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17.森の中で

 (中学生・松野モコ)

 

 落ち葉を踏む。

 少し湿気ている土。

 わたしは今、森を歩いている。目の前には南海先輩の背中があって、それを見つつ、緊張し、不安を感じながらもわたしは進む。森を、特にこの森を歩くのは、やっぱりとても怖いけれど、南海先輩と一緒にいると大丈夫なような気がしてくる。南海先輩は森に入ると一言も口をきかなくなった。何かに集中しているように見える。真剣な様子だ。

 下草があまり見えなくなってくると、それに比例して、森の濃さもその密度を増していった。暗い。暗い森。時刻は徐々に夕暮れへと近付いていき、森の暗さが加速していく。そんな場所に身を置くのは随分と久しぶりの事だ。落ち葉で湿気た地面を踏むのは、一体、いつ以来だろう? やっぱり、お母さんと別れた、あの夜以来だったろうか?

 「僕が女性の幻を見たのは、こっちの方だったんだ」

 森に入る前、南海先輩はそう言ってわたしを先導するように歩き始めた。しかし、南海先輩が歩き始めたその方角は、お母さんと別れた場所とは違っていた。わたしがお母さんから逃げ出した場所とは逆方向だ。

 あの場所にいかなくていい。

 わたしはそれに少しの安心感を覚えたのだけど、同時に疑問も感じた。本当に、この方角でいいのだろうか?

 この方角では、お母さんには会えないような気がする。

 「ニャー」

 何処かで、猫の鳴く声が聞えた。それでわたしは思い出す。そういえば、南海先輩は、この森には猫が集まってくると言っていたっけ。

 その時だった。

 『モコちゃん』

 わたしの頭の中に言葉が響いた。

 え?

 その言葉は音じゃなかった。だから、本当にそうかは分からないのだけど、わたしはその言葉に女性の雰囲気を感じ取った。

 お母さん?

 それが女性のものだと思うと、瞬間的に、お母さんのイメージが重なった。わたしがその言葉で立ち止まると、その瞬間に南海先輩は声をかけてきた。ほとんど、間髪入れないタイミングで。しかも、わたしを先導する為に前を向いたまま、首を少しも動かさないで。

 「どうしたの?松野さん」

 わたしはそのやや不気味な反応の仕方に、幽かな恐怖を覚えたのだけれど、直ぐに気を取り直してこう返した。

 「いえ、さっき、誰かに呼ばれたような気がしたんです」

 すると、南海先輩はこう言って来た。

 「それは、きっと気のせいだよ。僕には聞えなかった。それに、僕が君のお母さんを見た場所はもっと先だし、その方角じゃないのだから」

 それから、自分が先導する先を指差す。

 わたしはその返答を奇妙に思う。わたしは別にお母さんに呼ばれたとは一言も言っていない。それに、どの方角から呼ばれたのか、それも伝えていないはずだ。

 その奇妙な違和感は、わたしの中から南海先輩に対する安心感を少しだけ奪い取った。森の中。わたしは、今、森の中にいる。そして、安心感がなくなると、わたしに、自分が森の中にいるという現実が重たく圧しかかって来た。不安になる。そして、不安になると。

 『こっちへ、来て』

 また、わたしを呼ぶ言葉が、頭の中に響いてきた。わたしはそれを受けて、南海先輩を呼び止める。

 「あの。すいません。やっぱり、聞えるのですけど…」

 南海先輩は、それを聞くと歩みを止めた。

 一呼吸の間。

 「ふーん」

 聞きようによっては、苛立っているようにも思える声の発し方で、南海先輩は言った。

 「君がそう言うのならば、こっちじゃないのかもしれないねぇ。僕の勘違いだったのかもしれないよ」

 なんだろう?

