1.黒い手紙
昼なかだというのに薄暗い路地裏を、1人の少女が走っていた。きつく結んだ栗毛の束が右へ左へ揺れている。健康的な頬は赤く染まり、足取りは軽やかだ。その手には数枚の白い紙が握られていた。
『愛しのリリィへ』
『 あなたがこの村を出てから1週間が経ったわね。あなたがいなくなってから、私の毎日は随分味気ないものになってしまったわ。私もそちらへ行こうかしら。母に言ってみたのだけれど、こっぴどく反対されてしまったわ。
レスビルはどんなところ? なんでも、優秀な人材が育つ街だそうね。そこならばきっと、あなたの良さや『力』を理解してくれる人に出会えると思うわ。あなたがいなくなってしまったのは寂しいけれど、この閉鎖的な村から開放されて良かったと思う。そうそう、あなたには隠し事ができないから言ってしまうけれど、あなたの親といったら本当に人でなしだわ! あなたの住所を教えようとしたら、必要ない、なんて言うのよ。腹が立ったから、住所の書かれた紙をくしゃくしゃに丸めて投げつけてやったわ。もちろん、その夜散々父や母に怒られてしまったけれど。あんな家、出て行って正解よ。
ええと、嫌なことを書いて、ごめんなさいね。まだまだ書きたいことは山ほどあるけれど、それは次の手紙で書くわね。今は一刻も早くこの手紙を届けたいの。
リリィが健やかでいることを祈って。あなたの親友アリスより』
手紙からは柔らかな翠の光が漏れていた。その色にリリィは笑みをこぼす。アリスの、友を気遣う優しい想いが溢れていた。この色はリリィにしか見えていない。これこそがリリィの『力』だった。
いつから色が見えるようになったのかは覚えていない。物心付く頃には、様々な文章が色彩を帯びていた。浮かび上がる色は想いの形によって異なり、その濃さは想いの強さや時間の経過によって変化した。
聡い少女は、自分が人とは違うことをぼんやりと理解していた。排他的な村で、それを口にしてしまえばどうなるのかも。そのため、周囲と同じように、その色がまるで見えていないかのように振舞った。それでも、幼い少女が懸命に作り上げた平和は、ある日あっさりと崩れ去ってしまった。
少女が12歳になる頃だ。はやり病で寝込んだ少女のもとへ、気遣う手紙がいくつも届けられた。その中に、それは混ざっていた。少女の目を通すと、気遣いや想いやりは翠色の光として現れる。しかしその手紙は、まるで腐った血のような赤黒いもやを帯びていた。そのせいで、本来の姿がわからないほどに。
(なんなの、これ)
恐ろしくなった少女は、慌ててそれを屑入れへと押し込んだ。
(誰かを怒らせるようなこと、したかな……)
考えてみたけれど、身に覚えは無かった。不安に胸を潰されそうにながらも、乱れた息を整えていると、控えめなノック音が響いた。びくりと肩を揺らした少女は、ドアから覗かせた顔をみて安堵の息を吐いた。少女をみた女は、柔らかな眉を心配そうに下げた。
「リリィちゃん、そんなに青い顔をして、大丈夫?」
「おばさん」
「やっぱり、まだ辛いわよね? かわいそうに……」
「いえ、私は元気よ。お医者様も、もう大丈夫だろうって」
「そうは見えないけれど……」
少女はこの優しげな叔母を気に入っていた。少女がやんちゃをした時は、必ず味方になってくれるからだ。母の姉であるが、なにかと厳しい母とは全く逆の性格であった。その優しくも気弱な女が、傍らにある屑入れを見つめている。
「……これ……」
「おばさん? どうしたの?」
少女が覗き込んだとき、女は少女よりもよほど青い顔をしていた。そして、少女を捉えると、みるみるうちに赤くなっていった。叔母は見る影も無く顔を歪め、唐突に口を開いた。
「――あんたって子はっ……!!」
「そんなに私が嫌いなの?! 本当に、憎らしい子! どうして助かったのよ!! あなたなんて、病で死んでしまえばよかったのに……!!」
捲くし立てるような叔母に、少女は呆然とした。その様子が、ますます女の神経を逆撫でたようだった。
「なによ……その顔っ! 嫌いなんでしょう、私が! 手紙を捨てるほどに!! 私だって、あんたのことは嫌いだった。日に日にあの子に似てくるあんたが……っ!」
少女の脳裏に、同じ瞳を持つ母の顔が浮かんだ。
「でも、我慢してきたのよ。我侭だって聞いた。手紙だって書いた! 全て、彼が言うから――」
ぐらりと視界が歪んだ。目を閉じると、瞼の裏に鬼の顔が張り付いていた。
