『路地裏の目』第七話
古い夜
秋の夜は早い。
旧市街の空は、まだ七時だというのにすでに深い藍色だった。
刑事・内村は、車のエンジンを切ったまま、古いマンションの前に座っていた。
五階建て。
外壁の塗装は剥げ、階段の手すりは錆びている。
ここに、彼女は住んでいた。
数年前まで。
内村は車の窓を少し開ける。
冷たい空気が流れ込んだ。
鼻の奥に、かすかな匂いが蘇る。
焼き魚。
安い洗剤。
そして――
猫の餌。
思い出す。
夜遅く、仕事帰りにここへ来ると、彼女はよく外に出ていた。
小さな皿を地面に置きながら言う。
「また来た」
黒い猫が塀の上から降りてくる。
毛の長い、少し大きな猫。
警戒しながら、皿に近づく。
彼女はしゃがみ込んで笑う。
「この子、毎日来るの」
内村は腕を組んで見ていた。
「野良だろ」
「うん」
「餌やると住み着くぞ」
彼女は振り返る。
「もう住んでるじゃん」
猫は食べながらこちらを見た。
内村は言う。
「夜は危ないから外出るなよ」
彼女は肩をすくめる。
「この子、野良だから」
猫の耳が少し動く。
その匂い。
内村は覚えている。
あの頃の夜の匂いを。
――そして。
その匂いは、ある夜、突然消えた。
内村は車から降りた。
アパートの横の路地へ歩く。
街灯は一本だけ。
光は弱く、地面の影が濃い。
塀の上に、何かがいた。
黒い影。
猫だった。
半長毛の黒猫。
静かに座っている。
内村は立ち止まった。
「……」
猫は動かない。
ただこちらを見ている。
内村は小さく息を吐いた。
「お前」
猫の目が光る。
「やっぱり、あの時の猫か」
猫は答えない。
当然だ。
だが逃げもしない。
内村は塀に手をついた。
「覚えてるよ」
声は低い。
「ここで餌もらってた」
猫はゆっくり瞬きをした。
内村は視線を落とす。
「……あの夜も」
言葉が止まる。
路地の奥で、風がゴミ袋を揺らした。
数年前の夜。
電話が鳴った。
深夜だった。
「転落事故です」
警察の声。
内村は最初、理解できなかった。
病院に着いたとき、彼女はもう白い布の下だった。
自殺。
そう説明された。
理由は分からないが、精神的に不安定だった可能性。
内村は何も言えなかった。
刑事なのに。
何も言えなかった。
ただ、彼女の手を握っていた。
冷たい手だった。
内村は塀の上の猫を見る。
「……お前」
猫は動かない。
「見てたのか」
夜は静かだった。
猫は答えない。
ただ、見ている。
内村は苦く笑う。
「俺もだよ」
風が吹いた。
「俺も、見てただけだ」
その夜の記憶。
病院。
屋上。
壊れた柵。
刑事たちの会話。
「事故だろ」
「酔ってたんじゃないか」
誰も疑わなかった。
内村も、証拠を見つけられなかった。
だから終わった。
事件は。
書類の上では。
内村は猫を見る。
「でもな」
声が少し変わる。
「最近」
「似た事件があった」
猫の耳が動く。
「女が落ちた」
「屋上から」
沈黙。
「自殺扱いだ」
内村は続ける。
「でも違う」
断言だった。
「押されてる」
猫はじっと聞いている。
内村は小さく笑った。
「証人がいない」
「証拠もない」
「でもな」
視線を上げる。
「お前は見てる」
猫の目が光る。
内村は言う。
「俺も見てしまった」
遠くでサイレンが鳴った。
内村は背を向ける。
「だから終わらせない」
一歩歩く。
振り返る。
猫はまだ塀の上にいる。
同じ場所。
同じ姿勢。
内村は呟く。
「……お前もか」
猫は動かない。
ただ見ている。
クロは匂いを覚えている。
この男の匂い。
数年前の夜。
屋上に来た人間。
遅れて来た人間。
絶望の匂い。
怒りの匂い。
そして
何もできなかった匂い。
クロは塀から降りた。
静かに路地を歩く。
内村の後ろを。
少し距離を置いて。
夜の街は匂いで満ちている。
排気ガス。
酒。
人。
そして――
あの匂い。
クロは立ち止まる。
遠くのビルの上を見る。
あの夜の場所。
あの匂いの人間。
クロは覚えている。
だが言えない。
ただ見ている。
そして今夜も。
同じ人間を見ている。
見てしまった者を。




