10.森のナノネット
(憑人・星はじめ)
森を歩いていました。
車の中でジッとしているよりはマシですが、これはこれで問題があります。どんな問題かというと、実は今の状態、僕にとって危険なのです。因みに危険なのは、森じゃありません。ナノマシン・ネットワークが危険なんです。
今、僕らは紺野さんが怪しいと言っていたあの森の中を探索しています。もちろん僕はナノマシン・カプセルを飲ませられています。そうじゃなければ、調査になりませんから。ナノネットからの影響を受け易い特異体質を持った僕は、紺野さんが作り出した特殊なナノマシンを体内に取り入れると、ナノネット検知器のような役割を果たせてしまうんです。体内のナノネットへの反応を調べる事で、それが実現できるそうなのですが、はっきり言って迷惑な話です。
昨日、街の適当なホテルに一泊し、その夜に紺野さんは街のナノネットの構造解析なんかをやっていました。で、その翌日の今日は、調べ切れなかったこの森の内部を調査している、とそんな訳なんです。紺野さんの推測が正しいとするのならば、この森の中は、僕らの探している猫ナノネットの集会場になっているはずで、つまりは、それで、ナノマシン・カプセルを飲んでいる僕は特に、危険な立場にいるのですが。
「まだ、何の異変も感じませんか?」
紺野さんが僕にそう話しかけてきます。森の、かなり内部にまで足を踏み入れた頃で、暗い森のややきつい傾斜を下っている最中でした。
「感じませんよ」
紺野さんは、何も心配はないと語っていましたが、僕は不安で脅えているので、声は微かに震えています。なにしろ、このカプセルを飲んだ時、僕は大概、怖い思いをしているのです。しかも今回ナノネットが宿っている相手は、殺人を犯す猫達の群れなのですから脅えて当然でしょう。いくら紺野さんでも、物理的に攻撃を仕掛けられたら、どうしようもないのじゃないでしょうか?
「本当に、もし猫の群れが襲いかかってきたとしても、平気なんですよね?」
「大丈夫ですよ。猫の体内にあるナノマシンの種類も性質も分かっていますからね。相手がナノネットならば問題はありません。第一、この状況下で襲われたら、私だって危ないじゃないですか。対抗策は用意していますよ」
確かにそうです。もし、襲われたら紺野さんだって危ない。でも、紺野さんの場合、探究心が旺盛な所為で、危険だという感覚が麻痺してしまっているかもしれません。だから、僕は心配で、繰り返し尋ねているのです。
「ただ、ナノネットの攻撃に関しては心配ないですが、足を踏み外して、怪我でもされたらどうしようもありませんからね。足元とかには充分に気をつけてください」
紺野さんが注意するのも分かります。傾斜の勾配は、徐々に急になっていましたから。もし、足を踏み外しでもしたら、そのまま落ちていってしまいそうです。森の奥底にまで。
底。
なんとなく、僕は森の奥底に目をやってみました。しかし、木々が密集して生えていて、ずっと奥までは観る事ができません。つまり、底がどうなっているのかは分からないのです。もし、この先に何か危険があったらどうしよう? 僕がそんな事を心配した刹那でした。紺野さんが口を開きます。
「資料によれば」
紺野さんはその底に向けて目を細めています。紺野さんが持っているのは、この森の地図で、今朝方来る前に市の図書館で借りてきたものです。
「この先には、淵があるはずなんです」
「淵…… ですか?」
紺野さんはそこを目指しているのでしょうか? 確かに水辺も、ナノマシンが繁殖し易い場所としては典型的なのだそうですが。
「今回のナノネットは、猫に憑いているのですよね?」
もし、仮に何かのナノネットがそこで繁殖しているのだとしても、どうして、淵を目指すのかが分かりません。それで、僕はそう尋ねたのです。
「猫ナノネットは見つからないでしょうね。ですが意味はあります。外堀固め、ですよ。もちろん、猫自体が見つかるのならば、それが一番ですが、猫を確実に見つける為には、環境から洗っていくのが一番でしょうからね。この森の中の、ナノネットに関しても知っておいた方がいいです。恐らく、この森には街とは違った勢力、異なったタイプのナノマシンが繁殖しています」
