吾輩の猫である
吾輩は客である、名前は明かさない。ここのフードコートのこのテーブルが吾輩の席である。
勤続28年、会社理由の退職、まさか自分が雇用保険の世話になるとは思いも寄らなかった。詳しいことは省くが人間が集まれば大概勢力争いが発生する、すると吾輩のような人間が『トカゲの尻尾切り』と陰で言われながら集団からはじき出される。まあ思い返せば吾輩も皆と一緒になってトカゲの尻尾切りに参加していた頃もあったのだから彼らを責めるわけにもいかない。しかし人間の集団で生きるのはほとほと疲れた。
『プップー、プップー』
お、呼び出しベルだ。吾輩のラーメンが出来上がったようだ、取りに行くとしよう。
「お待たせしました、餃子のタレはあちらの調味料のところにあります」
「はい」
我輩は今日、少し贅沢をした。餃子が三つ、小さな皿からはみ出るように、ラーメンどんぶりの横に佇んでいる。彼らのお陰で少し豊かな気持ちになる。ハローワークに行った時の楽しみである。4週間に一度は仕事を探しているという態度を示すことが義務である。そして今日、その義務を果たして来た。これが今現在、吾輩の唯一の収入を得る為の仕事と言っていいかもしれない。吾輩にはまだ三ヶ月近く猶予がある。
「よっこいしょ」
やはりフードコートのメインストリートから外れた窓際のこの席が一番落ち着く、ベストポジションだ。ん?
「どっこいしょ」
何だこの男は、なぜ吾輩の隣のテーブルを使うのだ? 平日の二時過ぎだぞ、席はガラガラではないか……何者だ? 春先だというのに真っ黒に日焼けして白髪混じりの無精髭を生やし、そして髪が薄い、吾輩より年が上か?
「あー腹減った」
不味い、この男きっと吾輩に話しかけてくる。今は人と話したい気分ではない、一刻も早くラーメンを平らげねば……そうだ、隣の図書館へ行こう。しかし残念だ、ゆっくりラーメンと餃子を楽しみたかった。
『プップー、プップー』
この男の呼び出しベルか?
「ちょっと荷物見ててもらってもいい? 取ってくるんで」
「え? はい」
初対面の吾輩になんと無礼な口の聞き方だ……あ、そういうことか、料理を取りに行くときに荷物を見ていてもらおうと隣に座ったのか、それが目的ならば慌てて食べる必要はない。ふふ、こんなガラガラのフードコートで荷物の心配をして、見かけによらず気の小さいやつだ……ん? スポーツバック、そうかここに併設しているスポーツクラブに通っているのか……いい身分だな、昼間からスポーツクラブとは……やはり嫌な奴だ……ここは急いで退散しよう。
『ジュ〜』
ん? この音はステーキ……おお、持って来たのはステーキではないか……しかも憧れのキングサイズ!
「食後にどうぞ」
「え?」
なぜ私のラーメンの横に紙コップを置く?
「コーヒー嫌い?」
「え……いやいや嫌いでは」
「あ、そう、じゃあこれ、荷物見ててもらったお礼って事で」
「ああ、ありがとうございます」
いかん、距離を保たねば……。
「あんた、営業の外回りかなんか?」
「……まあ」
「仕事でここ来たの?」
「いえ、ちょっと休憩で」
「だよね、仕事で来たんだったらこんな時間にフードコートで食わないわな」
この男、やはりお喋りが目的であったか、早く退散せねば……しかし昼間からキングサイズのステーキとは贅沢な奴だ……そしてあのドーナツ、食べすぎだろ。
「よかったらコレどう、クラッシックチョコレート」
「へ?」
「このドーナツ好きなんだよ、一個あげる」
「え?」
なんだこの爽やかな笑顔は、断れぬではないか。
「ありがとうございます」
「こっち座っていい?」
「……ああ、どうぞ」
やられた、完全にやられた……侵入を許してしまった。
「ラーメンうまそうだね」
「そうですか」
「うん」
そっちのステーキの方がよっぽど旨そうだ……匂いがたまらん……今の吾輩には毒である。
「でも我慢しなきゃなぁ、炭水化物だから」
なに? ドーナツもあきらかに炭水化物ではないか、筋肉馬鹿め。
「俺のこと変な奴だと思ってるでしょ」
「いえ」
当然、思っている、そして大迷惑である。
「昼間っから、いいおっさんが一人で飯食って」
吾輩のことか?
