Phase 3 trash and trash, and love 01
鉛色の雲が、空に立ち込めている。
今にも雨が降りだしそうだった。
シロガネは新宿の新市街を歩いていた。
懐にはナイフとマスク型端末、それから光学迷彩服。
相変わらず、この街は鮮やかな色で満ち溢れている。マスクをしていないのにも関わらず、視界にピンクが映るから、あまり好きではない。
それでも以前に比べれば、この低俗な街も少しは好きになれたような気がする。
シオンのおかげで、多少ではあるが毎日が楽しいと思えていた。
だけど同時に、彼女が枷であることに変わりはない。
先月、ノルマを達成できなかった。そして今月もまた、ノルマの達成が危うい。
たぶん、次はないだろう。
だからと言って、それをシオンのせいにするつもりなど毛頭ない。悪いのは自分自身の弱さだ。
この生活を続けていくためにも、シロガネはやらなければいけない。
「……っと」
通りの真ん中で、体を90度回転させて横に曲がる。人込みを縫い、ビルとビルの間の路地に入って行く。
生ごみの臭いが嗅覚センサを刺激する。
路地は少し行くとすぐ行き止まりになっていて、ビルの裏口があるだけだった。もちろん人通りなどなく、表通りに繋がっていながらほとんど死角のようになっている。
彼女はそこで装備を整え、壁にもたれかかった。そうして、裏口から出て来るhIEを待つのだ。
この路地に面したビルの1階は、どちらも飲食店だった。
「……!」
あまり待たないうちに、1体のhIEが出て来た。居酒屋の紺の制服に身をつつみ、ごみ袋を両手に1個ずつ持っている。
「……ダメだ」
シロガネはかぶりを振る。
ピンクのフィルタ越しに、そのhIEの顔を想像していたのだ。
彼女は自分に言い聞かせる。
ただのカタチに、意味なんてない。感情のように見えるのはただのプログラムだ、と。
――――もしそうなら、シオンも同じではないのか?
「っ……」
吐き気がした。
彼女をただのカタチだとは思いたくなかった。彼女がくれたものは本物だ。
だけど、つらいけれど、今は割り切らなければいけない。
彼女は山刀を抜いた。hIEに後ろから忍び寄り、うなじを斬り裂こうと刃を走らせて――――
hIEの向こうに人影が見えた。
「え……!?」
シロガネは目を見開く。
その瞬間、目の前にいたhIEの機体が消えた。
……否、体を《《く》》の字に折って沈んでいた。
一度軌道に乗った刃はなかなか止まらない。
遠心力に導かれるまま、何もない空中を斬る。当然、手ごたえもない。
「っ……!」
シロガネは後ろに跳び、その場から距離を取った。
何が起きたのか、理解できなかった。
「…………」
倒れたhIEを、人影が見下ろしていた。
体格からして、たぶん男だ。彼女と同様にフルフェイスマスク型の端末を付けているので、顔はわからない。
彼が顔を上げた。
「よお、お前がシロガネか?」
「……あんた、誰」
警戒心を滲ませた声で訊ねる。
マスクが男をスキャニングする。彼もまた戦闘サイボーグのようだ。
「オレか? オレのことなんてどうでもいいだろ。お前を始末しに来た、ただそれだけだ」
「……始末?」
「ああ。お前は、組織から《《パージ》》される」
「組織……あんた、《人類共同戦線》の人間? なんでそんな話になっている」
男が肩をすくめる。
「身に覚えがないのか?」
「……もしかして、hIE破壊のノルマの話? だったら、今月は大丈夫だから……」
「それだけじゃ、ここまでしねえよ」
男が短く切り捨て、半身で構える。
「とにかく――お前は用済みなんだよ……ッ!」
シロガネが山刀を持ち直した瞬間、男が距離を詰めて来た。躊躇なく、一気に踏み込んでくる。
左こぶしが飛んできた。
シロガネは空いた左手でそれをいなす。同時に男の右後方へと飛び込む。
首元ががら空きだ。男は初撃を外した直後だから、避けることも守ることもできない。