「はぁ」
一応は納得できますが、ただ、単に好奇心から紺野さんはそれを知りたいのじゃないか? といった疑念も消えません。
「今から、六年前に、この街全体に例のP―NGFF型のナノマシンが大量に撒かれたという記録があります。ケッカイ病という、奇病への対策の為だったのですが、この病気はネズミを媒介に拡がる危険があったのですね。それで、人が住まないような場所に対しても散布が行われた。恐らく、この森もその範囲に入っています。
街で、あれだけのナノネットが構築されている事を考えても、この森にナノネットがないはずはありません。もし、猫ナノネットがこの森を集会場にしているのなら、どう森のナノネットと折り合いをつけているのか、それは調査しなくてはならないでしょう。或いは、何らかの痕跡を発見できるかもしれないですしね」
「はぁ」
まぁ、話は分かりますが。
そんな会話をしている内に、傾斜の勾配は柔らかくなっていきました。底が見えます。その時、不意に耳鳴りが聞えてきました。
キーン としている。声は何も聞えません。だけど、なにか複雑な感情が不当に喚起されるような、奇妙な感覚を僕は覚えました。
僕は、その事を紺野さんに報告しようかと迷います。ただの気の所為かもしれませんし、何かがあるのだとしても、後で僕の身体の中にあるナノネットへの影響を調べれば分かる事ですから、わざわざ言うほどでもないかもしれません。
(でも、)
悲しみ。
苦しみ。
――そして、優しさ。
僕の胸に込み上げてきた感情は、そんなものが渾然一体となった何かでした。
助けてあげたくて、助けて欲しい。
なんだろ? この想いは。まるで、テレビ画面の中で、貧困で苦しんでいる子供達が、痩せこけて今にも死んでしまいそうなのを、救いたくても救えない。いや、それどころか拒絶されていて、それが悲しい。そんな想いが、強く、とても強くなって変質しているような。
淵。
目の前には、淵がありました。
幻ではないでしょう。傾斜を降りて少しの場所に、それは見えます。
恐らく、紺野さんが言っていたあの淵でしょう。そんなに大きくはありませんが、どんよりとした迫力があり、言い知れない存在感がある水場です。緑色をしている。底が見えない。じっとそれを見ていると、淵の上に、時折、奇妙な映像が見えてきました。少しずつ、少しずつ、像が結ばれていって、とぎれ、とぎれに、何かの姿が。
人。
人だ。
しかも、女の人。
僕は、それを分かります。
泣いている。
「どうしました? 星君」
横から、声が聞えました。観ると、紺野さんが小型のブラックボックスのような道具を取り出し手の平に載せて、直ぐ傍に立っています。黒い箱には、緑色の明かりが点灯しています。恐らく、ナノネットからの影響を遮断をする為の何らかの機械でしょう。
「いえ、なんか女の人が」
僕はそう言って、淵を指差しました。それを観ると紺野さんはニヤリと笑います。
「ふーん。どうも、やっぱり、かなりのがいるみたいですね。この淵の主、どころか、森の主でしょうか? つまり、大きなナノネットがこの森で繁殖している可能性が高い。そうなのだとすると、では、その森の主が、どうして、猫の侵入を許しているのでしょうかね。もちろん、猫が侵入していたとしら、ですが」
紺野さんは、既に答えに予想がついていそうな感じでそう言いました。
「ルームサービスをお持ちしました」
入ってくるなり、そのホテルの従業員は目を丸くしました。女の人です。無理もないでしょう。何故なら、部屋の中では、僕の身体にコードをいっぱい貼り付けられていて、そのコードが伸びた先のパソコンの画面の前では、紺野さんが真剣な顔でそれに向き合っているのですから。
この光景は、例えるのなら、なんらかの実験室が一部分だけくり抜かれてホテルの一室で展開されている、そんなようなモノでしょうか。というか、実際、その通りなのかもしれませんが。
なに、これ?