「あんたみたいに仕事してるならいいけど、俺やってないしな」
無職……ならば何故、スポーツクラブに通って、ステーキを食べているのだ。
「あ、仕事してた……ヒモ」
「え?」
「うん、体型維持するために頑張ってるんだから……仕事でいいだろ」
な、何が起きている?
「と、いうことは、今でもミュージシャンて事でいいのかな?」
何を喋っている?
「昔バンドやっててさ、熱烈なファンの娘と結婚してその子に食わせてもらって活動してたんだけど、俺は一向に売れなくて、なんか知らんけど嫁の方はどんどん出世して、今じゃデカイ会社で部長やってるよ」
そういうことか。
「結構稼ぐようになってさ、俺がバイト辞めても生活できるようになったよ」
「そうですか、羨ましい」
その爽やかな笑顔を止めろ、その青みがかった白い歯はなんだ!
「いやいや、辛いよ、50過ぎてブラブラしてるの、嫁も冷たいし」
嫁ではなく妻と呼べ。
「去年あいつに言われてさ……仕事もしないでブクブク太った男と一緒に歩きたくないって」
「はあ」
「だからさぁ、ジム通って体絞って」
そうではないだろ、仕事を探せ!
「そういえば明美、最近ちょっと愛想が良くなったな……うん良くなった」
う……そっちで良かったのか……。
「そうですか、良かったですね」
「今の仕事長いの」
「ええ、まあ」
「どのぐらい?」
「28年です」
「すげ〜28年、ずっと同じ所?」
「ええ」
正確には27年と10ヶ月で解雇である。
「俺何やっても長続きしなくてさぁ、タクシー会社に行った時なんて研修1日目で教官と喧嘩してクビ」
「そうですか」
「地道に仕事ができる男は偉いな、尊敬するよ」
「いえいえ」
こんなに能天気でいられるなんて羨ましい……もし吾輩が期限までに仕事を見つけられなければ妻は吾輩を家から叩き出すであろう……一人娘の結婚も迫っている、早く見つかるに越したことはない……だが仕事はなんでもいいと言う訳にはいかぬ、部長まで務めた吾輩だ、誇りがある。しかし、見つかるのか、エクセルだけでは足りぬようだし、部下任せにせず、吾輩も色々やっておけば良かった。
「この後、予定ある」
「え……ええ」
「だよね、サボれない?」
「へ?」
「今日は天気がいいからこれから釣りにでも行こうと思って、付き合ってよ」
だから爽やかに微笑むな!
『クエ〜クエ〜、クエ〜クエ〜』
カモメの鳴き声とはこんなのだったか? 吾輩は何をしているのだ、何故のこのこと東京湾まで来てシーバスとやらを釣ろうとしているのだ。
「ルアーの投げ方わかった?」
「ええ」
「じゃあ、あそこの橋脚狙って投げてみて、あのあたりに隠れてると思うから、橋脚にルアーぶつけてもいいからさ、思い切って」
「はい」
あの橋の下か、それ!
『シュッ』
「あ、いいとこ行ったじゃん」
おお、吾輩もなかなかやるものだ。
「よーし、それじゃあ、ゆっくりルアー引いて」
「はい」
釣りなど中学の時に行って以来だ……しかもあの時は一匹も釣れず、ぼうず。
「小魚になった気分で時々アクション入れて」
「はい」
こんな感じか……くいっくいっ……吾輩は鰯……鰯である……。
『ビュン』
う、なんだこの引きは!
「かかった」
「ええ!」
「すげえぇ、一投目で」
「どど、どうすれば」
「竿立てて、リール巻いて、慌てなくていいから」
「はい」
『バシャン』
おお、魚が跳ねた!
