1、「そりゃ、マルだよ」
---1---
幼馴染。それは友達や恋人とは違った距離感をあらわす言葉。
友情よりは関係が深く、恋とは別の愛情を含む、無理やり表現に当てはめるならもう一つの家族。それが幼馴染である。
かわいくて、優しくて、毎朝家まで起こしに来てくれる、半分恋人のような女の子を男なら誰もが思い描いた事があるだろう。
しかしそれはあくまで空想。現実ではそんな恋人みたいな展開は起こらないし、そもそも恋人になること自体、無縁だ。
所詮はモテない男の、都合のいい理想の女の子像である。
事実、多くの幼馴染はその距離感ゆえに恋人としての距離のとり方が分からず、フラグが立つことなんて滅多にない。
もう一つの家族としての関係でいるのが一番心地いいと感じてしまうからだ。
けどもし、恋人としての関係を求めてしまったら、そのときは……――
---2---
いま、俺の部屋に二人の女の子がいる。
一人はベッドに寝そべって漫画を読みながら足をぱたぱたと上下に動かしている。学校が終わってからそのままの姿で
ここにいるから、もちろん制服のスカートのままである。
まだ夏真っ盛りのいまは、制服も薄着で非常に目に毒だ。
もう一人は眉一つ動かさず、無表情で俺の隣に座ってギャルゲーをプレイしている。しかし視線はテレビの画面の中の女の子をじっと見ている。
二人とも俺とは幼馴染で、家も近い。
昨日まではテスト期間で、毎日ここに集まって勉強していたが今日でそれも終わり、それぞれがゆったりとくつろいでいる。
この状況を「なんだ、ギャルゲーの主人公かよ死ね」と思うだろうか。自分のベッドで眠ってしまった女の子に
変ないたずら仕掛けたり、妙な雰囲気に流されてそのまま不純異性交友へ……みたいな展開を期待するだろうか。
残念ながらそんなことには決してならない。これが俺のいつもと変わらない日常なのだ。
たとえわざとらしく足を大きく動かして俺に短いスカートの中身を見せようとしてるやつがいようと、ギャルゲー攻略に失敗して
本気で泣きそうになってるやつがいようと、それが俺にとっては普通なのだ。
「お、おい雪。そんな泣くことでもないだろ?」
俺の隣に座る幼馴染は相変わらず顔色一つ変えず、ぽろぽろと涙を流している。
よくもまぁ、ギャルゲー攻略に失敗したぐらいで泣けるものだ。
「だって……せっ、せっかく友達になれたのに……あれだけ毎週末遊びに行くのに誘って、ご機嫌をとるのに
何万ものお金を使ったっていうのに……たった一回選択肢間違えただけでどうしてこんなことになるのよーーっ!!」
「まぁ、それがギャルゲーだからな」
「納得いかない!だいたいあいつも、たった一回のミスでどうして簡単に友達を見捨てられるの!?
私は本気で友達だと……」
「……たぶん友達だと思ってたの、雪だけだったんじゃないの?」
そう言ったのはベッドで漫画を読んでたもう一人の幼馴染、花菜だ。
花菜はそれだけ言うと、視線を雪から手元の漫画へと戻して、何事もなかったように再び読み始めた。
いまの一言が相当効いたのか、雪は呆然とした目つきで「そんな……そんなことって……」とぶつぶつ何か言っている。
そこまで感情移入してたのか……
「つーか、お前は鬼か花菜。完全に止め刺してんじゃねぇよ」
「やだなぁいっくん。花菜は鬼じゃなくて小悪魔だっていっつも言ってるじゃん」
そう言って花菜は読んでいた漫画を置き、わざとらしくスカートの中が見えやすい座り方でベッドの上に座り
ニヤニヤと笑みを浮かべながらこちらを見ている。
まったく。いくら俺が見慣れてるとはいえ、こいつにはもう少し恥じらいとかはないのか。
だいいち、そんなふうに俺をからかってなにが楽しいのだろう。どうせ俺はなんとも思わないと花菜も分かっているはずなのに。
というのは子供の頃から一緒に風呂入ったり、寝たりしてるから、だ。
だからそんな俺はいいとして、他の男の前でもこいつはこんなにはしたない格好を晒しているのだろうか。
花菜は、はっきり言ってかわいい。目が大きくて、スタイルもいい。何より、誰に対しても愛嬌がある。誰にでも優しい。
そんな、男にモテないはずがない子が、男の前で頻繁にパンチラしてるのはマズイ気がする。というかマズイ。
男子高校生というのは常に女の子に飢えている。そんな男たちの前でかわいい女の子がしょっちゅうパンツを見せてるとどうなるか。
