世界5分前仮説~神様が紳士である可能性を否定出来ない~
世界は5分前に作られた。これは俗に言う世界5分前仮説である。元々ノーベル文学賞を授賞している方から産まれた物なだけあって、その仮説は反証不能である。
5分前の世界のステータスを究極の数学者たる創造者――則ち神が捻出し、演算を開始させたのだ。
その仮説の強固さを示すため、仮に「今朝もマヨネーズライスを食べた記憶がしっかりとあるじゃないか」 といった具合に5分前仮説に反抗してみたとしよう。
世界5分前仮説はひらりとその攻撃をかわす。5分前仮説はその記憶も神の創造物だとするのだ。記憶は海馬という器官で管理されているが、そこに集積された情報も結局は物質で出来ている。神はその人にマヨネーズライスを食べたという偽りの記憶を持たせるため、ニューロンやその他諸々を意図して設計するだけでいいのだ。
こういったわけで5分前以前の記憶は理論を反証するに至らない。どころかそれを含んで5分前仮説とも言える。
他のアプローチで5分前仮説に立ち向かいたいところだが、全て徒労に終わる。世界5分前仮説はその可能性を純粋な意味での0にしなければ反証出来ない。そして必殺の「それも5分前にそう作られたんだよ」 をパッシブスキルとして持っている。
日本ではG、英語圏ではCの黒光りするアイツも真っ青な生命力を持っているのだ。
話はそれるが、この世界5分前仮説的な人が実際にいると非常に厄介というか、ウザい存在か爆誕する。
例えば探偵物や刑事物のドラマなり小説なりを思い浮かべてほしい。
見た目が子供な探偵が密室トリックを華麗に解いて、それが可能な世界5分前仮説的な人を犯人だと断定した。ところが5分前仮説的な人は動揺しないでこう言うのだ。「それ、他の方法での犯行の可能性が消えてなくねぇか」 と。
この時点で非常にウザいが、事前に鑑識に頼んでおいた事もあって、被害者の爪の隙間にあった皮膚片のDNAが仮説的な人のDNAと完全に一致し、相棒を連れた天才警部が冷静にそれを告げた。しかし「誰かが俺を犯人に仕立てあげようとしたんじゃねぇか」 と説的な人は取り合わない。ウザい。
目撃者の証言も、見間違い。監視カメラの映像はデータのすり替え。といった具合であるから尚のことUZAい。
最終的には時間を巻き戻す系の超能力探偵が現行犯で捕らえたのだが、的な人は「何らかの超能力とかであんたの目や耳が誤認させられている可能性が消えてなくねぇか」 と疑わしきは罰せずを声高々と提唱しさえしやがる。エクストリームウザい事この上ない。
パトリオットウザい世界5分前仮説的な人の例から分かるように、世界5分前仮説を反証しようとすると精神衛生上良からぬ事態が発生する。だからというわけでは無いが、世界5分前仮説反証の試みはここで諦めさせていただきたい。
ところで私は最初に世界5分前仮説に神を登場させたが、神の存在は必ずしも必要とされていない。偶然世界が5分前の状態で発生したとすれば、世界5分前仮説は創造主無しで成立する。
しかし、どちらの場合でもこの世界が非常に滑稽な物に映るのは確かだ。
それはマヨラーやロリBBAが神の考えた物であったり、世界が偶発的に世界5分前仮説というメタを内包して誕生した物であったりする、ということを私達は否定出来ないという理論そのものだからだ。
そうなると有神論的には、威厳溢れる神が各種萌えや特殊性癖を考えたのだから、神は究極の紳士であった可能性を否定出来ない。
無神論的には、朝起きたら敷布団に伊能忠敬もビックリな日本地図が誕生しているというコメディこそが、この世界の真理である可能性があるということだ。
どちらにしてもダーウィンの進化論のような説得力は持ち得ないし、神話の始まりほど荘厳ではないが、宇宙がビッグバンで始まったというのと同等にこの世界を正確に表記してみせる。しかし政治家のマニフェストと同程度に真実ではないのは勿論のことだ。
ビッグバンモデルは言い換えるならば世界138億年前仮説である(宇宙の年齢は約138億歳であると言われている)が、世界5分前仮説は何故『5分』前なのだろうか? というのもこの仮説は10分前だろうと、3日前だろうと、たとえ46憶年前だろうと、成立するからだ。それも何の問題もなく。
ただし、世界5分前仮説の産みの親は46億年前という設定は嫌うはずだ。何故ならこの仮説の意図として自らの記憶が絡まなければいけないからだ。
今朝のマヨネーズライスの記憶が偽の記憶である可能性を否定出来ないのと、福井県出身のイグアノドン科の化石が偽の記録である可能性があるのでは話が違う。