言葉には出しませんでしたが、その女性従業員は明らかに不審な目つきで僕らを見ました。
「ああ、どうもご苦労様です。すいませんが、その机の上にでも置いておいてくれませんか?」
紺野さんは画面から眼を離さずに、そう言いました。作業で手が離せないので、紺野さんが夕食を部屋に運んでくれ、とホテル側に頼んだのです。従業員は、やや動揺した口調で「はい。こちらでよろしいでしょうか?」とそう言って机に夕食を置くと、そそくさと部屋を出て行きました。僕はそれを見て赤面します。絶対に不審に思われてる。質問されなかったのが、不思議なくらいだ。しばらく顔を伏せていましたが、悩んでいたって仕方ありません。こんな事で苦悩するのがなんだか馬鹿馬鹿しくなってきましたし、目の前にはご飯があります。
「ご飯、食べてもいいですか?」
僕がそう尋ねると紺野さんは「いいですよ。体内へのナノマシンの影響を考えると、本当はあまり良くないのですが、今回に限っては大丈夫でしょう」と、そんな事を言います。僕はテーブルの近くに座っていて、コードに繋がったままでも手を伸ばせば、なんとか料理にまで届きました。スプーンとお皿を取ります。
「今回に限っては?」
「この森のナノネット、構造がとっても単純なんですよ。集中型のナノネットで、しかも大きなものは一つだけ。構造解析が楽なんで、料理を食べるくらいなら、大して影響はありません」
僕は料理に手を伸ばしつつ(夕食は、無難にカレーを頼みました)、それを聞いてこう言いました。
「構造が単純で一つだけ? という事は、猫ナノネットの影響も見つからなかった、という事ですかね?」
「ええ、まぁそうです。だたし、それは猫ナノネットが侵入していない事の証拠にはなりません。それに、もしあの森に猫ナノネットが侵入しているとすれば、どうしてそれが可能なのか、その見当はつきました」
「――と、いいますと?」
カレーを食べつつ、返答を待ちます。
「……ネットワークの話を少ししましょうか。ナノネット同士の争いを考える場合も、集中型ナノネットと分散型ナノネットでは、それぞれにメリットデメリットがあります。集中型ナノネットの場合、何か一つを核とするのですから、当然、それほど大きな範囲をカバーできません。つまり、繁殖範囲が限定されてしまうのです。これは、もちろんデメリットです。では、メリットは何かというと、ナノマシン同士で情報伝達を行う際の信号を一種類、ないしは少数に抑えられる、といった点があります。その事によって、よりコアなネットワークが構築できるのですね。つまり、集中型ナノネットは、セキュリティ面で優れ、他のナノマシンからの侵食を受け難いのです。そして、それは同時に他のナノネットから、ナノマシンを奪い易い、といった事でもあります。
反対に、分散型ナノネットの場合、繁殖範囲は広いのですが、多種類の信号を情報伝達に用いる為、ガードが甘い。割り込まれ易いのですね。だから、分散型ナノネットにとって、集中型ナノネットが色濃く繁殖している場所へ侵入する事は非常に困難なのです。
そして、森のナノネットは集中型ナノネットで、街のナノネットは、分散型ナノネットです。つまり、あの森の内部へ、街のナノネットが侵入する事は難しい、という事です。そして、それはあの森が街のナノネットの死角になっている、という事でもあります。
ところが、です。猫ナノネットは、集中型ナノネットですから、同じ集中型ナノネットが支配している森の内部への侵入も可能なんです。特に、森のナノネットは、構造がシンプルで粗いですからね。そして、森のナノネットが、何か、物理的に猫ナノネットを排除する手段を持たなければ、実質的に侵入を防ぐことはできません。結果的に、猫ナノネットにとって、あの森は絶好の隠れ家になる……。
取り敢えずは、こんなシナリオを想定してみました。どうでしょう?矛盾点はありますかね?」
僕は少し考えると返します。
「いえ、ないと思いますが、でも、今の段階ではまだ証拠が足りませんよね?」