 わたしは南海先輩のその態度に妙なものを感じた。いつもの南海先輩とは思えない。優しくない。しかも、何かを隠して誤魔化しているみたいな……。それに、やっぱり、わたしはどの方角から呼ばれたのかを言っていないのだし。わたしは、少しだけ怖くなる。この南海先輩は何か怪しい。まるで、森の気で、別の何かに変異してしまったかのようだ。お母さんの思い出が少し重なる。奪い取られた安心感。その無くなった隙間を、不安が埋めていくあの感覚。そこにいるのは、南海先輩などではなく、わたしを何処か知らない遠くの世界へと連れ去ろうとしている、妖怪。

 『こっちへ。早く』

 また、言葉が響いた。

 さっきわたしに返答した後、先輩はずっと黙ったままだった。ただ、こちらを見続けてはいる。南海先輩がこちらを見続けている事だし、とわたしは身体の向きを変えた。南海先輩はやっぱり何も言わなかったけど、わたしが歩き始めると、後からわたしを追って来てくれているようなので、わたしはそのまま進んだ。足音が聞える。

 「ニャー」

 歩いてしばらくが経つと、猫の鳴き声が再び何処からか聞えてきた。それどころか、近くの茂みの中を、何かが通る気配がする。どうも、猫が辺りにたくさんいるようだ。わたしは歩きながら南海先輩に話しかけた。

 「本当に、猫がたくさんいるんですね。この森」

 わたしは嬉しそうに同意する南海先輩の言葉を予想していた。ところが言葉はなく、代わりに聞えてきてきたのは、

 「ミャーオ」

 という猫の鳴き声だったのだ。

 え? 猫?

 わたしはその鳴き声が、随分と近くから聞えた事に驚いて振り返った。すると、そこには南海先輩の笑顔があった。猫はいない。おかしい。

 「どうしたの?」

 南海先輩が笑顔のままでそう尋ねてくる。

 「……いえ、猫の鳴き声が聞えたものですから」

 「そうだね。近くにいっぱいいるみたいだ」

 一瞬、南海先輩が猫の鳴き声を発したのかと思ってしまった。でも、多分、気のせいだろう。本物の猫の鳴き声に聞えたし。わたしは気を取り直すと再び歩き始めた。

 『こっちよ』

 声は定期的に聞えて来ている。だから、わたしは迷うことなく進む事ができた。いや、或いは、声が聞えていなくても、わたしが迷うことはなかったのかもしれない。何故だか、進むべきを方角をわたしは知っているように思えるのだ。

 お母さんと別れた場所だから?

 それもあるかもしれない。でも、違う気もする。

 辺りには依然として猫の気配があった。しつこ過ぎる。わたしの事を監視しているのじゃないかと勘繰ってしまいたくなるくらい。時折聞えてくる猫の鳴き声。当たり前の話だけど、前を見ているわたしには、後にいる南海先輩の姿は見えない。それで、先の猫の声の印象もあって、わたしは先輩が猫になってしまったのじゃないかという馬鹿な想像をした。

 「ニャー」

 猫の鳴き声。

 今度も近くから聞えた。大丈夫だ。南海先輩が出した声じゃない。ちゃんと猫の気配がある。きっと、さっきもこんな感じだったのだろう。わたしが猫の気配に気が付かなかっただけなんだ。わたしはそう思う事で安心しようとしていた。

 ミシ。ミシシ。

 落ち葉を踏みしめる足音。それは、常にわたしの背後にある。信用している人間の足音なら、心強く感じる事ができる。しかし、その逆なら、それは恐怖の対象となるだろう。その音に恐怖を感じてしまいそうになる自分を、わたしは必死に抑えつけようとしていた。

 どうしたんだろう? わたしは。後を歩いているのは、南海先輩だっていうのに。

 大丈夫だ。

 不安になるな。

 だけど、わたしの足は自然と早足になっていた。この森は、もしかしたら、わたしの好きな人を皆、怖いお化けに変えてしまうのかもしれない。そんな事も考える。普段なら、リアリティなんか持たないそんな発想にリアリティを感じてしまう自分がいる。わたしはその感覚に耐え切れなくなって、遂に後を振り返ってしまった。