世界5分前仮説は、知識や記憶とはいったい何なのか? この問いを提起したかったはず。
よって自己が明確な自我を持った時、いやもっと後、一切の疑いなく信頼出来る記憶のある時以降でなければならなかった。
その考え方でなら別に世界5時間前仮説でも良かったはずだが、彼――バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルはもっと鋭く5分とした。
5分前なら記憶だけでなく実感も残り得る。つまり、確かな実感さえも疑えるかと暗に挑戦しているのだ。5分というごく最近であるからこそ、感情的にこの仮説を否定したくなる。そういう事なのだろう。
ラッセル氏にとって世界がごく最近の物でなければならなかった理由はこんな感じで粗方いいと思うが、もう一つ逆の見方も出来る。
世界5分前仮説は何故、もっと最近の3分前やセシウム133原子の放つ電磁波の周期の約100億倍前ではだめだったのか、もしくは何故そうしなかったのか、ということだ。
最近であればあるほど仮説の鋭さは増すはずなのだ。そこをラッセル氏は5分に自重した。この意味も考えなければならない。
初めに思いつくのは彼自身が世界0分前仮説を許容出来なかったということだ。
5分前と0分前の間には天と地程の差がある。彼は過去は疑えても現在を疑うことが出来なかった——という厨二チックな論だが、これは無いと思っていい。
何故なら彼がバートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルだからだ。
世界5分前仮説の産みの親たる彼こそが世界5分前仮説の意味を最も理解している。世界5分前仮説が理論的には現在という時間においても成立することは当然理解しているはずだ。
であるとしたら、理由は別の所にあるはずだ。(最後のジムのドンがいた場所とか)
私はそれが結局題意なのだと思う。
世界5分前仮説が投げかけているのは『汝の記憶を疑えるか』だ。
ところが世界0分前仮説になると、これがより強い命題に取って代わられる。
つまり曖昧になるのは現在の記憶ではなく自己の存在になる。どちらかというと脳を水槽に浮かべる方に近づいてしまうわけだ。
すなわち世界0分前仮説は、
『君と過ごした時間は偽物でもいい。偽物でも大事な、宝物だから。私、きっと、偽りを抱いて生きていけたよ。頑張れたよ。でも、なんで……なんで私まで偽物だなんていうの……ひどい、ひどいよそんなの』
1,…………(強く抱きしめる)
→2,僕も君もおんなじ偽物だから……(そっと手を取る)
というよく似た別ジャンルの題意にすり替わるのだ。
あまりに鋭い刃は持ち主をも傷つける。過去の知識や記憶を疑うのに0分では鋭すぎるのだ。
だから世界5分前仮説になったのではないだろうか。
勿論、この理由ではなく、ラッセル氏の気まぐれである可能性も否定出来ないし、まったく別の理由である可能性も否定出来ない。同様にこの説が正しい可能性も否定出来ないのだが。(この場合の否定出来ないは世界5分前仮説ほど強くない)
私にはラッセル氏が何を考えて世界5分前仮説を世に放ったのか、また世界5分前仮説に何を思ったかを知ることは出来ない。ただ出来るのはファンタジーな世界でチート主を描くように、想像すること、理想化することだけだ。
そうして理想化された世界5分前仮説はメッセージを持っているように思えてならない。
過去の記憶も知識も正しくないかもしれない。だからこそ現在や未来が大切にされるのではないか。
過去は自分自身へのメッセージには違いないのだろうが、現在の自分に理論上その責任は存在しないとも言える。
例え過去が偽りであっても世界が0分前の仮説ではないのだから、確かな存在の現在を、そしてその先に続くであろう現在の連続をこそ大切にすることは出来るはずだ。
疑わしい過去ではなく、確からしい今を生きろ……と。
偶然にもラッセル氏はアインシュタインと共に核廃絶と科学技術の平和利用を訴えていた。過ぎ去った不確かな過去を擁護するのではなく、確かな今を変えようとしていたのだ。
つまり、子は親に似たのかもしれないにゃ。
さて、グダグダと世界5分前仮説について一人語りしてきたが最後に、
『俺たちの冒険はこれからだ』 という言葉は物語の打ち切りendの定型文だが、それこそまさに世界創造の瞬間なのだと思う。
確かな彼らの人生はそこから始まるような気がしてならないのだ。
ならば現実世界に生きる私達にとってこそ常に、私達の人生は“これから”なのだ。