26.あれは紛れもなく奴さ
――紀元前226年 ギリシャ アテネ
プトレマイオス朝エジプトのアレクサンドリアを出発したマハルバルは、ギリシャのアテネに向かっていた。ギリシャはペロポネソス半島を中心に都市国家であるポリスが寄り集まって構成されている。
ギリシャと呼ばれる地域にはペロポネソス半島に加え、大きな島だとクレタ島が含まれている。ギリシャは大きく分けてマハルバルが向かっているアテネを含むアカエア同盟とアエトリア同盟の二つの同盟が存在する。
同盟間での抗争や反発もあり同盟は決して一枚岩では無かったが、ギリシャの北には強力なマケドニアがあり、北東にはペルガモン王国、そして海を渡った西側にはローマのあるイタリア半島があるため、諸都市は抗争を繰り返しながらも外敵に備えるために同盟を堅持していた。
マハルバルの記憶でギリシャと言えば、先のポエニ戦争の英雄スパルタのクサンディポスの名が真っ先に思い浮かぶ。ギリシャにあるスパルタの傭兵隊長であったクサンディポスは、カルタゴ本土に上陸したローマ軍を打ち破り彼らを追い返すことに成功した。
この戦いはほぼ同数で行われたが、ローマの戦死者一万人超に対し、カルタゴ軍の戦死者は千人にも満たずカルタゴが後世に語り継ぐほどの圧勝だった。この時活躍した戦象の生き残りは今も手厚くカルタゴで飼育されている。
マハルバルは何人かの傭兵隊長の名を聞いていたが、新たにガビアの使者を通じハンニバルから『禿鷲傭兵団』へ最優先で接触するよう申し付けられ、使者から書状を手渡されたので、まずは彼らのいるアテネに向かっているというわけだ。
もし『禿鷲傭兵団』の傭兵隊長を引き抜くことができれば、マハルバルは一旦アテネを去り、次なる目的地に向かうよう指示された。一人だけの接触で終わらせる理由は予算の関係だろうと推測する。
他国から人を招くことはそれなりの金銭が必要だと、マハルバルはハンニバルから聞かされている。人材登用以外にも金銭が必要な事業はいくつもあり、更なる人材登用を行うとしたらバルカ家によるイベリア支配が安定してからだろうと彼は考えていた。
先にアレクサンドリアを見ていたからかアテネに到着し街の外観を見てもそこまで驚くことは無く、マハルバルは目的の酒場を目指す。ハンニバルの情報によると、『禿鷲傭兵団』はそこをねぐらにしているらしい。
酒場に入るとカウンターにはマスターらしき屈強な体つきのハゲ頭の男が挨拶してきたので、マハルバルは手をあげそれに応じるとカウンター席に座る。
「マスター、エールを一杯いただこう」
マハルバルはハゲ頭のマスターに『禿鷲傭兵団』について尋ねようと思い、一杯注文する。
「あいよ。男前の兄ちゃん」
マスターはマバルバルの注文に応じエールをコップに注ぐと、すぐに彼の前にトンとエールの入ったコップを置く。
「マスター、『禿鷲傭兵団』について聞きたいのだけど……」
「ほう。兄ちゃん、『禿鷲傭兵団』に入りたいのか? そうだな、そろそろあいつが来る頃だ」
「あいつとは?」
「ああ、女ばかり口説いているがあれでも傭兵団の団長なんだ」
「おお。傭兵隊長殿がこれから来られると」
「殿ってつけるような奴じゃねえけどなあ」
マスターは愛嬌たっぷりに片目をつぶるが、強面の顔と相まって全く似合っていない。むしろ不気味に見えた。
「お会いできるのが楽しみです」
マハルバルはエールを口に運び、『禿鷲傭兵団』の隊長が現れるのをここで待つことに決めた。待ってる間はこのハゲ頭のマスターに聞けることを聞いておこうと思い、口を開こうとすると……
「お、来たぜ。紛れもなく奴だ」
マスターが顎で入口の方を指すと、マハルバルは立ち上がり踵を返す。
