1
少し秋を含み始めた夏の風が、川の上を吹き過ぎていく。
山崎優也は、青から茜に染まり始めた空を、芝草の生い茂った堤防に座ってぼんやりと眺めていた。
——本当に、終わっちゃったなあ。
優也は、テーピングでぐるぐる巻きの左肘をそっと掴んだ。
あと一勝すれば、甲子園に行けた。
だが、優也の肘はそれまで保ってはくれなかった。
県大会決勝、7回の裏、優也はピッチャーマウンドからキャッチャーミットに目掛けて、得意のカーブを投げた。
途端。
ビシッ、という音がした。いや、実際には音はしなかったかもしれない。が、優也の左肘は、その瞬間、電流が走ったような猛烈な痛みが生じた。
内側側副靭帯損傷。
手術は明後日。
——大学、諦めないと、ダメかなあ。
ベンチに戻ってテーピングしてもらっても、痛みは引かなかった。
一年生の佐藤にマウンドを譲り、結果、9ー5の惨敗。
甲子園出場が条件だった、R大学の特別推薦入学の話は無くなった。
優也に残された道は、自力で勉強して他の大学に進学するか、専門学校を受けるか。
成績は悪い方ではない。
今からでも頑張れば、R大ほどではないだろうがそこそこの大学へ進学できる。
だが。
肘が治って、再び投げられるようになった時、入ったチームが大したことがなければ、ろくな試合にも出られないだろう。
プロ球団のスカウトが二人ばかり訪ねて来てくれたことがあったので、高卒でドラフト指名、もしくは指名外での入団という可能性も、あるかもしれないが。
——肘壊してるヤツに、もう声なんか掛かんないよなあ
未練がましいとは分かっていても、やっぱりちゃんとした野球がしたい。
——自信過剰、なのは、承知してっけどさ……。
優也はがっくり頭を落とした。
「よっ、悩んでるのかな? 少年」
不意に背後からした女の子の声に、優也はびっくりして振り向いた。
見知らぬ少女だった。優也と同い年くらいだろう。
紺地に緑と赤のチェックのベストと、共布の襞のスカート。優也の高校のものでもないし、ちょっと心当たりがない。
長い黒髪を風に揺らし腕を組み、すらりとした白い脚を肩幅に広げて堤防の歩道にすっくと立っている。
伸ばした黒のソックスのポイントは「R」。
少女は、驚いたまま見上げている優也に、にっ、と可愛い笑顔を見せた。
「よかったら、我輩がキミの悩みを聞いてやろうじゃないか?」
スタスタ、と、彼女は草地を降りると、優也の返事も待たずにストンっ、と隣に腰をおろしてしまった。
「見るところ、怪我をしているようだね」
笑顔で言われて、優也はムッとする。
その怪我で、自分は大きな人生の岐路に立たされているのだ、他人事だからと軽い口調で言われたくない。
腹を立てた意思表示にそっぽを向くと、少女は「おいおい」と、また男言葉で話し掛けて来た。
「我輩のような美少女が、キミの悩みを真面目に聞いてやろうと言っているんだ。そんなに無下にすることはないだろうが」
——もーっ!! ナニサマだよこいつっ!!
優也はますます不機嫌になる。
自分が描いていた未来——R大に入って、一軍の投手として首都大学リーグで勝ち星を上げる。
壊れた夢のかけらを追い求めて浸っていた侘しさに強引にハンマーで穴を開けて不法侵入して来た少女は、さらにズケズケと優也の心中を歩き回る。
「大方、進学先で悩んでいるんだろう。あ、もしかして、野球部でピッチャーだったりとか」
「——だったら、なんだよっ」
これ以上気持ちを引っかき回されたくなくて、優也はここから去ろうと立ち上がり掛けた。
その、怪我をした腕を、少女が掴んだ。
「いってえっ!!」引っ張られ、激痛が走った。
転がり回りたくなるほどの痛みで、優也はその場にしゃがみ込む。
「おおっと。これは失礼」
少女は本気で驚いた様子で、腕を抑えた優也を覗き込んだ。
「わざとじゃないよ? 大丈夫かな?」
「大……丈夫、なっ、わけ……、ねぇだろっ」
「とりあえず座りたまえよ、少年」
——おまえが来なけりゃこんな事故は起きなかったんじゃねえのっ!?
文句を言いたいが、痛みが邪魔をし歩く元気も無くなったので、優也は仕方なくまた芝生へ座り直した。
少女は再び腰を下ろした優也に、うんうん、と笑いながら頷く。
「見ず知らずの他人に己の不安を言い当てられるのは、少なからず不快だものな。済まなかった。——なので、少年の話ではなく、我輩の話をさせてもらう」
別に聞きたかねえよ、と思ったが、立つ気もないので黙っている。
少女の長い髪が、ふわり、と一房風に靡いた。
微かに香る甘い匂いに、優也はどきりとする。
「先月のことなんだが。我輩は下校中に交通事故に遭った。で、右足を負傷した」
「一ヶ月かそこらで治る怪我で、よかったな」
手術を控え、不貞腐れて言い返すと、少女は優也を見て淡く笑った。
「大型トレーラーの後輪に自転車ごと巻き込まれて、太腿から下がバラバラになったよ」
「は?」どう見ても少女の足は両方とも何ともない。
一ヶ月前に右脚部裂断などという大怪我をしているなら、まだ入院しているのが普通だろう。
「ウソつくなよっ。そんなヤツが今、スタスタ歩いて堤防まで来る訳ないだろう」
優也の怒りに、少女は選手宣誓でもするように生真面目な顔で片手を挙げた。
「誓って、我輩はウソをつくような人間じゃあない。今は少年には我輩の姿が普通に見えているだけだ」
——訳、わかんねえ。
バカバカしいと鼻を鳴らす優也に気付かないのか、無視しているのか、少女は話を続ける。
「交差点で信号待ちをしていたんだけど、ちょっとチャリの前輪が出過ぎたかな、とは思ったんだ。引っ込めようとした瞬間、左折のトレーラーがギリギリを回って来たんだ。あっ、て思った時には意識がなかった。——次に目が覚めたら、病院のICUに入ってたよ」
優也は目を剥いた。
少女が本当にウソつきでないとしたら、驚異的な回復力を持った超人か、もしくは。
——ユーレイっ!?
と、思った時。少女がにっ、と笑った。
優也は背筋がゾッとした。
今度こそ勢い良く立ち上がった。
「ん? どうしたのかな?」
幽霊、かもしれない少女が、笑った顔のまま見上げて来る。
——詳しいことなんか、絶対、聞きたくない!!
聞いたら最後、あちらに連れて行かれるかもしれない。
本当かどうかは知らないが、その手の話にはよくそういう終わりがくっついている。
「わっ、わりっ!! 俺っ、用事があったっ!!」
何を謝る必要もないのに「ごめん」と片手を拝む形にして、優也は堤防を全速力で走り出した。
「おーい、少年っ!!」
少女の呼ぶ声が追いかけて来たが、振り返ったら大変なことになると思い込んでしまった優也は、一目散に家路を辿った。