
『コなじゃ』
これじゃ、意味が分からない。
「ギャア」
途方に暮れているぼくの耳に、何処からか、カラスが鳴く声が入ってきた。それで、思う。もしかしたら、これは、あのカラスの仕業かもしれない。いや、例えあのカラスの仕業じゃなくっても、あのカラスなら何かが分かるだろう、と期待して、窓の外を探してみたけど、いつもの木の枝の上はもちろん、窓から見える景色の何処にもその姿は見えなかった。
夕刻過ぎ。窓の外に見える空は、不気味な赤紫色をしていた。何か胸騒ぎがする。よくない事が起こっているのじゃないだろうか?
モコは相変わらずに、ぼくに何事かを訴え続けていたけどやっぱり意味は分からなかった。仕方なしに、いつも通りに夕食を済ませ、くつろいでいると突然に、電話のベルが鳴った。
受話器を取ると、中から聞きなれない女の子の声が聞えてきた。
「もしもし、樹君? 杉村です」
杉村? 誰だろう?
ぼくが返答に困っていると、それを察したのか杉村さんはこう言って来た。
「モコちゃん… 松野モコの友達なんだけど」
ああ、松野さんの。
もしかしたら、以前、松野さんのクラスを訪ねた時に会ったあの女生徒かもしれない。あの子は、何故だかぼくを知っていたみたいだから。
今日、ぼくは学校を休んだ。モコの病気が心配で欠席をしたんだ。だから、その事で何か連絡でもあるのかとも思ったけど、考えてみれば、それなら同じクラスの誰かから連絡があるだろう。不思議に思ったぼくが、どうしたのと尋ねると、
「実は……」
と、杉村さんは説明を始めた。
話によると、どうやら、松野さんが行方不明になっているらしかった。会うと約束をしていたらしい南海先輩という人も一緒に。時計を見る。時刻は既に8時を過ぎていた。確かに、少し遅い時間帯かもしれない。
「樹君。モコちゃんとなんか、仲が良いみたいだったから、何か知ってるかと思って」
そう言われてぼくはビックリしてしまった。松野さんとは最近になって知り合ったばかりだし、それに猫のいる校舎裏の空き地以外の場所では、ほとんど会った事がない。猫のモコなら話は別だけども……。それで、そう返すと、杉村さんは困った声を上げた。
「そう…… モコちゃんのところ、父子家庭でさ、お父さんがとっても心配をしているのよ。それでわたしに電話があったんだけど、どうしたのかなぁ……」
受話器を置いてから、ぼくは嫌な予感を覚えた。モコが言った言葉が思い出される。
『助けて 樹君』
松野さんの名前は“モコ”というらしい。そして、猫のモコは自ら“モコ”と名乗ったんだ。これが偶然じゃないとするのなら、猫のモコと松野さんの間には何らかの繋がりがあるのかも。ナノネット。それを通じての。そして、もしも、松野さんがそのネットワークを利用して、ぼくに助けを求めているのだとしたら……。
だけど。
もし、そうだとしたって、どうすればいいのかはやっぱり分からない。なんとなく、モコを見てみた。モコは相変わらずに、聞き取れない言葉を時々発するけど、それ以外はいつものモコだった。夕食もいつも通りに、というか、いつもよりも元気良く食べたし、遊びも要求してくる。そのままぼくがじっと見続けていると、そのぼくの視線に対して、モコは不思議そうな表情を返した。これじゃ、何も分からない。
ふぅ
それからぼくは、ため息をつくと、モコを抱き上げた。こんな時に限って、カラスは来ない。しかし、それからしばらくが過ぎると、
「ギャア、ギャア」
カラスの鳴き声がまた何処からか聞えて来たんだ。ただ、カラスがやって来る気配はない。だけど、その代わりに、車の停車する音、それに続いて、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。
「ギャア」
玄関に向かう途中で、あのカラスかどうかは分からないけど、また鳴き声が聞えた。少しだけ不安になる。それで、普段は滅多にしないのだけど、何だか不穏な気がしたので、ぼくは誰が尋ねてきたのかを、一応レンズ越しに確認してみた。
すると、目の細い見知らぬ男の人と20代くらいの男の人が、玄関先にいるのが見えた。危険な人達には見えない。ただ、それだけで安全だとは言い切れないので、取り敢えずは、インタホーンで話す事にした。
「あの、どちら様ですか?」
と僕が尋ねると、目の細い男の人が「失礼、私、ナノマシン・ネットワークを研究している紺野という者です」と、そう言って、レンズの前に自分の名刺を差し出した。
紺野ナノマシンネットワーク研究所。
その名刺に、そう書かれてあるのがはっきりと分かる。
ナノマシン・ネットワークだって? あのカラスも、猫のモコも、ナノネットの一部分のはずだ。ぼくは少しの緊張感を覚えた。それの研究をしている人が、一体、何の用だろう?
「樹拓也くんですね?」
そう確認すると、続けて、その人はこんな質問をしてきた。
「あなたは、子猫を飼ってはいませんか?」
ぼくはそれを聞いて、微かに身体を震わせた。
「はい……」
モコを知っている? どうして?
