斎藤さんはコーヒーを飲みに行く
「え? 斎藤さんってコーヒー苦手なんですか?」
目の前で年下の同僚が言う。
仕事がひと段落ついたときの雑談の中の一幕だった。
「ああ、苦手っていうか、ほとんど飲まないなぁ。昔は本当に飲めなかった。だから営業してた頃は出先で毎回出されるから困ったよ」
「ああ、出てくる飲み物ってだいたいコーヒーですよね」
「だろ? 砂糖とミルク入れれば味がだいぶ誤魔化されるけどさ。皆は飲めない……って人は少ないだろうけど、そんなに好きなの?」
「好きですよ」
「わたしも~」
「まぁ、よく飲みますよね。好きですよ」
前にいるスタッフたちは口々に答える。
その意見の数々に、自分が思ったよりも少数派だったという事実に斎藤はたじろいだ。
「皆、そんなに好きなものなんだな」
「ほら、アレですよ。斎藤さんが飲むコーヒーってインスタントのヤツばっかりじゃないんですか?」
「ああ? 多分そうかな?」
「ちゃんとしたお店のコーヒーだったら、きっと違うと思いますよ」
「そんなもんなのか? あんなのただの苦い水だろ?」
「いや、さすがにそれは……」
率直な斎藤の意見を言っただけなのだが、周囲の若い連中は苦笑する。
それこそ極渋のコーヒーでも飲んだような顔だ。
こういうところも斎藤がコーヒーが好きになれない理由のひとつだった。
コーヒーが好きという連中はどうにも一家言あるというような顔をして、それがどうにも好きになれないのだ。
「皆、何でそんなにコーヒー好きなの?」
「何でって言われても……美味しいですし」
「そりゃ、そうか」
茶化してやろうと言ってみたものの、自分でも馬鹿なことを聞いたと斎藤は後悔した。
好きな理由など美味しいからに決まっている。
「そういえば斎藤さんと向かいのカフェに行くときもコーヒー飲みませんよね?」
「そうそう、毎回紅茶飲むから意外だなぁって思いましたよ」
「斎藤さんいかにもコーヒーブラックで飲みそうな顔してますもん」
「それは前にも言われたことがあるなぁ」
言われて思い出す。
斎藤は若い頃から厳めしい顔をしているせいかコーヒーやタバコが似合いそうとよく言われていた。
実際の彼は嫌煙家でコーヒーももちろん飲まない。
しかし周囲の人間はよほど斎藤の厳めしい顔にコーヒーとタバコを期待するのか、どちらも好きではないと言われるたびに同じようなことを言われたものだ。
「でもチョコクロワッサンは絶対注文しますもんね」
「甘い物は好きなんだよ」
「チョコクロとコーヒー、一緒に食べたら美味しいですよ」
「あそこのコーヒーってチョコクロに合わせてちょっと苦めに淹れてるよね」
「そうそう。斎藤さんもチョコクロワッサンと一緒ならコーヒー飲めると思いますよ」
「そんなもんか?」
向かいのカフェの名物でもあるチョコクロワッサンは斎藤の好物だ。
それがより美味しく食べれるのならコーヒーと併せて見るものいいかもしれない。
そんな表情を読み取られてのか、その中で一番若いスタッフが腰を上げた。
「ちょっと行って買って来ましょうか?」
「そうだなぁ」
斎藤は腕を組んで唸る。
お昼ご飯を食べて時間も少し経っている。
一息入れるにもいい時間と言えるだろう。
「分かった。ちょっと買ってきてよ」
そう言うと、財布から千円札を二枚出して一番若いスタッフに握らせた。
向かいにある喫茶店は市内だけでも何店舗も見かけるような有名なチェーン店だ。
テイクアウトも行っており混んでいなかったこともあり、すぐに四人前のコーヒーとクロワッサンが用意された。
「ふむ、久しぶりだなぁ」
コーヒーの入った紙コップを見て斎藤は呟いた。
その言葉の示す通り、コーヒーを口にするのは随分と久しぶりだ。
恐らくここ4~5年は飲んでいないだろう。
茶色く濁ったコップの中身を見て逡巡したのち、斎藤はチョコクロワッサンを口にした。
「うむ……旨い」
