24 数学研究室サツキの感情解法
数学研究室、サツキ。3年生。
血液型はA型。
好きなものは、数学、パズル。
数学とは、必ず答えが1つになる学問である。中学生の頃、数学の教師は授業の最初にそう生徒達に教えた。サツキも含め、そんな事は当たり前じゃないかと、たいした反応を示さなかった生徒達に対して、教師はこう付け加えた。
「数学の面白いところはな、どんなまわり道をしても同じ解答が導かれるところなんだ。1つの解答に対して、自分なりの解き方で答えを出せる。暗記だけじゃなくて、自分自身を試されているんだ」
ほとんどの生徒は、それにも反応は示さなかったが、少なくてもサツキだけは大きく衝撃を受けた。実際には自分なりの解法で解くような問題は中学レベルではほとんど無かったが、その教師の教えてくれた言葉は、数学の概念なのだ。
やがて彼女は数学に大きくのめり込んでいく様になり、国際数学オリンピックで立派な成績をおさめる程になった。
こうして魔術式の式を解いている今も、その考えは変わらない。式を考えたマキナと自分は違った解法で解いているのかも知れない。
「行き詰まった……」
昼下がりの自分の部屋で、もう何十回目になるかも分からない状況に陥る。1つの式に対して、あらゆる角度から取り組んで、解法を模索しているが、それでもお手上げになる事はある。
<サクラノ組合>の経理の仕事を断り、空いている時間を全て一冊の魔法書に費やしている彼女だが、いまだに半分くらいまで解けたところだ。
この魔法書を書いたマキナが天才なのは間違いない。名のしれた学者なのだとも思えたが、元の世界の記憶には彼女の名前は無い。
スランプになった時は、気分をリフレッシュさせるに限る。
引越しは明後日に控えていたが、運ぶ荷物もほとんどない。元々、必要最低限の物しか所持しておらず、洋服だって数は少ない。クランの仕事に直接的にはあまり貢献していないので、給料は少ないが、食べていければサツキにとっては、それで充分なのだ。鞄に魔法書とノートを入れて、立ち上がる。
九十九荘を出たサツキは、馴染みの喫茶店に向かって歩いていたが、途中で道を引き返した。サクラノ食堂と同じく、そこの喫茶店も昨日で店仕舞いをしていたのを忘れていた。正確には喫茶店の方は、前のオーナーがまた老体に鞭を打って店に出ているらしいのだが、茶道部の彼女がいないのなら、わざわざ通う事もない。そのまま、図書館へと足を運ぶ。
図書館は街の中心にある。しかし、この街の住人はさほど文学に興味がないのだろうか、いつ来ても中はがらがらである。前にこの魔法書の持ち出しを許可してくれた司書に挨拶をする。魔物の襲撃戦の後に図書館からは正式に、この本の贈呈の手続きをして貰った。
中を進むと、いつもと変わらない席で書物を読んでいる文芸部のヒロトの姿があった。
いつもは挨拶だけで素通りするのだが、今日は気分転換をしに来ているのだ。少し話しかけてみる事にする。
「いつも思うんだけど、カタカナだけの文章で頭が痛くならない?」
自分だって数字と記号ばかり読んている癖に愚問なのかも知れないが、聞いてみる。
「カタカナだけだったら、僕でも読みたくはないな」
ヒロトは読んでいる本をこちらに向けてくる。開かれたページには、見た事がない文字が並んでいた。
「これは、このアイルス王国時代の文字で書かれている古文書なんだけどね。僕にはこれが、漢字や平仮名で構成された日本語で書かれている様に読めるんだよ」
読書技術。彼の技術の前では、カタカナだけのエヴォルヴの文章も、知らない言語も文章なら脳内で翻訳されるらしい。彼が誰よりも資料閲覧で成果を発揮できたのは本来の速読術だけでなく、この技術の効果であったらしい。
「おかげで、かなりこの世界の風習や歴史、伝承には詳しくなれたよ」
ヒロトもクランの仕事は最小限に勤めて、ここの図書館に通いつめている。
サツキにはそんな能力は無い。カタカナでも読みやすそうなものがいい。それに今日は、いつもの数字書という気分でもない。
ヒロトに何かおすすめの詩集がないかと尋ねると、すぐに案内してくれた。決して小さな図書館ではないが、彼はここの司書以上に、全ての目録の配置くらいは把握しているかもしれない。マキナの魔法書をサツキに渡してくれたのも、彼だ。
「これは100年前に島中を冒険していた有名な吟遊詩人の残した詩集なんだけどね。大衆向けに、小難しい例えや言いまわしも少ないから読みやすいと思うよ」
そう紹介されて、ヒロトの斜め前の席に腰掛けて読み始める。
吟遊詩人の旅の語りだが、吟遊詩人の恋の物語でもあった。フィクションか分からないが、彼は行方をくらましてしまった婚約者を探し求めている様だ。当時では治らない心臓の病にかかっていた婚約者の女性は、医師の先生と共に島中を治療法を探しに旅に出ていたらしい。医師に言い寄られながらも、吟遊詩人の事を思い続け、当てのない旅の結末は、悲しい死の別れであった。