「足りない、というか、全然ありませんよ。もっとも今の段階では、ですが。ですから、これは、単なる推論でしかありません」
全然証拠がない、と言っている割には、紺野さんの様子には、なんだか余裕が感じられました。それで、僕はこう尋ねたのです。
「あの、なんか打開策を考えてあるのですか? 随分と落ち着いていますが」
すると、紺野さんは予想通りあっさりと、
「はい」
とそう答えて、不敵に笑いました。
「え? それは、どんな?」
「星君。ネットワーク科学の話をしたついでに、少し、街の生態系についても考えてみませんか? 人の住む街の生態系について」
「人の街? 街に生態系なんかあるんですかね?」
「あははは。そりゃ、ありますよ。しっかりと生物達が生き、そして繁殖しているじゃありませんか。しかも、力強く」
そう言われればそんな気もします。猫や犬、ネズミに鳥、木や雑草、様々な虫達。細菌。ウィルス。これらは、全て、街で生存してます。そして、相互に影響し合っている。ならば、それなりの生態系を持っているのでしょう。
「さて。
街の生態系、中心を成しているのは、一体どんな生物でしょうか?」
僕はそれを聞いて、少し驚きます。
「え? 街の生態系にも中心があるのですか? つまり、集中型ネットワークだと?」
「何を言っているんですか、星君。明らかな中心がいるじゃないですが。これだけあからさまなネットワークの中心的存在も珍しいですよ」
あからさま?
その言葉で、僕は気が付きました。
「……もしかして“ヒト”ですか?」
「正解です。街の生態系の中心を成すのは、良くも悪くも人間ですね。つまり、ヒトにとって自分達がどういった存在であるかが、他の生物にとって重要になってくるのです。
ヒトを捕食しようとすれば、多くの生物は滅ぼされてしまう。だから、ヒトを捕食しようとする生物は街の生態系では生き残れない。もっとも、迷惑をかける程度ならば、カラスやゴキブリのように力強く生き残っているモノ達もいますが。ヒトの食べ物をかすめ取る戦略で。その逆に、ヒトに協力する事で生き残っているモノ達もいますよね。イヌネコが代表です。これは、言い換えるのならば、如何にヒトという生物を利用するのかが街の生態系では重要になってくる、という事でもあります」
「はぁ」
曖昧に、僕は頷きます。
説明の内容は分かりましたが、紺野さんが、どう、先の打開策があるという話と結び付けるつもりでいるのかが、僕にはいまいち分からなかったからです。
「では、星君。この街のナノネットは、ヒトをどう利用して生き残っているでしょうか?」
「街のナノネット? 昨日、調べてたヤツですよね? あの、最後に会ったカラスとか。えっと、確か敵対するつもりはない、とか言っていたような…」
「その通りです。つまり、街のナノネットは、ヒトと協力し合う事で生き残ろうとしている。そして、恐らくは、街のナノネットの情報収集能力は、この街に関する限りでは最も優れている。あの森の内部を抜かしてならば、この街の事で探れない事はないと言っても過言ではないかもしれません。昨日、私達をあっさりと見つけ出した事実と、巨大に張り巡らされたネットワークを見ても、そう考えた方が良さそうです。
ならば、」
そこまでを聞いて僕は察しました。この話の流れとその帰結を。
「なるほど。街のナノネットを味方につけて、猫ナノネットの居場所を探ろうというのですね?」
紺野さんは笑いつつ頷きます。
「あのナノネットは、人間に敵対する事がどういった結果を生むのか分かっています。あっさりと退治されかねない、という事をね。そして、だからこそ、人間を捕食するようなタイプのナノネットを忌避するでしょう。自分達が仲間と思われては堪らない、と。
だから、邪魔者は始末する、といった意味合いで、交渉次第では、私達に協力してくれる可能性は高い、と私は考えています。元々、人間に協力するタイプのナノネットですし。
ただ、問題は…、どうコンタクトを取り、交渉をするのか、といった事ですがね」
ナノネットと交渉……。
どうも、また厄介な仕事になりそうです。