噛めば幾層にも折り重なった生地がパリパリと鳴り、舌に載せるとこってりとした甘さと、ほんのりとした苦みを感じる。
いつ食べてもここのクロワッサンは旨いと考えれいると、斎藤は周囲の視線が自分に刺さっているのを感じた。
気がつけばすでにクロワッサンは半分に減っていて、紙コップの中見は一滴たりとも減っていない。
「ああ、コーヒーだな」
「そうですよ。せっかく買ってきたのに」
「悪い、悪い」
頭をポリポリと掻く。
そうして斎藤は手にした紙コップを傾けた。
「うむ……」
熱い液体が口の中に広がる。
「うむ……」
それを味わい、ごくりと一口飲み下す。
「うむ……」
「どっちの“うむ”なんですか?」
「ああ、いや……あんまりだな。苦い」
「そうですか」
落胆したのはコーヒーを買ってきたスタッフだ。
するともうひとりのスタッフが指摘した。
「チョコクロ食べてから、すぐにコーヒー飲んだらいいんですよ」
「ああ、それもそうだな」
言われて、斎藤はクロワッサンをぱくりと一口。
それから間髪入れずにコーヒーを飲み下した。
「どうですか?」
「あぁ……」
言いあぐねてから、斎藤はクロワッサンを齧る。
「コーヒーの苦みでチョコクロワッサンの味は引き立つけど、コーヒーが旨いってわけじゃないかな?」
「そうですか……」
「まぁ、せっかく買ってきてくれたし。ミルクと砂糖たっぷり入れて飲むよ」
「ブラックで飲めたら偉いとか、そういう話じゃないんで、その飲み方でもいいんですけどね……」
誤魔化して飲むという方法が本意ではないのだろう。
残念そうに視線を伏せる。
それに斎藤は居心地の悪さを感じるのだが、旨くないものは旨くないのだから仕方がない。
手元には尻尾の先だけ残っているようなクロワッサンの欠片と、なみなみと残っているコーヒーの残り。
これではおかずだけ食べて白飯だけ残っているようにバランスが悪い。
やはりコーヒーは自分の舌に合わないようだ。
斎藤がそう結論づけようとした矢先のことだった。
「斎藤さんには“ここの”コーヒーが合わないみたいですね」
彼にとって極めて奇妙なことを三人目のスタッフが口にした。
「ここって……別のところで飲んでもコーヒーはコーヒーだろ?」
「それはそうですけど、斎藤さんさっきから“苦い”って連呼してるじゃないですか?」
「ああ、そうだな。でもコーヒーってそういうもんだろ?」
「豆によって味が違うんですよ」
「豆……ああ、そういえば銘柄とかあるんだよな。ブルーマウンテン? みたいなヤツ」
「そうそう、そんなヤツですよ」
「苦くない豆があるんだ?」
「そうじゃないんですけど、苦みが少なくて酸味が強いとか、香りやコクがあるとか、そんな感じです」
「香りとコクねぇ?」
そんなものをコーヒーに感じたことがない斎藤は首を捻る。
「この豆は何の豆なんだろう?」
「さぁ、それはちょっとわからないですけどブレンドですよね?」
「ブレンド? ああ、そういやよく書いてるよな」
言われて斎藤は思い出す。
彼自身飲食店でコーヒーを飲むことはないのだが、何しろコーヒーを置いてる店など至る所に存在する。
そこのメニューには必ずと言ってほど『ブレンドコーヒー』と明記されているのだ。
「あれってさ、何を混ぜてるんだ?」
「複数の銘柄の豆を混ぜてコーヒー淹れてますって意味ですね。さっき言いましたけど、それぞれの豆に癖があるので混ぜ合わせて誰が飲んでもそこそこ美味しく感じるようにしてるんです」
「あそこの店で混ぜてるんだ?」
「いや、向かいのカフェは大手のチェーン店だからどっかの工場で大量に仕入れて、チョコクロに合う味になるように混ぜてるんじゃないですか?……っていうか、ほとんどの喫茶店では混ぜたヤツを買ってると思いますよ」
「店では混ぜてないんだ?」
「中にはそういう所もあるとは思います。でも当店オリジナルブレンド……とか銘打ちながら混ぜた豆を買ってるところも多いと思いますよ。まぁ、そこまでコーヒーにこだわりもないし、美味しかったら別にいいんですけど」
