左利きの男
自分の妻が殺されたことに、男はまだ実感が湧いていないようだった。
その男は茫然とそして虚ろに、妻の変わり果てた姿を見つめていた。
涙も枯れ果てたのだろうか。
男は泣くこともせず、目の前の冷たくなった妻をただ愛おしそうに擦っていた。
『一緒になって40年の記念日だったんだよ...
それがこんなことになって...』
遠くを見つめながらそうつぶやく男に、誰も声をかけることはできなかった。
閑静な住宅街で事件が起きたのは、7月7日未明だった。
自宅マンションで妻と2人、ささやかな結婚記念日を祝ったその夜、すっかり酔った妻をソファに寝かせ、自分は寝室に行って眠ってしまったと男は消え入るような声で警察に話した。
『午前2時くらいかな。しょんべんに行くついでに「かかあ」の顔見に行ったんだ。
そしたらさ...』
零れ落ちる涙を、男は右手の袖で拭いた。
この暑いのに長袖を着ている男。
だらりとした左の袖は、ピクリとも動かない。
小さい頃に農機に巻き込まれ、左肩から先を失ってしまったと言う。
男の左袖は、だらしなく肩から垂れ下がっていた。
『どう考えても、あの男しか被害者に接近できないんです。』
『他に容疑者は見当たらないのか。』
『はい、玄関のカギは空いていたのですが誰も入った形跡もなく、残っていた指紋もあの男と被害者のものしか見つからないのです。
犯人は手袋をしていたのでしょう。
凶器と考えられる包丁からは指紋が見つからないんです。』
『しかし状況的にはあの男に間違いないだろ。』
『しかしですね、被害者は頸部を絞められながら、右肺から心臓にかけてブスリと刺されているんです。
首についた痣から解析すると、犯人は右手で首を圧迫しているんです。
その状況だと、どうしても左手で刃物を使わないと被害者を刺すことは不可能なんですよ...
あの男には左腕がないですからね。』
『...そうか...』
事件はそのまま迷宮入りとなり、やがて時間がそのことを風化させていった。
男は相変わらず昔と同じように、亡き妻と暮らしていたマンションにそのまま住み続けていた。
ただ昔とは違うことと言えば、男の横には妻とは別の若い女の姿があることだった。
『意外とうまく行ったな。』
『そうね。』
『俺には左手がないから、人を刺せないとあいつら思ってるんだよな。』
男は笑いながら、自慢そうに左足の太腿を右手でパンっと叩いた。
『ほんとほんと。
でもあなた、いい加減その包丁捨てたら?
気持ち悪いわ...』
『まだ使える。もったいない。
それにしても俺の左足はよく動くな。
靴下を履いていたって、包丁くらい簡単に持てるんだもんな。』
ソファに座っている男は巧みに左足で包丁を掴み、右手で握った林檎を器用に剝き始めた。
妖しく光るその包丁には、男と女のゆがんだ笑い顔がぼんやりと映しだされていた。
真っ赤な林檎の皮が巻き付いた包丁の刃には、まだどす黒い血糊が残っていた。
-終わり-