「シーバスだ! いい形だ」
あんな大きな魚が東京湾にいたのか。
「こっちに寄せて、網で掬うから」
「ああああ」
『カリカリ、カリカリ』
リールが……魚とはこんなに重いのか……
「もう少し」
こうか。
「もうちょい」
それ。
「よし、入った、もう大丈夫」
「ありがとうございます」
「いいの釣れたよ、50センチはある」
「そうですか」
不思議である……肩が軽くなった……久しぶりに楽しい。
『クエ〜クエ〜』
何やらカモメの鳴き声が物悲しく聞こえる。シーバスははじめの一匹だけで、あれから二時間あたりもない。おかげでつい余計なことまで話してしまった。
「そうか、もうすぐ娘さんが結婚するんだ」
「ええ」
妻が吾輩に早く仕事を決めろと迫る原因である。
「やっぱ子供って可愛い」
「ええ、まあ、一人娘ですから」
「いいな〜」
「お子さんは」
「明美と付き合いだして半年ぐらいだったかな、あいつ病気して子供産めなくなっちゃったんだ」
「え」
いかん! 聞いてはならぬ事を聞いてしまった。
「でも、よかったよ……明美、生きててくれたから」
……只の能天気男ではなかった……。
「すみません……余計な事を」
「え、何が? ああ、気にするなよ。だいぶ日が傾いたな、この辺で終わりにしよう」
「そうですね」
「結局はじめの一匹だけか、持って帰る?」
「いえいえ、差し上げます」
「じゃあ半身持ってきなよ、すずきは今が旬だから美味いよ」
「そうですか」
シーバスとは鱸のことであったのか。
「ここでさばいちゃうから、水汲んでくる。ちょっと待ってて」
「はい」
『クエ〜クエ〜』
あそこに見えるのは東京ビッグサイトか、ということは、吾輩の勤めていた会社はあの辺りか……少し眩しいな……夕日に反射した東京湾がこんな綺麗だったとは。
『シュッ、シュッ』
なんて器用な男だ、包丁さばきがまるで魚屋だ。
「こう、骨に沿って、すーっと」
「上手いですね」
「まあね、回転寿司屋でバイトしてたから」
「いろいろ出来る」
『にゃ〜』
「え?」
「子猫だ、後ろ」
「あ」
ほんとだ。茶トラの子猫だ。
「また誰か捨てたな、ここ多いんだよ捨て猫……ちょうどいい、切れっ端やるか、ほれ食え」
『にゃ〜。ムシャムシャムシャ……ゴロゴロ、ゴロゴロ』
夢中で食べている……のどをならして……そんなに嬉しいのか。
「相当腹減ってるみたいだな」
「捨て猫……ですか」
「そ、無責任なバカが、こういうところに、頑張って生きてねって捨てて……どうせすぐに野垂れ死ぬか、上手く生き延びてもそのうち捕まって処分されちまうのに」
「処分?」
「うん、殺処分、人間界からはじき出された猫の運命」
『にゃ〜』
「はじき出された……」
すっかり暗くなってしまった。左ハンドルの車に乗れるなんてやはり羨ましい。流石だ、走っていても車内は静かだ。
「本当に大丈夫か?」
『にゃ〜』
「ええ、一応持ち家ですから」
本当に大丈夫なのか……妻が吾輩の言うことを聞いてくれるとは思われぬ……しかし、抱き上げてしまった以上、死ぬと分かっていて置いて行くことは出来なかった……。
「あんた男だね、絶対なんか持ってるよ、シーバス、一投目で釣り上げるし」
「あれはたまたま」
『にゃ〜』
「あそこのモール、ペットショップあったよね」
「ええ、確かフードコートの反対側に」
「よし、じゃあ戻ろう、猫用品必要だろ」
「ええ」
「ついでに食品売り場で氷もらおう、魚持って帰る」
「そうですね」
『にゃ〜』
猫用トイレと砂、猫缶10個、そして猫のキャリーバック、今の吾輩にとっては痛い出費であった。
「家まで送っていけなくて悪いね」
「いえ、駅まで送っていただいて、助かりました」
「ヒモの身分としては、迎えに行くのも仕事だった」
「奥さんをお待たせしては申し訳ないです、どうぞお急ぎください」
『にゃ〜』
「その猫、きっと招き猫だよ」
「え」
「じゃあ、また」
『ブオーン』
……颯爽と行ってしまった……あの男、いいやつだったじゃないか……あ、いかん、連絡先を聞くのを忘れていた……名前さえ知らぬ……まあいい、いずれまたあの席で合う日もあろう。
『にゃ〜』
吾輩は何か大変な事をしでかしてしまったのかもしれぬ……しかし後悔の念はない……吾輩が会社からはじき出された事など、この猫が人間界からはじき出された重大さに比べたら大したことではない……妻の怒りの形相が思い浮かぶが、ご褒美の餃子がなくなろうとも必ず説得してみせる……そうだ、さっきの店に面白そうな猫用品がいっぱいあったぞ、仕事をあれこれ選んでいる場合ではないな……今まで辛い思いをしていた分、少し贅沢をさせてやろう……ふふ、吾輩の猫である。
終わり。