答えは簡単だ。草食動物よろしく飢えたハイエナの餌食になる。
しようがない。飢えたハイエナから幼馴染を守るため、ここはお節介をやいてやろう。
「おい花菜、お前、もうちょっと恥じらいというものを持て。さっきからずっとパンツ見えてるぞ」
「え?あぁこれ見せてるの。どう、いっくん。こーふんする?花菜はすっごいこーふんしてるよ」
花菜は俺の思いとは裏腹に、しっかりと残念な発言をしてくれた。
「やっぱお前は鬼でも小悪魔でもなくてただの変態だ」
俺の幼馴染にこんな性癖があるだなんて、今日まで知らなかったけど。
「そんな……これでもダメなの?……花菜はいっくんのためにここまでサービスしてるのに……」
「なんのサービスだ、なんの」
それと、これでもダメってどういうことだろうか。
「それにしてもいっくん、ほんとに興奮してないの?普通女の子がパンツ晒してたらドキドキするでしょ。
いっくんはあれなの?ホントにオス?『めっちゃくちゃにしてやりてー』とか思わないの?」
なるほど、どうやら花菜は男子高校生の特徴を理解したうえでパンツを見せているのだ。……それって大丈夫なんだろうか。
俺だって男だし、そういうことを考えない訳じゃない。事実、もしこれが『幼馴染の花菜』じゃなくて『ただの友達の花菜』だったなら
とっくに俺の理性は吹っ飛んでたかもしれない。
けど俺は幼馴染として、花菜のことを「女」ではなく「妹」として見ている。それだけだ。
「お前のパンツぐらいで興奮してたら、この先理性がもつ自信がねーよ」
「ふーん、パンツぐらい……かぁ」
「そんなことよりお前、他の男子の前でもこんなふうにパンツ見せてるんじゃないだろうな」
「そんなわけないじゃん~。そんなことしてたら花菜、一瞬で襲われちゃうよ」
へらへらと笑って花菜は答えたが、すぐに腕を組んで、何かを考え始めたみたいだ。
そしてしばらく首をひねり、小難しい表情を浮かべていたが、なにか思いついたのかいつものよからぬ企みをしているときの顔に変わる。
花菜は割りと思っていることが顔に出るタイプだ。感性が豊かなのか、些細な事に喜び、泣き、怒り、そして笑う。
男なら、そんな幾千もの表情を持つ花菜を見ていて飽きないと思う。そう思えるぐらいに、花菜は魅力的な女の子だ。
バカなのと、いたずらが好きなのを除けば、だけど。
いまみたいにニヤニヤといやらしい笑みを口元に浮かべてるときは、だいたいろくでもないことを考えている。
「じゃあさ、いっくん。花菜の胸なら見たいと思う?」
「ぶっ」
なっ、なにバカなこと言ってんだこいつは。俺をからかうためだけにそこまでやってくるとは思ってなかった。
いや、けど、どうして俺はこんなに焦っているのだろう。相手はただの花菜で、ただの「妹」ではないか。
そんな俺の内心での動揺をよそに、花菜は妙な恥じらいを見せながら続ける。
「最近ね、またちょっと大きくなった気がするんだ……なんなら、触ってみてもいいんだよ?」
そう言って花菜は胸を強調するようにして座りなおす。その仕草はやけに色っぽく、隣に雪がいることを忘れてしまうぐらい
花菜のことで頭がいっぱいになる。その強調された胸の方へ否応なく目がいってしまう。
「ばっ、バカっ、おまっそんなこと冗談でも……」
なにを焦ってるのだ俺は。どうせいつものように俺をからかっているだけだ。
けれども、こっちを見てくる花菜の目は真剣だ。瞳は湿っぽく潤んでいて、きらきら光っている。
だが、突如その真剣な表情が緩んだ。花菜はおかしそうにお腹を抱えて、必死に笑いを堪えている。
やっぱり、こいつ、俺をからかっていただけか……。
「あははっ、もしかしていっくん、期待しちゃった?」
可笑しそうにベッドの上の枕をバンバン叩きながら、花菜は訊いてくる。
「そっ……そんなわけねーだろ!」
本当はちょっとだけ、ミジンコ三匹分ぐらいは期待してたかもしれない。
「え~?いまの間、あやしいなぁ……」
「だから期待なんかしてないって!」
「この変態ッ!!」
「ぐほぉっ」
さっきまで呆然と、どこかの世界へと旅に出かけていた雪が突然俺の腹に右ストレートを打ち込んできた。
俺はあまりの痛みに床にうずくまり、隣で俺を見下ろしている雪を見ると、ものすごい機嫌の悪そうな顔をしている。
「ゆ……雪……お前、なにすんだ……」
「うるさいこの変態!衣月が花菜をいやらしい目で見てるからよっ。だいたいね、そんなにおっきいのがいいの?