涙腺が緩むのを感じる。サツキだって、年頃の女子らしく、恋愛ドラマを見たり少女漫画を読んで、人並みに感動を覚えるのだ。
本を閉じて、立ち上がるとヒロトが「もう帰るの?」と尋ねてきた。返事もそこそこに図書館を出る。同級生の男子を前に涙を見せたくはない。
図書館を飛び出し、目尻をこすっていると知ってる顔がサツキに向かって歩いてきた。
ミドリという名のクラスメイトで、女子バスケ部だった生徒だ。
「やあ、サツキさん。何してるの?」
運動神経が皆無のサツキは、元の世界で彼女と話した事はほとんどない。蚊帳の外、というか別世界に生きる人と人間関係を割り切ってしまう節がサツキにはある。それは運動部が相手に限ったわけではなく、数学の天才というか数学オタクと認識されていたサツキと仲良くできた女子は元々多くはなかったが。
そういう意味では、ユキはサツキの心を許せる数少ない友達の1人だ。遠征から帰ってからも、一緒に出掛けた事があったが、最近は何かにはまっているらしく、仕事中以外では彼女の姿を見ていない。
「図書館で調べ物をしてて。これから帰るところ」
あの日、サクラノ祭の打ち合わせの教室で、女子運動部はまとまって座っていたからであろうか、運動部の女子は、西の都市に集中しているらしく、この街には彼女しかいない。ミドリもサツキと会えば、挨拶をする位の関係にはなった。
「そうなんだ。急ぎじゃなかったら買い物付き合ってくれる?」
「え、いいけど」
こういった強引さは、サツキとは正反対だ。
「サンキュー!洋服屋に行こうと思ってたんだ」
「洋服?これから引越しなのに?」
「だからよ!都会に行くのに、こんな地味でダサい格好じゃ締まらないでしょ?首都っていう位なんだから、ここよりもっとイケメンの外人がいるだろうしね」
「それなら、首都の方がオシャレな店が多いのでは?」
この街も大きな街だが、さすがに若者向けのファッションを取り揃えている店は少ない。
「だから、首都で買い物をする為の服探しよ」
服を買いに行く服が無い、というやつだろうか。サツキもネットの掲示板でファッションセンター・しまむらに行く服がない、みたいなタイトルのスレッドを何度か見かけた事があったのを思い出した。
大通りに並んだ服屋の中でも、洒落たウィンドウが目立つお店に着く。店の前を通る度に、ウィンドウに展示されたマネキンに足を止めてしまう事はあったが、店内に入るのは初めてだ。
ミドリが服を選んでいる間、サツキも物色をする。
「サツキさんは手持ち持ってる?」
「うん。あるけど」
「あなたいつも同じ服だからさ、せっかくだから試着くらいしたら?」
ミドリが何着か服を抱えて近づいてくる。
「スタイルがいいんだから、細身のパンツとか似合うと思うんだけど?」
「ミドリさんがそれを言う?」
ミドリは長身で、ポニーテールがよく似合う。サツキも背は高い方だが、並ぶと彼女の方が上だ。
試着室に連れられて、渡された服に着替える。綿のような素材で作られている細みの黒のパンツに合わせて、着ていた白のシャツの上にレザージャケットを羽織る。ストレッチが効いていて、見た目より動きやすい。
「やっぱり、似合うわ。キャリアウーマンみたいな、色気が漂う絵ね」
「ちょっと体のラインがはっきり出過ぎていて、恥ずかしいんだけど」
「それがいいんじゃない!私の場合は、筋肉ついちゃってダメよ。腕や足なんて、サツキさんの細さが羨ましいわ」
言われて、立ち見鏡に映し出された自分を見つめ直す。
細すぎる位だと自虐していた自分のスタイルに少し自信が持てる気がした。
「買った服を着たまま店を出るなんて、随分と気に入ったようね」
「そう言うわけじゃないんだけど、せっかく髪の毛もセットしてもらったから」
あの後、試着室に店のデザイナーのお姉さんがやってきた。首都で美容師をしていたらしいのだが、実家の店を継ぐ為に戻って来たらしい。自分が作った服に合うように、着る人にも身なりを整えて欲しいというプライドがあるらしく、サツキのぼさっとしていた髪の毛を整えてくれた。そこまでしていて貰ったからには断れずに、つい買ってしまう。後から考えると、店員のセールスに引っかかった気もするが。
「サツキさんは素材はそれなりに良いんだから、たまにはお洒落しないとね。こっちに来てまで数字ばっかり考えてるわけじゃないでしょ?」
今朝も数式と格闘してました、とは言えずに頷く。
ミドリの持っていた鞄から、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「もしもし?あ、ヨシノリ君。うん、大丈夫、暇してるし。じゃあ、30分後に!……ごめんね、ミドリさん」