 「どうしたの?」

 南海先輩。

 さっきと同じ言葉。しかも、さっきと同じ様に笑顔だった。でも… さっきとは違うことが少し。

 南海先輩の背後。その向こうに、わたしは大きな猫が一匹いるのを見てしまったのだった。濃い灰色をした不気味な感じの猫だ。ちょっと珍しいくらいに大きい。そういえば、随分と前に南海先輩は、とても大きな古猫を見たと言っていなかったか? その猫だろうか? いや、多分、偶然だとは思うけど。

 「いえ、なんでもありません」

 そう言ってわたしは前を向いた。

 もしかしたら、さっきの鳴き声はあの猫だったのかもしれない。あれだけ大きければ、声も大きそうだ。それで近くに感じてしまったのじゃないだろうか? わたしはそう自分に言い聞かせる事で、やっと恐怖を克服できた気になった。大丈夫だ。南海先輩がお化けであるはずなんてない。

 しばらく歩くと、傾斜がきつくなり始めた。

 覚えている。わたしがお母さんと別れたのは、この辺りだった。もちろん、漠然とした印象しかないのだけど。

 『モコちゃん。こっちよ』

 声も聞える。

 進めば進むほど傾斜はきつくなり、まるで崖みたいになってきた。猫達の気配は流石に消えていて、シンとしている。わたしの他、動くものの気配といえば、後の南海先輩くらいだ。突然に、先輩が話しかけてきた。

 『まだ、進むの?』

 「はい。この下から声は聞えるんです」

 『へぇ』

 その時、わたしは何か違和感を感じた。その正体に、一瞬迷う。

 ――ああ、声か。

 直ぐにそれに気付く。

 今の言葉は、音で伝わって来てないんだ。森の奥からわたしを呼ぶ声と同じ様に、頭の中に直接響いてきている。

 何で?

 そして、そうそれに気が付いた瞬間だった。

 『モコちゃん。――逃げて!』

 そう、お母さんの声が、わたしに言ったのは。

 それから、

 「ブギャー」

 凶暴な猫の声が直ぐ後から聞えると同時に、わたしは背中を強く押された。

 

 ドンッ

 

 視界が回転する。

 暗くなり、木々の葉が見え、地面が見え、それが繰り返される。何が起こったのか、まったく分からなかった。背中に強いショックを覚えて、ようやく回転が止まる。わたしは痛みのあまり、その場で悶えた。背中にあるのは大木で、それにぶつかって落下が止まった事だけは理解できた。

 治まらない痛みに耐えながら、崖の上を見ると、そこには悠然と先輩が立ち尽くしていた。

 ……もしかして、先輩に押されたの?

 その現実を受け止めるまでに、数秒かかった。

 なんで?

 「ニャーーオン!!」

 突然に、南海先輩は大きく鳴いた。猫の鳴き声だ。本当に、それは猫の声に聞えた。しかも、明らかに攻撃色を帯びている。うろたえるわたしに向かって、続けて南海先輩はこう言って来た。

 「残念。殺せなかったか」

 ――殺せなかった?

 「ここで、殺せていれば、面倒がなかったのにな」

 ――どういう事?

 「何を言っているんですか?先輩」

 「言葉通りの意味さ。僕は君を殺そうとしたんだよ」

 そう言い終わるのと同時に、先輩の傍らに大きな古猫の姿が現れた。

 「どうして、そんな事を?」

 なんで、先輩がわたしを殺そうとしなくちゃならないの?

 わたしは混乱していた。涙が自然と湧き出てくる。その涙が、痛みによって出てきたものなのかそれとも、先輩がわたしを殺そうとしたと聞いて出てきたものなのかは分からなかった。先輩はわたしを見下ろしながら、淡々と続けた。

 「猫がね」

 猫が?