女の子の価値を胸で決めるなんてサイッテー。そんなに胸が好きなら、牛と結婚すればいいのよ」
そう言って雪は自分の胸を隠すような仕草をとる。だが花菜と比べると雪の胸は絶壁だ。
たぶん、雪の胸から落ちたら捕まるところがなくてそのまま転落死だな。
というか、雪はいつから俺達のやりとりを見ていたのだろう。てっきりしばらく自分の世界から帰ってこないと思っていたのに。
「雪、いくら自分の胸がないからっていっくんに当たるのはやめなよ」
「なっ……失礼ね!これでも一応Cはあるわよ!」
「そ、そうなのか」
「あ……」
言ってから自分の恥ずかしい発言に気がついたのか、雪の顔はみるみる赤く染まっていく。
スカートの裾を握った手はわなわな震えていて、俯いているから表情は分からないがおそらく眉間に皺を寄せて怒りを堪えている。
幼馴染3人のなかで、雪は普段大人しいぶん怒るとダントツに怖い。
雪は運動神経も、三人のなかで一番いい。中一のとき、そんな雪と殴り合いのけんかをしたことがあるが
俺が一方的にボコボコにされてけんかにすらならなかった。
しかし今回は俺と花菜はなにも悪くない。これは完全に雪の自爆だ。
『触らぬ神に祟りなし』
そう判断した俺は雪が置きっぱなしにしていたゲームのコントローラーを手に取り、コンティニューを選択した。
花菜も俺と同じことを考えていたのだろう。わざとらしく「さーて、続き読もっとぉー続き」と強調してベッドの上でごろごろしている。
急に静かになった部屋に、夕方になるとうちの前を通る豆腐屋さんのラッパの音だけが聞こえている。
……相変わらず雪は立ったまま動かない。
ギャルゲーの選択肢を選び、イベントが起こっている間にベッドの上の花菜を見ると花菜もまた緊張した顔つきでこちらを見ている。
この空気のなかじゃ気が休まらない。触れると祟る神がいると分かって触れなくても、どのみち祟るのだ。
ならば俺か花菜のどちらかが祟られ、片方を解放してやらなくてはならないが、お互い祟られるのは嫌だ。
だから俺は、早く雪に声をかけろ、と花菜に目で訴え、また花菜もこちらに訴えかけてくる。
そうしてしばらくお互いに拒否しあっていたが最後には俺が根負けした。
軽いアイコンタクトを交わしてから俺と花菜は互いにうなずきあって、俺は俯いたままの雪の顔を覗きこむ。
すると、ずっと俯いていた雪がふいに顔を上げた。そこには満面の笑みが浮かんでいる。
「衣月」
「お、おう」
警戒するあまり、いきなり名前を呼ばれて思わず戸惑ってしまった。
「ちょっと花菜と女の子同士の話があるから、衣月は晩御飯、作ってくれる?」
「あ……あはっ、花菜は別に話なんてにゃいよ?雪」
花菜……お前はびびりすぎだ。にゃいよってなんだよにゃいよって。酔っ払いか、お前は。
「ふふ、いいじゃない。私は久しぶりに二人っきりで、話したいの」
「い、いっくん!」
花菜が必死に目で俺に助けを求めている。だが俺はこの場面から逃げられるのなら逃げたい。
それにさっきは花菜のせいで雪に殴られたし、ここは花菜に犠牲になってもらおう。
「わかった。じゃあ晩飯出来たら呼びに来るから、それまで二人でじっくりゆっくり語りあってくれ!」
「わかったわ」
「ねぇいっくん、ちゃんと呼びに来てくれるよね?そのまま呼びにこないのはなしだからね!?」
そんな花菜の必死の訴えを他所に、俺は素早く部屋を出た。一瞬このまま放置しようかとも考えたが
さすがに可哀想なので後でちゃんと呼びにいってやろう。
それにしても、雪と花菜二人だけのときってどんな話してるんだろうか。やっぱ恋、とかだろうか。
けど、あの二人と恋という単語がどうもうまく結びつかない。雪は人見知りなうえ男嫌いだし、