しかも。
「その猫は話をしませんか?」
その人はモコが話をする事まで知っていた。
ぼくが返答に困っていると、その人は続けてこんな事を言って来た。
「何も怖がる必要はありませんよ。森から伸びているナノマシン・ネットワークのリンクを辿って来たら、ここに着いたというだけの話です。猫である事が分かったのは、それ特有の反応をしていたからですね」
ぼくはそれを聞いて驚いてしまった。森からだって? モコのナノネットが、森にあるなんて考えもしなかった。しかも、それだけで、そんな事まで分かってしまうなんて。凄い。これは、誤魔化そうと思っても意味がないかもしれない。それでぼくは、正直に話す事にした。
「はい。その猫は言葉を話せます……」
それを答えた後で、ぼくはこの人に頼ってしまってもいいのじゃないかと少しだけ思っていた。この訳の分からない事態を打開する為には、専門家の力を頼るしかないだろう。それで、続けてこう言ってしまったのだ。
「でも、なんだか、今は様子がおかしいんです」
「様子がおかしい?」
「はい。助けて、と言った後で、言葉が急に分かり辛くなってしまって。それで、どうしたらいいのか困っていたんです」
「ふむ…… それだけでは何とも言えませんね。取り敢えず、中に入れてはもらえませんか?」
悪い人には思えなかったし、それに、もしかしたら助けてもらえるかもしれないと思って、ぼくはその紺野さんという人ともう一人の男の人を家の中へ入れた。モコを見せる。すると、その途端に若い男の人が言った。
「本当だ。紺野さん。何か言ってますけど、なんか電波状態が悪い携帯電話みたいで、意味が分からないですよ」
え?
ぼくはそれに驚く。
確かに、モコはその時も何かよく分からない言葉を発していたからだ。それで、ぼくはこう考えた。この人も、ナノネットの話を聞けるんだ。だから、一緒にいるのかもしれない、と。その男の人の言葉に、紺野さんという人は頷くと、ぼくを見てからこう言った。
「もしかして、あなたは松野さんという女性を知ってはいませんか?」
それで、ぼくはまた驚いた。
一体、何処までを知っているのだろう?
「はい。知っていますけど、彼女、今、行方不明になっているらしくて……」
その松野さんと、ぼくの飼っている猫の名前が同じだとまでは流石に言えなかった。そのぼくの返答を聞くと紺野さんの表情は突然に険しくなった。
「なんだって? それで、この子猫は『助けて』とあなたに訴えたのですよね? しかも、その後で急に言葉を話せなくなった…」
紺野さんは窓の外を睨む。顎に手をやり、何かを考え込みながら、窓辺に向かった。
「この窓の外には、街のナノネットの核の一つがあります。それは、知っていますね? もしかして、あなたはそのナノネットに協力をしていませんか?」
ぼくはそれを聞いてギクリとなる。
「はい。生ゴミに土を混ぜて、ナノマシンを増やしています」
ウソをつけば、きっと悪い結果を招く。そう直感したから、本当の事を言った。
「なるほどね。だからでしょう」
だから?
「だから、その猫への通信を、街のナノネットは妨害しているのです。そうなんでしょう? 姿を見せてくださいよ。どうせ、近くに媒体がいるのは分かっているのですから!」
そう紺野さんという人が怒鳴った瞬間だった。
「ギャア」
窓の外に、カラスが姿を見せたのは。――何処に隠れていたのだろう?
「どういう事ですか?」
そう質問したのは、若い男の人だった。紺野さんは、早口でそれに答える。
「恐らく、街のナノネットは、自分達の協力者であるこの樹君を、危険に巻き込みたくはなかったのですよ。それで、森へと向かわせない為に、猫からの助けてくれ、というメッセージを妨害していたのです」
その流れでそのまま、紺野さんはカラスに視線を移すと続けた。
「しかし、あなたは間違っていますよ。松野さんが死ねば、あなた達の協力関係にヒビが入るのは明らかです」
松野さんが死ぬ?
ぼくはその言葉に戦慄した。一体、どういう事なのだろう?
「いえ、例えそうならなくても、あの猫ナノネットは放っておいていいような代物じゃありません。もし、放っておけば、この街で第二、第三の犠牲者が出る可能性がある。これだけナノマシンが豊富な環境ですからね。そうすれば、いずれはナノネットの仕業だと世間にばれるでしょう。その時に困るのはあなた方ですよ? ナノネットが危険だという認識が生まれれば、世間はあなた方、街のナノネットも、恐らくは一緒に駆逐しようとするでしょうからね。人間社会とはそういったものです。
もちろん、あなた方の意図も分からないではない。この子の事が心配なのでしょう。しかし、その点に関しては、私を信用してください。危険な目には絶対にあわせない。もしも、私に協力してくれるというのなら、松野さんを救い出し、猫のナノネットだけを除去してみせましょう」
カラスは黙って大人しく、紺野さんの話を聞いていた。考え込んでいるように見える。そして紺野さんが全部を言い終えると、
『その保証は?』
と一言、そう言った。若い男の人が、それを紺野さんに伝える。
紺野さんはニヤリと笑った。
「私も森に行くのです。もし、勝算がないのであれば、私だって殺されてしまうかもしれない。そんな事に命をかけるほど、私は勇敢ではありませんよ。安全で、かつ、猫ナノネットの除去ができるからこそ、私は行くのです。
それに、どちらにせよ……、ここまで話してしまったからには、このまま邪魔を続け、松野さんが死ぬ事にでもなれば、あなた方の協力関係はなくなるでしょう。信頼を繋ぎとめるには、妨害を止めて松野さんの居る場所を教えるしかないはずです」
それだけを聞くと、カラスは『分かった』とそう答えた。このカラスがまともに言い負かされている事実に、ぼくは少し感心する。頭の回転の早い人だ。
そして、それから、
『助けて 樹君』
と、モコは、そう言ったのだった。