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『路地裏の目」第八話

佐伯


夜の警察署は、昼とは別の顔をしている。


蛍光灯の光が白く、冷たい。


人は少ない。

コピー機の音だけが響く。


捜査一課係長、佐伯は一人で机に座っていた。


書類の山。


だが、見ていない。


煙草を一本、指の間で転がしている。


吸わない。


警察署は禁煙だ。


それでも癖で持ってしまう。


窓の外を見る。


旧市街の灯り。


遠くでサイレンが鳴る。


小さく、呟く。


「……まだやってるな」


誰のことかは、言うまでもない。


内村だ。



佐伯は知っている。


あの男は止まらない。


婚約者が死んだあの日から。



数年前。


夜の現場。


ビルの下にパトカーが並んでいた。


ブルーシート。


鑑識。


野次馬。


若い女の遺体。


佐伯は現場に立っていた。


そこへ、一人の男が駆け込んでくる。


内村だった。


まだ刑事になる前。


スーツの男。


顔が青い。


「……彼女は?」


誰も答えない。


佐伯が目を逸らす。


内村は理解した。


ブルーシートの端を掴む。


止める暇もない。


めくる。


沈黙。


夜風。


内村は声を出さない。


ただ立っている。


その顔を、佐伯は覚えている。



絶望ではない。


怒りでもない。


あれは


理解できない顔だった。



「……なんでだ」


その一言。


小さく。


誰にも聞こえない声。


だが佐伯には聞こえた。



その時、屋上に上がった。


事故確認。


形式的なもの。


柵が壊れていた。


鑑識が言う。


「自殺ですね」


佐伯は答えない。


屋上の端を見る。


そこに


黒い影。


猫。


半長毛の黒猫。


街灯の光を受けて、じっと座っている。


佐伯は猫が嫌いだ。


理由はない。


ただ


見られている気がするからだ。


猫は動かない。


ただ見ている。



佐伯はその時、階段の扉の方を見る。


そこに、もう一人の男がいた。


スーツ姿。


若い。


震えている。


隆也だった。



「事故だ」


男は言った。


「押してない」


「ちょっと……触っただけだ」


酒の匂い。


汗。


恐怖。


佐伯は一瞬で理解する。


全部。



もしここで事件にすれば


どうなるか。


相手は誰か。


父親。


企業。


政治。


警察。


全部が絡む。



若い頃の佐伯なら


迷わなかった。


逮捕していた。


だが


若い頃の佐伯はもういない。



佐伯は言った。


「帰れ」


隆也は顔を上げる。


「……え?」


「ここに来なかったことにしろ」


「分かったな」


隆也は何度も頷く。


逃げるように階段を降りる。



屋上には


佐伯と


猫だけが残る。


猫は動かない。


ただ見ている。


佐伯は呟く。


「……見るな」


猫は瞬きもしない。



翌朝。


事件は


自殺


になった。



現在。


警察署。


佐伯は机の上の資料を見る。


内村の名前。


非公式調査。


監視カメラ。


タクシー記録。


スマホ位置。


全部揃ってきている。


佐伯は溜息をつく。


「……やめとけって言ったろ」


小さく呟く。



その時。


ドアが開く。


内村だった。


「係長」


佐伯は顔を上げない。


「勤務時間外だ」


「帰れ」


内村は動かない。


机の前に立つ。


「聞きたいことがあります」


沈黙。


佐伯はゆっくり煙草を置く。


「仕事の話か」


「違うなら聞かない」


内村は言う。


「……婚約者の件です」


空気が止まる。


コピー機の音だけ。


佐伯はゆっくり椅子にもたれる。


目を細める。


「終わった話だ」


内村


「終わってません」


「自殺じゃない」


佐伯


「証拠は」


「ないだろ」


内村は黙る。


だが引かない。


「……あの夜」


「現場に誰かいましたか」


佐伯は答えない。


代わりに聞く。


「猫はどうした」


内村が一瞬驚く。


「……見てるんですか」


佐伯


「たまに」


「お前の後ろを歩いてる」


内村


「クロです」


佐伯


「猫に名前つけるな」


内村は小さく笑う。


久しぶりだった。


「係長」


「一つだけ聞きます」


佐伯


「聞くな」


内村


「俺の婚約者」


「誰かに殺されたんですか」


沈黙。


長い沈黙。



佐伯は窓の外を見る。


街の灯り。


遠くのネオン。


この街は変わらない。


強い者が勝つ。


それだけだ。



佐伯は言う。


静かに。


「……この国ではな」


「勝てない相手がいる」


内村は何も言わない。


佐伯


「正義とか」


「真実とか」


「そういうのじゃ動かない相手だ」


内村


「だから」


「諦めろと?」


佐伯は内村を見る。


真っ直ぐ。


「死ぬぞ」


その言葉は脅しではない。


事実だった。



その時。


窓の外に影が動く。


黒猫。


クロだった。


窓の縁に座っている。


じっと見ている。


佐伯は眉をひそめる。


「……やっぱり猫は嫌いだ」


内村は振り返る。


クロを見る。


小さく言う。


「見てるだけですよ」


佐伯は呟く。


「それが一番怖い」


クロは何も言わない。


ただ


見ている。


あの夜と同じように。


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