逆に花菜は人懐っこいけど誰にでも優しいから好きな人とかいなさそうな感じだし。
けどもし、あの二人に恋人が出来たら。きっといまみたいな日常はなくなってしまうのだろう。次第に恋人と会う時間が増え、
いつのまにかこの居場所のことなど忘れてしまうのだろうか。
この場所がいつまでも続きますようにと、そんなことを願うほど、もう俺達は子供じゃないはずだ。
人は他人と全く同じ人生を歩めない。例外はない。
俺達はみんな、それぞれの道へ一歩づつ進み始めてる。
高校生になってそれぞれの行き先が見えてくるにつれて、ずっとこのままのわけにはいかないことはぼんやりと理解し始めた。
だからいまだけは、もう少しは、この関係が続いてほしい。そう思っている。
だけど俺は、いつかこの関係を壊さないといけない。
だって、俺は、雪のことが……
――いや、これ以上考えるのはやめよう。
いままで必死で、気づいてないふりをしていた。本当は、もっと前に気づいてたのに。それを自覚してしまうと、もう戻れないから。
とにかくいまは、あいつらに美味い飯を作ることを考えよう。
そう気合を入れてエプロンの紐をぎゅっと結ぼうとしたのに、今日に限って上手く結べず、紐はだらしなく垂れていた。
---3---
うちは俺と母親だけで生活している母子家庭だ。父親は俺が生まれた直後、交通事故で死んだらしい。
なので母親は俺を一人で育てるために必死で働いてくれている。ただそのせいで子供のころからうちにいないことがほとんどだ。
昔、俺が小2のころ看護婦の仕事をしている母親の夜勤が続いて母親がほとんど家にいないことがあった。
母親は病院の宿直室で仮眠を取り、早朝に帰宅して俺の朝食と昼食を作り、洗濯を済ませ、また出かけて夕方帰ってきては
夕飯を作ったらすぐ出勤。母親に会えるのは夕方母親が夕飯を作っている数十分だけ。そんな生活が2年ほど続いた。
俺は毎日母親に会えなくて寂しかった。
学校で起こった楽しいこと、嫌なこと、今度の行事のこと、とにかく学校のことで話したいことはいくらでもあった。
けれど母親は忙しくて、話を聞く時間がほとんどなかった。幼心にも、これは仕方のないことだと理解していたが
やっぱりどうしても「俺のことが嫌いなのだろうか」と考えてしまい、辛くて、悲しかった。
だんだん学校にいる間もそんなことを考えるようになって、俺は休み時間になると一人で泣いてることが多かった。
俺のいた小学校の裏には小さな雑木林があって、授業でも、理科の「いきものたんさく」なんかでそこに行くことがあった。
その雑木林はいまはなくなってもう一つグラウンドが作られているが、昔はその雑木林の中に
他の木よりも数倍は育った大きな杉の木があった。
俺はこの杉の木が好きで、悲しいときよく一人でここに来ては、泣いていた。
けれどもある日、休み時間になるたびに教室を出て行く俺を不思議に思った雪がこっそり俺についてきた。
このころの雪は今以上に人見知りで、クラスにもほとんど友達はいなかったはずだ。
友達が多く、楽しそうに騒いでいる花菜とは対照的に雪は一人で黙って席についたまま本を読んでることが多かった。
そんな雪だから、誰にも気付かれないように教室を出て行く俺に気付けたのだろう。
そして杉の木で泣く俺を見て、俺が寂しがっていることに気が付いたのだ。
その日から、雪は花菜を誘ってよくうちに来るようになった。
遅くまでうちにいたり、泊まっていったりすることも多かった。三人で一緒の布団で寝たり、風呂に入ったことは
いま思い出すと恥ずかしいけれど、やはり懐かしく感じる。
けれどもやっぱり夜になると寂しくて、よく泣いてた俺を雪と花菜は慰めてくれた。