その後のことは覚えていない。気を失って倒れたと聞いた。
しばらくして、少女は、彼女の父が叔母と不義な関係であったこと、母が体面を保つために気づかないふりをしていたことを聞かされた。呆れたことに、父は少女の名前を出して、叔母のことは愛しているが、幼い娘のために別れることはできない、などと繕って、都合の良い距離を保っていたらしい。叔母は想い人に愛されるため、母である妹に似た少女に優しくしてきたのだそうだ。
小さな村ゆえ噂はあっという間に広がった。渦中の人は憔悴した様子で少女に尋ねた。なぜ叔母の気持ちに勘付いたのかと。少女は回らない頭で答えた。
「そんなこと、知らなかったわ」
「でも」
「――私はただ、手紙が恐ろしい色をしていたから、避けただけよ……」
「恐ろしい色……?」
時間の経った手紙は、赤黒いもやが薄れ、可愛らしい桃色をしていた。とても恐ろしい色には見えない。少女は自分の力について話した。文章に書かれた本心が、色として見えるのだと。心身共に弱りきった少女は、もはや取り繕う気力を無くしていた。
それ以来、偽り続けてきた大人たちは少女を避けるようになった。親友のアリスなどは凄いと目を輝かせたが、他の友人達は気味が悪いと離れていった。
18歳を迎える頃、少女は村を出る決意をした。事件以来、その日のために1人で生きる術を学んできた。僅かだが、こつこつとお金も貯めた。機が熟し、少女は親友にのみ新たな住処を伝え、そっと村を去った。
親友の鮮やかな笑顔を思い浮かべながら、リリィが向かうは小さな住処。早く返信を書きたい。その思いが彼女を急かした。前方に飛び出す影に気づかないほどに。
見通しの悪い曲がり角で、突然の衝撃に、リリィは尻餅をついた。
「いたた……」
「あっ、ごめんね」
伸ばされた手に従うと、ぶつかった青年は済まなそうな顔をした。
「怪我してない?」
「はい、大丈夫です」
安心させるように微笑むと、青年はほっと息をつき、再び謝り走り去っていった。リリィはお尻を軽く払い、散らばった紙を集めようとしゃがみこんだ。そして目を見張った。
黒い手紙が混ざっている。正確には、黒いもやをまとった手紙が。
(さっきの人が落としたんだわ)
折りたたまれているため中身まではわからないが、良くないものだとすぐにわかった。リリィのこめかみをひやりと汗が伝った。このままここに置いて帰りたいが、曰くつきのものを一目にさらして良いのだろうか。先ほどの青年も、とても悪人には見えなかった。誰かに頼まれたものかもしれない。置き去りにして、無くなってしまっては困るのではないだろうか。
そう判断したリリィは、居心地の悪さを感じながらも、青年の戻りを待つことにした。
日が少し傾いた頃、待ち人がやってきた。手紙の邪悪な気配で、リリィの気分はすっかり悪くなっていた。リリィと同じほど顔色を悪くした青年が、彼女を見つけて慌てて走り寄ってきた。
「君、昼間の子だよね? 手紙のようなものを見なかった?」
「これですよね」
一刻も早く手放したくて、リリィは素早くそれを差し出した。青年は目を丸くし、次いでありがとうありがとうと言いながら、リリィの腕を両手でぶんぶんと振り回した。どういった事情かわからないが、よほど大事なものだったのだろう、待っていて良かった。リリィがつられて笑いかけると、音も無く影が差した。心臓が一瞬止まる。おずおずと目を向けると、新たに、すらりとした青年が立っていた。年はリリィより少し上といったところだろうか。指通りの良さそうな金髪を切りそろえ、どことなく愛らしい顔立ちをしていた。
「見つかった?」
「はい」
素朴な青年はぱっと手を離し、緊張した面持ちで答えた。
「そう、良かった」
細身の青年は外見通りの朗らかな声で言った。
「これで、最悪の事態は間逃れたってわけだ」
「本当に……すみませんでした」
「うん。まぁ、処断は僕が決めることじゃないから。……ああ、でも、まだ安心はできないかな。ねぇ、君?」
突然話を振られうろたえるリリィを、青年は射すように見つめる。口元は穏やかに上がっているが、鳶色の瞳は恐ろしく深い。そこには、怯んだ様子のリリィが映っていた。
「君、そんなに青い顔をして、大丈夫?」
どこかで聞いた台詞だ。返事を待たずに青年は続けた。
「何か知ってしまったんじゃないの?」
情けなくも、蛇に睨まれた蛙となったリリィは声を出すことができなかった。愛らしい蛇はにこりと胡散臭く微笑んだ。