酒場の入口には、金色に近い茶色の巻き毛を肩口まで伸ばし長身で筋骨隆々な男が、両脇に肉感的な美女を二名侍らせていた。
男は三十歳前後で、両腕で左右の美女の肩を抱いている。
マハルバルはこの男の姿にあっけにとられ、挨拶もできず固まってしまった。男はマハルバルに気が付くと、ゆっくりと彼の方へ美女を連れて歩み寄るとしゃがみ込んで下から上までマハルバルの体を眺める。
「ヘーイ! 長髪の優男かと思いきや……兄ちゃん、なかなかの腕だな」
男は軽い調子でマハルバルへ感心したように語り掛ける。
マハルバルはようやく我に返り、ビシっと敬礼し男に挨拶を行う。
「私はマハルバルと申します。貴殿は『禿鷲傭兵団』の隊長殿で間違いないでしょうか?」
「どうした? 兄ちゃん、『禿鷲傭兵団』へ入りたいのか? でもなあ、『禿鷲傭兵団』はスパルタ出身じゃねえとダメなんだぜ。でもまあ、兄ちゃんなら入ってもらっても構わねえ」
「いえ、そういうわけではなく……実は我が主から書状を預かっておりまして」
「オウケエイ、分かった分かった。でもな、男だったら名乗られたら、ちゃんと名乗り返さねえといけねえ」
男はコホンと咳払いを行い、パンパンと自身の上着をはたくと背筋を伸ばし言葉を続ける。
「俺は『禿鷲傭兵団』のボスをやってるオケイオンってもんだ」
マハルバルは絶句する。オケイオンと表情一つ変えず名乗るこの男……本気で言っているのだろうか……と彼は思う。
「オ、オケイオン殿ですか……」
「ああ、本名じゃねえがなあ。通称だ。ギリシャ一の種馬とは俺の事だぜ! 兄ちゃん」
握りこぶしをギュと前につきだしニヒルな笑みを浮かべた男――オケイオンに両側の美女からキャーと歓声があがる。
アレクサンドリアで会ったクテシビオスとはまた違った意味で個性的過ぎるこの男に、マハルバルは内心頭を抱える。どうして、このような者ばかりなのだ……マハルバルの心の嘆きは誰にも聞こえることは無い。
「マハルバルだったか? 男前の兄ちゃん。こんな奴でもオケイオンは本当に『禿鷲傭兵団』の団長なんだぞ」
見かねた酒場のマスターが口を挟む。
「ヘーイ! 何言ってんだマスター。俺はやる時はやる。仕事はきっちりこなすのが男ってもんだぜ」
オケイオンは肩を竦め、マハルバルを見やる。
「失礼いたしました。我が主からの書状をお納めください」
マハルバルは膝をつこうとすると、オケイオンはそれを手で制しマハルバルが手に持つ書状を受け取る。
「兄ちゃん、かしこまったのは要らねえって。男に大事なのはそういうのじゃねえ。ここだぜ」
オケイオンはニヒルな笑みを浮かべると自身の胸に親指を突き立てる。
「は、はあ……」
オケイオンの理解不能な行動にマハルバルは思わずため息が漏れた。
オケイオンはマハルバルの様子を気にも留めず、書状を開くと読み始めた。
書状を全て読み終えたオケイオンは大声で豪快に笑うと、マハルバルの肩をポンと叩く。
「マハルバル、こいつはおもしれえ。お前さんの主ってのに会ってみたくなったぜ」
「ありがとうございます!」
オケイオンの色よい反応に感謝の言葉を述べるマハルバル。
「お前さんの主は本当に面白れえぜ。俺達の腕は疑ってないが、俺の指揮能力は信じられねえんだとよ。試験をするから来いと書いてやがる。男だったら挑戦は受けねえとな。カディスまでいっちょ行ってくるぜ」
「旅費は全て我が主が持ちますので、申し付けください」
「要らねえよ。いい男ってのは細かいことは気にしねえもんだぜ」
オケイオンは口笛を吹くと、美女と一緒に酒場を出て行った。
「勝手な奴だが、ああ見えて頼りになるんだよ」
仕方ない奴だという風に肩を竦めるマスターがマハルバルへ声をかけていたが、そう言いつつもマスターの顔は笑顔だった。