慰めようと手を握ってくれた二人の手は、驚くほどに優しくて、温かかった。
もう17歳にもなって、母親がいないことぐらいなんとも思わないどころか、むしろごちゃごちゃ言われなくてラッキー
程度にしか思っていないのに、二人は未だに俺が寂しがっていると思っている。
二人がくれた優しさと温かさのおかげで、俺はもう一人でも大丈夫だ。
だから今度は俺が、あの二人が二人とも幸せになれるよう、出来ることはなんでもしてやりたいと思う。
---4---
俺は夕飯を作り終えた後、ちゃんと二人を呼びに行き、食事となった。
花菜は「遅いよいっくん!花菜がどれだけ怖い思いしたか分かってる!?」と散々文句を言われたが
ご飯を食べ始めると途端に文句が途切れ、黙々とおかずを口に運んでいる。
今日の献立はナポリタン。俺が手軽に作れる料理の一つで得意料理でもある。
母親がいないことがほとんどだから、自然と料理や洗濯、掃除のスキルは身についた。なかでも料理は特に得意だ。
手間さえ惜しまなければそこそこ豪華なものでも作られる。
俺は自分の分を食べ終え、ゆったりと座って二人が食べ終わるのを待っていると、花菜がたまねぎだけよけていることに気付いた。
むかし母親と一緒に飯を食ってたときに嫌いな物をよけていると、「作った人が悲しくなるから食べなさい」と怒られた。
その一緒に食べる機会自体が少なかったもんだから、鮮明に覚えている。
その頃はなんでそんなにも怒っているのかが理解できなかったが、最近自分で料理を作るようになってからはなんとなく分かるようになった。
「おい花菜、たまねぎもちゃんと食え」
「え~、だって花菜たまねぎ嫌いなんだもん」
「ったく。好き嫌いしてると、大きくなれないぞ」
「そんなことないもーん。こんなに立派になってるし」
そう言って花菜が胸を張ると、花菜の立派に育った部分が強調される。
慌てて目を逸らしたが、雪はじっと俺を睨んでいる。また変態扱いされるのは御免だ。
「たまねぎ食わねーと、病気になりやすくなるんだぞ」
俺がそう言うと花菜はわざとらしく溜め息をついて、外国人のよくやる「お前わかってないな」ポーズをとった。
「いっくん、おばあちゃんみたい。そんなこと言ってるとはげるよ?」
「お前なぁ……全国のおばあちゃんに謝れ」
「い・や・だ」
花菜は口を尖らせて、残ったたまねぎをフォークでつつきまわしている。意地でも食べるつもりはないらしい。
花菜は嫌いなことは絶対にしようとしない。やりたくないことは必ず人に任せる。
だが俺もたまねぎを残させるつもりはない。きちんと食べさせることが花菜のためになると信じてる。
やだ俺教育ママみたいでステキー。
……なにいってんだろな。
とりあえず俺はたまねぎだけが残った花菜の皿を素早く奪い取る。
突然の行動に戸惑う花菜を他所に俺のフォークに花菜のたまねぎを突き刺した。
そうして突き刺したたまねぎを花菜の口元に差し出した。
「ほら」
「えっ、えっ」
なにがなんだか分からない、といった表情の花菜の口へ、フォークを突っ込んだ。
一口食べればすぐにまた たまねぎを突き刺して、花菜に食べさせる。
「えっ、ちょっ、これいっくんが使ったフォークじゃ……むぐっ」
「いいから黙って食え」
俺の言うとおり花菜は黙って咀嚼すると、次々と嫌がる暇もなくたまねぎを食べさせ、その動作を数度繰り返すと花菜の皿は空になった。
「はい、よくできました」
花菜が嫌いなものもちゃんと食べたのは珍しく、本当に偉いと思う。なのに花菜はなぜか涙目だ。
……そんなにたまねぎを食べたくなかったのか。
だが、花菜はそういうわけではなかったらしい。