「うん、またね」
元々約束して出掛けたわけじゃないので、あっけなく別れる。
夕暮れの射しかかる道を歩きながら、九十九荘への帰路につく。
せっかく着替えたのだから、九十九荘の隣のアパートを訪ねてみよう。今日は気分転換の一日なんだし、と割り切ってみた。
クランアジトの扉を開くと、テーブルの上いっぱいに書類を広げたコタロウの姿があった。来客に気が付いて、顔を上げる。
「え、サツキ?」
羽ペンを手にしながら、口を開けたままの顔でこちらを見つめる。
「一瞬誰か分からなかったよ。いらっしゃい、お茶を出したくても全部閉まっちゃって悪いんだけど」
気にしないで、と答える。
明後日の引越しに備えて、アジトの荷物もこじんまりと片付けられていた。
「マモル君とサラさんは?」
「さっきまで居たんだけど、一通り仕事も終わったし、自分の片付けもあるだろうから先に帰ってもらったよ。俺も帰ろうとしたんだけど」
書類の山を見ながらため息をつく。
「すっかり、忘れてた見積書があって。明日から何日かは仕事も出来ないから今日中に仕上げて先方に送らないと」
クランリーダーなのに、営業マンみたいな事をやってるコタロウが面白くみえる。
コタロウは会話もそこそこに、見積書の作成の為に携帯電話の電卓を叩きだした。
「えっと、銅貨42枚の、かける25個は、」
「1050」
さらっと答えると、コタロウが「え?」と驚いた。携帯電話の操作を続けると、同じ数字が出てくる。
「さすがはサツキ、というのは、この程度の暗算だと失礼に当たるのかな」
「そうね」
二桁同士の数字の掛け算のやり方は前にコタロウにもレクチャーしたのだが、忘れているだろう。やり方は幾つかあるが、そのひとつを改めて教える。42枚という数字は40と2に分解出来る。40×25は1000。あとは、余りの2×25は50。足すと1050だ。
商業取引の計算なのだから、単価と個数どちらかが切りの良い数字になる事が多いはずだ。暗算でもすぐに解ける。
「えっと、次は銀貨12枚が35品だから、」
「420枚。私が計算するから、コタロウは書いていって」
本来、見積書なのだから、暗算ではなく電卓なりを叩くのが常識なのだろうが、サツキにとって二桁同士の掛け算など九九と変わらない。絶対に間違えることのない確信がある。
「早いとこ片付けないと夕飯に間に合わないでしょ」
「悪いな」
この程度の経理の仕事ならやっても良かったのだが、サツキはどうしても自分の時間を優先したかったのだ。今更ながら、悪い気がしてしまう。
途中、二桁×三桁の計算もあったが、解き方は変わらない。サツキが手伝ったおかげで、コタロウの仕事は見通しよりもずっと早く終わった。
「さすが、サツキだよ。本当にありがとう」
元の世界では、数字オリンピックに出場した時も周りから称賛を浴びる事は事はあっても、感謝される事はなかった。
それでも、いつも感謝をしてくれたのはコタロウだった事を思い出す。
「じゃあ、先に帰るわね」
「あ、ごめん、言い忘れたんだけどさ。その、似合ってるよ、その格好」
「え?」
「本当は、最初に言うべきなんだろうけど、驚いちゃったから言葉が出なかったんだ、ごめん。けど、本当によく似合うや。様になっているというか、サツキは美人だし、可愛いから」
不意打ちだ。こんな去り際にそんな事を言うなんて。
「じゃあ、片付けてから行くから。エマには、少し夕飯遅れるって伝えておいて」
うん、と頷いてから部屋を出る。
きっとコタロウは何の下心も無く、社交辞令のようなもので誉めてくれたのはサツキにも分かる。しかし、異性に可愛いなんて言われたのは初めてだ。
扉の前で顔を赤めて固まっていると、部屋の中から携帯電話の着信音が聞こえてくる。話し声がはっきりとは聞こえないが、コタロウが話しているのはどうやらナナネのようだ。
可愛いという言葉もナナネの為にある言葉だ。サツキを表す形容詞ではないと思っていた。
盗み聞きを続けるわけにもいかず、そのまま九十九荘へと足を動かした。
夕食を終えて、部屋に戻る。あれだけ苦戦していた式が、あっという間に解けてしまった。
解けてしまうと、何でこんな事に気が付かなかったのかと、笑いたくなる。それが、数学の面白いところだなのだが。
服を普段着に着替えてから、ベッドに横になった。
1/3という数字がある。1÷3=0.333333……と割り切れない数字だ。
今の自分の心情はそれに似ているな、とサツキは思う。
コタロウの事は、仲の良い唯一と言っていい男友達のはずだった。
「けど、1/3は分数でそう表記できるし。3進法では0.1だものね」
だとすれば、自分の割り切れない気持ちは何て表現できるのだろうか。
答えのないものは苦手だ。