 『猫が君を食べたがっているんだ』

 先輩の口と、傍らにいる古猫の口が同時にそう動いた。音で、それは伝わって来ていない。直接、頭の中に響いてきてる。

 お化けだ。――化け猫。

 わたしはその様子に悪寒を覚えた。理解できないものが、目の前にいる。そして、そう先輩と猫が言い終わるのと同じタイミングで、

 「ニャー」

 声が響いた。

 鳴き声。

 「ニャー」「ニャー」

 猫の鳴き声が、周囲から一斉に聞え始めたのだ。わたしは驚いて周囲を見渡す。光っていた。暗闇の中に、たくさんの猫の目が。揺れている。

 自分の中の不安が、急速に膨らんでいくのが分かった。

 『ほら。僕はとても猫が好きだろう? それで、ここの猫達にも餌を上げたいと思ったんだ。そうしたら、どうも、ここの猫達は君を食べたいらしくてさ。それで、こうして、ここに君を連れて来たって訳なんだ』

 何を言って……?

 そう言おうと思った。しかし、恐怖で震えて声が出ない。逃げ出そうと思ったけど、足を痛めてしまったらしく、思うように動けない。その姿を見て、南海先輩は笑った。

 『ハハハ。

 さぁ、僕の子猫達の餌になってくれよ』

 猫達が近付いて来る。

 「フーッ」「フーッ」「フミャオーン」

 しかも、攻撃警戒音を撒き散らしながら。

 本当に… 本当に、私を食べる気?

 そのうち、猫の一匹がわたしに襲い掛かってきた。爪を立てて、噛み付いてくる。わたしは咄嗟に手で防いだけど、腕を噛まれてしまった。肉がちぎれる。痛い。血が、出た。その後も、次々と猫が飛びかかってくる。わたしは、懸命に暴れてなんとか猫を追い払おうとしたけど、たくさんの猫達の猛攻撃は、傷ついた身体で防ぎきれるものじゃなかった。

 下に。下に逃げるしかない。

 唯一の助かる道はそれしかないと思い、猫に襲われながらも、わたしはなんとか崖の下を目指そうとした。だけど、やっぱり機敏には動けない。直ぐに猫達に捕まってしまう。

 『助けて!』

 心の中でそう叫んだ。わたしは、もう駄目かと絶望しかけたのだけど、その時だった。

 「ニギャァオッ」

 猫の悲鳴が響いた。

 わたしを襲おうとしていた猫の何匹かが、わたしから離れている。見ると、猫達に数匹の蛇が噛み付いていた。

 蛇?

 そして、わたしの頭の中に言葉が響く。

 『モコちゃん。こっちへおいで。こっちへ逃げて来るのよ』

 お母さんだ!

 間違いなかった。わたしを助けてくれたのは、お母さんだ。猫はまだ離れている。他の猫も警戒してやって来ない。

 上から声がした。

 『ハッ

 蛇とはね。そんな隠し玉を持っていたって訳かい。でも、時間の問題だね。

 シィィー!!

 逃がさないよ』

 もう、それが、先輩の言葉なのか、猫の言葉なのかわたしには判断がつかなかった。とにかく、必死に逃げるだけだ。わたしは涙を流しながら崖の下を目指した。

 蛇達が護ってくれているお陰で、なんとかわたしは下へと進む事ができた。わたしの背後では猫と蛇の闘っている物音が聞えてくる。やがて、なんとか崖の底に辿り着く事ができた。もう、傾斜も緩やかで、それほどの難はない。しかし、それでもわたしは立ち往生をしてしまった。

 淵。

 目の前には、緑色の不気味な淵が広がっていた。その周囲を、蛇が取り囲んでいる。そして、その淵の中央には。

 ――お母さん。

 お母さんの姿があった。

 『モコちゃん。いらっしゃい。ずっと待ってたのよ。あなたのコトを』

 しかし、そのお母さんの表情は、どう見ても、あの時の恐ろしいお母さんのものだった。化け物。進めない。わたしが会いたかったのは、このお母さんじゃないもの。背後からは、猫の鳴き声が。そして、先輩の声も。

 『アハハハ。

 お母さんが君を助けてくれるとでも思ったのかい? 残念だね。君のお母さんも、君を取り込もうとしているだけだよ。僕たちと同じさ。君を食べる気なんだ!』

 わたしは、その場に座り込んだ。

 ――もう、駄目なの?

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