「うぅ……もうちょっとちゃんとしたかったよ」
「なにがだ?ちゃんと全部食えたじゃねーか」
「そうじゃなくて……もうっ。いっくんのバカ」
そう言うと花菜は顔を真っ赤にしてもぞもぞと俯いてしまった。そんなに怒ってるのか、無理やり食べさせたこと。
「なぁ雪、なんで俺がバカ呼ばわりされてんの?」
「知らない。衣月のバカ」
雪まで俺をバカ呼ばわりすると、そのままそっぽを向いてしまった。
そのまま俺のほうを向こうとしまいような勢いだ。なんだか今日は雪の機嫌が悪い。
分かるはずもないが、雪の表情から理由を探ろうとじっと雪を見ていた。すると雪は俺の視線に気付いたのか横目でこちらを見てくる。
「なに?」
「ちょっとじっとしてろ」
そう言って俺は左手を雪の頬に添える。雪の肌は冷たくて、やわらかくて、新雪のようなきめ細かさがある。
「う、うぇ?い、衣月?」
「ほら、取れた」
雪の頬についてた米粒を雪に見せると、俺はそのまま食べた。
それを見た雪は顔を真っ赤に染めながら、俺から目をそらして「ありがとう」とぶっきらぼうに言った。
そのあとの雪の機嫌は少し良くなったような気がした。
---5---
夕飯を食べ終えたころには9時を過ぎていたので、俺達はリビングでゆったりしながら順番に風呂に入っていった。
さっきまでは怒っているのかじっと黙ってたが、ここでいつもの調子を取り戻した花菜が、
「いっくん一緒にお風呂はいろーー!!」
なんてことを言い出したので、一人で風呂に入らせるのにかなりの体力と時間を使った。
そうして花菜がなんとか一人で風呂に入ってくれたので、リビングには俺と雪の二人だけだ。
騒がしい花菜がいない部屋はかなり静かで、テレビの音がはっきり聞こえる。
これといった会話はないが、雪は特に気にした様子もなく黙って10時のドラマを見ていた。雪にしたら、この状態がデフォルトなのだ。
ただ、さっきの夕飯で少し機嫌が良くなったかと思えば、花菜を風呂に入れたあとからまた機嫌が悪くなったように感じる。
俺なりにさっきからこの雪の情緒不安定の原因を推測してみたが、分からない。
……もしかして生理だろうか。だとしたら男の俺に出来ることはなにもないな。
そう結論づけてドラマに意識を集中していると、20分も経たないうちに花菜が風呂から出てきた。
花菜は女の子にしては、かなり風呂が短いほうだ。かわりに雪は風呂が好きで花菜の倍の時間は入っている。
雪が言うには「湯船につかってる時間が、長いから」だそうだ。
「いっくん、ゆきーー。つぎ入れるよー」
タオルで髪を乾かしながら、花菜がリビングへ入ってきた。
花菜が連れてきたうちの入浴剤とシャンプーの香りがリビングに漂う。
雪はドラマに見入ってるのか、花菜や俺のことなど気にも留めてないらしい。
「雪はお風呂長いし、いっくん先に入れば?」
雪の反応を見た花菜が、俺に話しかけてくる。
「そうだな」
俺は着替えとタオルを持って、リビングを出た。今日はいつもより長く入っていようか。
いつもより長い風呂から出た頃には11時になろうとしていた。
俺がリビングに戻るとちょうど雪もドラマが終わって伸びをしていたところだった。
「あいたぞ、風呂」
「うん、ありがと」
伸びのあとの力の入らない声でそう言って、雪はリビングから出て行った。
リビングに花菜はいなかった。
ああみえて花菜は夜11時に寝て朝6時に起きる、早寝早起きのお年寄り的生活リズムだ。
さっき俺のことをおばあちゃんみたいと言っていたが、あいつのほうがよっぽどおばあちゃんなのだ。
布団のしまってある場所も、寝る部屋も勝手が分かっているから、おそらくもう自分で布団を敷いて寝ているだろう。