「安い豆だけ混ぜて旨くなったら見つけものだもんな」
「身も蓋もないですね。でも高い豆の方が美味しい……とは言い切れませんけど、高いのは癖が強くて特徴的ですね。ほら、お酒と一緒ですよ」
「そう言われるとしっくりくるなぁ」
意外なコーヒー談議に斎藤だけでなく、周りの二人も「ほう」と息を漏らす。
どこそこのコーヒーが旨いと嫌みったらしく語る自称コーヒー通ならイラっとくる斎藤であるが、こういった蘊蓄ならば面白い。
他のスタッフたちも、何なく知ってはいたものの詳しくは知らなかったらしい。
「最近はコンビニとかファーストフード店でも美味しいコーヒーは多いですけど、あれは斎藤さんが嫌いな“いかにもコーヒー”な感じにブレンドしてますからね。コーヒーの専門店だったら、色んな豆が置いてたりするんですけど」
「そういう所に行ったら苦くないコーヒーもあるんだ?」
「多分……その辺は斎藤さんの好みもあるでしょうから」
「そりゃそうだな」
言ってから斎藤は唸る。
多少なりともコーヒーに興味はあったのだが、それでもわざわざ専門店に行ってまで飲みたいとも思わない。
これが一週間ほど前の話だった。
その日ふらりと入った店からすぐに出なかったのは、そのときの記憶が新しかったからかもしれない。
休日の午後、買い物帰りに立ち寄った喫茶店でメニューを見た斎藤は低く唸り声をあげた。
「珈琲専門店……当店では珈琲以外のメニューはありません。ご了承ください」
メニュー表の表紙部分にガッツリと書かれた文字を声に出して読む。
この店を選んだのは偶然だった。
普段、斎藤は喫茶店で一休みするとき大手のチェーン店を利用する。
ところが今日は少し事情が違っていた。
桜が散ったばかりでまだ肌寒いと薄手のコート羽織ってみたものの日差しが予想以上に強く、汗をじっとりと掻いてしまっていた。
蒸し暑さに耐えかねてどこか涼を取れる場所はないかとたまたま行き着いたのがここだったのだ。
幸い店内の雰囲気は悪くない。
如何にも「昭和からやっています」というレンガ風の外壁はレトロに作られており、中に入れば薄暗い店内にはジャズが流れていた。
そこに漂うコーヒーの香り。
斎藤はコーヒーの味は嫌いだが、コーヒーの匂いは嫌いではない。
なにしろ普段からケーキやクッキーなどの焼き菓子に入っていれば気にせず食べているのだ。
「アイスコーヒーでいいか……」
冷たいアイスコーヒーならば今日の暑さにもぴったりだし、ガムシロップをたっぷり入れれば苦さも気にならない。
そう思い一応……と思い、メニューを開く。
するとそこには見覚えのない名前のメニューがずらりと並んでいた。
「ハワイコナ、ブラジルサントス、マンデリン……豆の名前か?」
見ればそれぞれの下の部分に説明が書いていた。
フルーティーな爽やかさ
花の蜜のような甘み
ミルクのような風味
そういった、味だの、匂いだの、舌触りだのがそれらしく書いてあるのだ。
「ミルクのような……か。ミルク入れたらそれでいいんじゃないのか?」
眉間に皺を寄せて斎藤は呟く。
それを言ったらお終いだとコーヒー好きのスタッフたちが嘆いたかもしれない言葉だ。
やはり自分はアイスコーヒーがいい。
ガムシロップをたっぷりと入れたやつだ。
そう考えてメニューを閉じかけたとき、気になる一文が斎藤の視界に飛び込んできた。
【ドミニカプリンセサワイニー】
ワインのような香り。上品な酸味と風味があり、後味に残る甘みが特徴です。
「ワインのような香り?」
斎藤は酒好きだ。
バレンタインデーの時期は百貨店のチョコレートフェアにひっそりと忍び込み、高価なチョコレートをワインで一緒に嗜む程度にはワインも飲む。
その斎藤にとってワインの一説が妙に頭にこびりついた。
コーヒーなのにワインとはこれ如何に?
