Phase 1 girl meets girl 03
その日は雨が降っていた。
シロガネは渋谷駅副都心線ホームに降り立つと、エスカレーターに乗って地上へと向かった。
駅を出ると、すぐ目の前がスクランブル交差点だ。雨の日だというのに、たくさんの人がいる。
彼女は人込みをかき分けながら109の方へ進み、道玄坂を上った。
次々と表示されるアパレルショップや映画館の電子広告を払いのけて視界をクリアにし、注意深く視線を巡らせた。
ここは彼女の狩場だ。彼女は今、hIEを探している。
《人類共同戦線》及び、賀上重工側からの命令は2つ。
1つ、不定期的に実行されるhIE排斥作戦に参加すること。
1つ、月に30体のhIEを破壊し、その証拠写真を送ること。
彼女が今行おうとしている命令は後者だ。
渋谷は飲食店やアパレルショップ、その他サービスを提供する店が集中していた。そういう店では、ヒトの代わりに多くのhIEが接客業に従事している。
加えて、街全体の治安があまりよくないのもポイントだった。それは20世紀からずっと変わらないことだが、街の至るところに人目に付かない場所が存在する。そこで破壊を行うのが一番安全なのだ。
雨粒が傘を叩く。
彼女はいつも通りカーキのパンツとタンクトップ、それから古びたジャケットを上に羽織っていた。
その服装があまり浮かないのも、彼女がこの街を気に入っている理由の一つだ。
井の頭線を過ぎ、道玄坂からそれる。
今日は雨の日ということもあってか、人間だけじゃなくてhIEもあまり見当たらなかった。
神泉を経由し、松濤方面に向かう。このあたりになると街が落ち着きを取り戻してくる。hIEの数も少ない。
「……?」
シロガネはふと、足を止める。
奇妙な女性とすれ違った。
彼女はふらふらとした足取りで、どこかに向かっているようだ。その身にはすり切れた布切れを巻いているだけで、その隙間から白い肌がちらちらと覗いている。
シロガネは確信する。
恐らく彼女は人間ではない。
あんな格好で雨の中を歩いていれば普通、周りの人は不審がる。
だが今、彼女に注目している人間はいない。それは、彼女がhIEだからだ。
シロガネは一度路地に入り、誰もいないことを確認してから光学迷彩服を装備した。マスク型端末をかぶり、ソレの後を追う。
マスクを起動し、スキャンしようとする。だが突如、視界が歪み始めた。
ノイズが走ってうまく画面が見えない。かろうじてピンクの円を確認できるくらいだった。
「……あのときか」
すぐに思い当たった。
この前の新宿旧市街の作戦で、一発の弾丸がマスクに被弾していた。それで壊れたのだろう。
仕方なく、マスクを外した。
「……アナログハックには気を付けろ、だっけ」
彼女は呟く。最初の作戦で上官に言われた言葉だった。
hIEはヒトとほぼ同じ《《カタチ》》を持つ。ヒトのように振る舞い、行動するようプログラムされている。
ヒトは、それがただの偽物だとわかっている。商品を買わせ、あるいは、消費者の精神的充足感を得るためのプログラムに過ぎないと自覚している。
だけど時々、その《《カタチ》》によって、《《意味》》を勝手に付与してしまう。
いい加減なヒトの《《カタチ》》システムのセキュリティホールを突き、《《意味》》によってヒトを誘導する。それがアナログハックだ。
彼女が使うマスク型端末はその対策のためにある。ヒトの《《カタチ》》をしたhIEの破壊をためらわないよう、視界にフィルターをかけているのだ。
シロガネは大して動揺していなかった。
いくらヒトのような見た目でも、結局は機械仕掛けの人形だ。
捨てhIEは雨の降る住宅街を歩き続ける。
もう二人以外、誰もいない。そろそろ仕掛け時だ。
懐からナイフを抜く。
「――――!」
そのとき、hIEの彼女が振り向いた。
シロガネが水たまりを踏んでしまい、大きな音とともに水が飛び散ったのだ。
「…………」
「…………」
透明なサイボーグと、薄汚れたhIEが見つめ合う。
hIEの、雨に濡れた亜麻色の髪が綺麗だった。薄汚れた布切れとは対照的に、陶器のように澄んだ白い肌をしている。
水滴が、hIEの頬を滴り落ちる。
「…………」
hIEはびしょ濡れのまま、見えないはずの彼女を見つめている。
すでにナイフを抜いてしまったからだ。今、向こうには空中に浮いたナイフが見えている。
本来ならば今すぐにでも破壊しなければいけなかった。hIEはセンサーの塊であり、ソレが見ている景色は録画されている。
でも、なぜか壊せなかった。
初めての感覚だった。
他のhIEを直接見ても、こんな感情は抱いたことがなかった。
「あんたは……」
「…………」
ナイフをしまい、声をかける。
すでに彼女はアナログハックにかかっていた。その自覚もある。
それでも、そのhIEのことを知りたくなった。
「はじめまして。私は桜木テクノロジー製h|hDE《human Device Elements》、O-108です」
「hDE……」
hDEは自律式ヒト型ロボットだ。他律式であるhIEが登場し、急速に普及する中でその座を取って代わられた。いわゆる前世代機というやつだ。
O-108型は、その中でも比較的高級なシリーズだ。
どうしてそんなものがこんなところを歩いているのか、シロガネには見当もつかない。
そして、どうすればいいのかもわからなかった。
今までなら、とっくにスクラップにして立ち去っている頃だ。話しかけようと思ったことさえなかった。
ここにずっととどまっているわけにもいかない。そのうち人がやって来る。そうなったら破壊することもできない。
だからと言って、放置して逃げるわけにもいかない。音声データまで取られてしまったのだ。
でも何より、そのhDEを壊したくなかった。
シロガネは訊ねる。
「……あんた、オーナーは」
「オーナーはいません」
「いないって……迷子」
「いいえ。現在、契約しているオーナーがいない、ということです」
「……捨てられたの」
「そういうことになります」
そのhDEは笑顔を崩さず、受け答えをする。
だけどシロガネは、その表情の中に憂いのようなものが見えた気がした。
それは錯覚だ。勝手に彼女が《《意味》》を見出したに過ぎない。hDEに心はないのだから。
そのとき、路地の向こうから話し声が聞こえて来た。
「まずい……」
思ったよりも許された時間は短かった。彼女はあと数秒で判断を下さなければならない。
「……来て」
迷った挙句、彼女はそう口にしていた。言葉が勝手に、口を突いて出ていた。
「わかりました」
hDEが微笑む。
「……っ」
彼女は不思議な感情の高まりを感じた。
よくわからないけど、心臓が高鳴った。
そんなことをしているうちに、人影が現れる。中年の女性が二人、買い物袋を提げ、世間話をしながらこちらに歩いて来る。
シロガネはhDEを連れ、雨の中を駆け出した。
このhDEを連れて、さすがに電車には乗れない。代々木上原の方に北上して新中野へと帰るルートを検索する。
脳内で経路図が展開される。
「……アナログハックに気を付けろ、か」
左手で捨てhDEの冷え切った手を握り、地図を確認しながら彼女はそれとなく呟いた。
気持ちが興奮して、まともな思考ができなくなっていた。息が弾んでいる。
だけどシロガネは構わず、いつもとは違うルートを走り続ける。
今の彼女を突き動かしているのは、ただの衝動。
彼女がしているのは、ただの誘拐と同じだった。