雪はあと1時間は風呂から出てこないだろうし、やることもないから少し早いが俺も寝ることにしよう。
開けてあったリビングの窓を閉めてから二階へ上がり、俺は自室のベッドに倒れこんだ。
海辺に建つこの家は、夏でも潮風が通りわりかし涼しく快適に過ごせる。
クーラーをつけるような日など滅多になく、扇風機すらほとんど使わない。
だがそれでも夏は夏なので、やはり暑い。倒れこんだ場所も初めは冷たかったが、だんだん自分の体温で温かくなってくる。
寝返りをうってそこからずれると、またひんやりと気持ちのいい冷たさが体を包む。
――むかしは夏でも三人でよく一緒の布団で寝たっけか。
思い出すと、よく暑さを感じなかったものだ。いまは一人で眠っていても、暑くて嫌になるのに。
あの頃は布団のなかでなにかしら話をしていたものだ。黙っていることなんてほとんどなかった。
明日はなにしようだとか、今日のご飯がどうだったとか……ずっとみんなでいようね、とか。
あの約束を二人は覚えているのだろうか。
もし俺だけが覚えているのなら、それはあまりにも残酷な仕打ちじゃないだろうか。
俺達を支配する幾万もの時間が、思い出と共に約束を色褪せさせて、やがては悠久の彼方へと風化させてしまう。
この関係を望むのは、俺だけなのか。二人はどうなのだろうか。
そんなことを考えていると、二回ほどドアが叩かれた。雪はまだ風呂だろうから、たぶん花菜だ。
あいつ、まだ起きてたのか。
何の用だろうかと思案を巡らせながら起き上がり、ドアを開けるといきなり花菜が俺に覆いかぶさってきた。
俺に飛び込んできた花菜を支えきれず、俺は花菜もろともベッドへ倒れこんだ。
「おい花菜!なにしてんだよ!」
少し苛立ちを折り混ぜながら、ややきつい言い方でそう言った。
「えへへ、夜這いだよ。よ・ば・い」
だが花菜は少しも悪びれた様子はなく、そう言った。
「夜這いってお前……ふつー男がするもんだろ」
「そうなんだけどー、いっくんがあまりにヘタレで花菜にも雪にも手を出さないから、
いっくんはホントにオスなのか不安になった花菜が逆に襲っちゃいましたー」
「またお前はバカなことを……」
そう言って笑う花菜の笑顔は、名前のごとく美しく咲き、輝く。
本当に女の子はずるい。
たった一つの美しい笑顔で、男を黙らせることができるのだから。
花菜は俺の腕のなかにすっぽりおさまったまま、そっと俺に身を預けてくる。
そんな花菜の落ち着いた顔は、普段の子供っぽい顔と違って少し大人びて見えた。
これは少し、マズイかもしれない。普段「妹」としてしか見えてなかった女の子が、突然「女」に見えようとしている。
石ころのなかに紛れたダイヤが、少しだけ姿を見せているかのように。
「ねぇ、いっくん。もう少し、このままでいても、いーい?」
「あ、ああ」
いつもと違って大人びた艶があって、それでもどこか子供っぽい甘さを含んだ声でそう言われて、情けない返事しかできなかった。
なるほど、「甘美」とはこういうことなのか、と納得してしまった。
俺達高校生はいま、大人と子供の狭間にいる。だからこんな風に子供っぽい声も出せるし、大人っぽく囁くことも出来るのかもしれない。
そんなことを考えられる程度には、まだ余裕が残っているらしい。
花菜がいつもと違う感じなのに、妙に落ち着いている自分自身に驚いた。
お互い会話が途切れ、どうにか話をつなげようと話題を探していると、またしても花菜が口を開いた。
「突然ですが、問題です」
「ほんとに突然だな」
本当は正直、この雰囲気に流されそうだったので、助かったけれど。
「ぶっちゃけ、いっくんは私とエッチしたいと思ったことがある。――マルかバツか。答えはマルです!」