「コーヒーにワインを入れたような味なのか?」
斎藤自身やったことはないが紅茶にブランデーを垂らして飲むというのは聞いたことがある。
そういうものなのを想像する。
「いや……この説明だとワインの匂いがするコーヒーという意味合いに見える」
説明文にワインのような香りとはあるが、ワインが入っているとは書いていない。
ワインの匂いがする豆を使っているという意味だ。
「ワイン、豆、コーヒー……」
三拍子が頭の中で鳴り響く。
好奇心が沸々と湧き上がって来た。
「まいったな」
コーヒーへの苦手意識を未知への興味が上回る。
値段は800円と、チョコクロワッサンの店なら3杯分の価格だったのだが、気がつけば斎藤は店員を呼びワインの香りがするというコーヒーを注文していた。
やって来たコーヒーは当たり前ではあるが黒い色をしていた。
幅広で薄いティーカップの縁は金色に装飾されている。
そこに八分目に注がれたコーヒー。
隣には金属製の砂糖壺とミルクポットが置かれている。
斎藤がピカピカに磨かれた銀色のミルクポットに手を伸ばそうとしたとき
「おっと――!」
まるで弾かれたようにミルクポットから手を引いた。
「入れたらワインの匂いじゃなくなるかもしれないからな……」
一人ごちながら改めてカップに手を伸ばす。
そうしてゆっくりとカップを口元に運んだ。
カフェ全体がコーヒーの香りで包まれているために気がつかなかったのだが、カップを鼻に近づけると酸味のある薫りが鼻孔の中をくぐっていく。
「ん?……ワインか?」
そう言われればそうだし、じゃないと言えばこちらもそうだ。
もう一度、匂いを嗅ぐ。
「うむ、まずは飲むか」
続けて嗅ぐのだが判断がつかない。
ただ薄暗い店内やジャズの音色、800円という価格、金縁のティーカップ。
それらが相まって普段飲むようなコーヒーとは明らかに風格が違っていた。
「んむ……」
唇をカップにつけると、黒い液体が舌の上を滑っていく。
同時にコーヒーの香りがふわりと鼻にまで通っていった。
「んむ……!?」
目が覚める。
脳にまで染み渡ったのは確かにワインの香りだった。
鮮烈でも強烈でもない。
しかし確かに葡萄の香りがコーヒーから漂ってくる。
「これは……??」
味はコーヒー。
だが苦みはない。
強いて言うなら酸味が強く、ほのかに葡萄の香りがする。
なのに味はコーヒー。
それは斎藤にとって初めての経験だった。
「んぐ……」
噛むように味わう。
味はコーヒーなのだ。
なのにこの味は嫌ではない。
透明度のある黒い液体が口内を満たす度に多幸感に包まれる。
気がついたときにはカップの底が見えていた。
「うむ……馬鹿に出来ないものだな」
これまでコーヒーを語る連中を煙たがっていた斎藤だが、こういうものを体験してしまうと否定しにくくなってくる。
「次はコーヒー頼んでみようかな……」
今度チョコクロワッサンを食べるときはもう一度コーヒーを試してみよう。
そう考えて斎藤は最後の一滴を飲み干した。