「――ッ!」
勝った、と思った。
首に山刀を叩き込む。
――――オーナー。
「またかッ……」
シオンの声が、頭の中で響いた。
刃の動きが鈍る。
ほんの一瞬の隙だった。
だがそれが、サイボーグ同士の戦いでは致命傷になる。
男が後ろ蹴りをくり出した。踵がシロガネの胸骨フレームをわずかに歪ませる。
刃が首をかき斬る、一刹那前だった。
息が漏れた。
衝撃で、上体が大きくのけぞる。山刀を取り落とさないようにするのが精一杯だった。
さらに続けて掌底が、シロガネの顎に追い打ちを食らわせる。
「がはっ……」
口の中で鉄の生々しい味がした。脳が揺らされ、世界まで揺れたように見える。
その視界の中で、何かが猛スピードでこちらに迫っていた。
獣のように地面に這いつくばった直後、彼女の頭上ですさまじい破砕音が響いた。
男の蹴りが、ビルの壁面にめり込んでいた。
シロガネは1度、男の攻撃範囲から逃れた。
人工血液を飲み下す。それからマスクを操作し、フィルタの強度を上げる。
男の顔が、オレンジで塗りつぶされた。
山刀を強く握る。
短い直線の道を、《《敵》》目がけて駆け抜ける。正面から斬りかかった。
「……今度こそ」
「…………」
男は刃先を見つめたまま、わずかに体を後退させて回避。山刀を握る少女の手を押さえ、正拳突きを叩き込んだ。
だが、その拳は空を切る。
「な……!?」
男は動揺の声を漏らした。
目の前にいたはずの少女が消えていた。
直後、男の首が強く締め付けられる。冷えきった鉄が突き付けられた。
「がっ……お、お前っ、何を……」
「組織のサーバーにハッキングをかけて、あんたのマスクのバイザーを偽装した」
シロガネは男を絞める腕に力を込めた。
男が苦しげに喘ぐ。
「……殺せっ、殺せるもんなら殺してみろ……!」
「い、言われなくても、殺す……!」
山刀を逆手に持ち変え、男の首に垂直に突き刺そうとした。
――――オーナー。
「許して……」
手が震えていた。冷や汗が噴き出す。
この男はhDEでもhIEでもない人間だ。だからなおさら、殺せないことに今さら気付く。
「……やっぱりな」
男が口元を歪める。そして、頭を後ろに思い切り振った。
「っ……!?」
マスク越しに、頭突きがシロガネの鼻を殴り付ける。不意打ちに、思わず腕の力を緩めてしまう。
それを男は見逃さない。
すぐさま緩んだ腕を掴むと、背負い投げの要領で強引に彼女の体を放り投げた。
シロガネは地面に叩きつけられ、薄汚い路上を転がる。
頭突きで割れたバイザーに、近づいて来る男の姿が映っていた。
男はシロガネから山刀を奪って投げ捨てる。マスクを外した男は、ゴミを見るような目つきで彼女を見下ろしていた。
「やっぱりお前はhIEを……いや、ヒトのカタチをしたものを殺せないんだな。シロガネ」
「なんでそんなことを……」
見ず知らずの男が、どうしてそんなことを知っているのか。
わからなかった。
だが男は、その答えを言い放つ。
「――――hDEと、あんな人形と一緒に暮らして楽しいか?」
その瞬間、背筋に悪寒が走った。
「まさか……」
「ああ、組織はわかっているんだ。お前がhDEを拾ったことも、そいつに“シオン”って名付けたことも。だからお前は、《《捨てられる》》」
衝撃に打ちのめされる。
焦りが、彼女の鼓動を加速させる。
「どうして、それを知っている」
「そりゃ、監視してたからな。お前が作戦でいない間に、マイクロ・ドローンを忍び込ませてな」
男のつま先が、シロガネの腹に突き刺さった。
腹から液体がせり上がって来て、思わず吐き出す。
「ごほっ、ごほっ……」
苦しくて、泣きたかった。
だけどなにより、これからどうなるのか不安だった。
彼女との生活が終わってしまうような気がしたのだ。
いいや、終わってしまう。このままでは。
「……シオン」
彼女は願うように呟いた。
その声は虚しく、都会の雑踏にかき消える。