「バツだよ!なに勝手に答えてんだ!」
まったくこいつは……いつもと違うと思ったが、これだと変わんねーじゃねーか。
「えー、そんなに花菜ってミリョクない?」
「ないない」
「おかしいなぁ……花菜ってわりと男の子が喜びそうな女の子だと思うんだけどなぁ。
男の子を気持ちよくしてあげる方法、いっぱい知ってるのに」
「……そういうこと、女の子が言うもんじゃありません」
実際、花菜が思ってるとおり、花菜は男子のなかでもかなり人気がある。
けどそれは花菜のことを『友達としての花菜』として見ることができて、花菜は俺以外の男からすると「女」だからだ。
だけど、やっぱり俺からすれば花菜はただの「妹」だ。
いくら好きだと言われても。逆に、仮に俺が好きだと思おうとも。そこに「兄妹愛」以上の意味は存在しない。
俺は「兄」だから花菜と接していられるし、雪とも一緒にいられる。
むかしは俺が「弟」みたいだったけど。いつのまにか俺が「兄」の立場になってた。
それは今度は俺が二人を助ける番だからだ。夜一人で眠る孤独から。話を聞いてもらえない寂しさから。
そのためには、この関係でい続けなければいけない。
「じゃあ、第二問」
そう言って花菜は自分の顔をぐいっと俺の顔に近寄せた。
近くで見ると、なおさら花菜の可愛さが良く分かる。
雪に負けない綺麗な肌に、長い睫毛と大きな瞳。いつもはツーサイドアップにまとめてある長い髪もいまは下ろしていて
幼い顔立ちには不似合いなくらい、顔に掛かった黒髪が艶かしい。
「――私は、永遠にいっくんの妹だ……――マルか、バツか」
少しの間をおいてそう言った花菜の表情は真剣で、どこか物悲しさを含んだ顔をしていた。
「そりゃ、マルだよ」
当然のことながら、答えはすんなりと出る。なぜなら考える必要がないから。
「ほんとうに?」
「もちろん」
俺はこのとき、「マル」と答えることを花菜が望んでいるのだと思っていた。
けど、このとき花菜は普段まったく見せることのない「嫌悪」の表情を、俺に向かってはっきりと出していたように思う。
だがそれも一瞬で分からなくなり、いつもの花菜の雰囲気へ戻った。
「そっか」
花菜はいつもの無邪気な顔でおおげさに笑った。
「それじゃいっくんが私を『妹』として愛してくれてるって分かったことだし、このままいけないことしちゃおっか!」
そう言うと花菜は俺に抱きついてきた。
「なんでそうなる!?ほら、はーなーれーろっ」
「やーだ!このまま一緒にねよーよー」
「お前と寝てると、朝になったら大事なもんなくしてる気がするわっ」
「うわ、いっくん、それセクハラだよ?」
「お前が最初に言ったんだろうが!とにかくはなれろ!こんなとこ雪に見つかったら……」
そう言うと、ドアがゆっくりと開いた。
さっきまで必死に俺にしがみついていた花菜も大人しくドアが開くのを見ている。
開ききったところで現れたのは、前髪を垂らしてタオルを目一杯握り締める雪だった。
「衣月……花菜……これは一体、どういうこと?」
「こ……これはね、雪……あ、そう!いっくん!いっくんが『寂しいから昔みたいに一緒に寝たい』って言うから、仕方なく!」
「なっ、おいずるいぞ花菜!だいたい、お前が『夜這いだー』っつていきなり入ってきたんじゃねーか!」
「なっ……いっくんだってノリノリだったじゃん!花菜のこと追い出さなかったし!」
それを聞いて雪の目がぎらりと光った気がした。
「……事情はだいたい分かったわ。で?遺言は残さなくていいの?衣月」
「は?ちょ、ちょっと待てって!だからこれは花菜が……」
「問答無用よ……っ」
「なっ、あっ、まっ、いやぁぁぁぁ!!!」
一人の男の断末魔が、夏の夜の海辺の街に響き渡った。