『路地裏の目』第六話
隆也
夜中に、隆也は目を覚ました。
胸が苦しい。
喉が乾いている。
部屋は暗く、カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んでいた。
しばらく天井を見つめる。
夢だった。
だが夢の中の光景は、はっきりと残っている。
屋上。
風。
柵。
女の顔。
そして――
落ちる。
隆也はベッドから起き上がる。
手が震えていた。
「……くそ」
小さく舌打ちする。
冷蔵庫を開ける。
ミネラルウォーターを取り出し、半分ほど一気に飲む。
キッチンの窓の外。
夜の街。
その時だった。
窓の向こう、隣のビルの屋上。
黒い影が見えた。
猫。
黒猫だった。
街灯の光を背に、ただ座っている。
隆也は目を逸らした。
「……気持ち悪い」
カーテンを閉める。
だが胸の奥のざわつきは消えない。
あの目。
夢の中にも出てきた。
女が落ちたあと。
屋上の縁にいた。
黒猫。
見ていた。
まるで――
知っているように。
隆也は頭を振る。
「バカらしい」
猫だ。
ただの野良猫。
だがその夜、隆也はもう眠れなかった。
⸻
翌日。
昼の街は、何事もなかったように動いている。
駅前。
人の流れ。
車の音。
隆也は車を停め、歩道を歩いていた。
高級スーツ。
磨かれた靴。
誰が見ても、裕福な若者だ。
駅前の階段で、足の悪そうな老人が立ち止まっていた。
杖をつき、困った顔をしている。
人は横を通り過ぎる。
隆也は少し立ち止まり、声をかけた。
「大丈夫ですか」
老人が顔を上げる。
「ああ……階段がちょっとな」
隆也は軽く笑う。
「腕貸しますよ」
老人の腕を取る。
ゆっくりと階段を降りる。
一段ずつ。
慎重に。
下に着くと、老人は何度も頭を下げた。
「ありがとう」
「いや、気をつけてくださいね」
隆也は軽く手を振り、歩き去る。
周囲の人が少しだけ見ていた。
いい青年だ。
そんな目だった。
隆也は車に戻る。
ドアを閉める。
エンジンをかける。
そしてバックミラーを見る。
道路の向こう。
電柱の上。
黒猫がいた。
こちらを見ている。
隆也は一瞬だけ動きを止めた。
「……」
アクセルを踏む。
車は走り出す。
だが胸の奥のざわつきは消えない。
⸻
夜。
バーの個室。
テーブルの上にはグラスが並んでいた。
向かいに座るのは、若い女。
笑っている。
隆也も笑う。
「飲みすぎじゃない?」
女が言う。
「隆也くん強いから」
隆也はグラスを回す。
氷が鳴る。
女は少し身を寄せた。
「このあとどうする?」
隆也は少し考える。
そして言う。
「静かな場所がいいな」
女は笑う。
「ホテル?」
隆也は首を振る。
「夜景のいい場所」
⸻
深夜。
車は旧市街へ入った。
人通りの少ない通り。
古いビル。
隆也は車を停める。
女が言う。
「ここ?」
「屋上、景色いいんだ」
軽い口調。
女は少し迷ったが、ついてくる。
階段を上がる。
鉄の扉を開ける。
屋上。
風が強い。
女は柵の近くまで歩く。
「本当だ」
街の灯りが広がっていた。
隆也は後ろから近づく。
女が振り返る。
「ねえ」
その瞬間。
隆也の頭の中に、別の顔が浮かんだ。
落ちる女。
夢。
黒猫。
見ている目。
隆也の手が止まる。
女が言う。
「どうしたの?」
隆也は笑った。
「いや」
その時。
屋上の縁。
黒い影が動いた。
猫だった。
黒猫。
風の中、静かに座っている。
隆也の背中に冷たいものが走る。
「……また」
女が言う。
「猫?」
隆也は答えない。
猫の目が光る。
あの夜。
同じ場所。
同じ高さ。
同じ目。
隆也の手が震えた。
女が不思議そうに言う。
「どうしたの?」
隆也は笑った。
だが目は笑っていない。
「……なんでもない」
猫は動かない。
ただ見ている。
隆也は視線を逸らす。
胸の奥で、何かが軋んでいた。
見られている。
そんな気がしていた。
⸻
その夜。
巨大な邸宅。
書斎。
隆也の父が書類を読んでいる。
隆也が入ってきた。
父は顔を上げない。
「最近おとなしいな」
「……別に」
父はペンを置く。
「警察がうるさい」
「余計なことをするな」
隆也は黙っている。
父は続ける。
「スキャンダルは困る」
隆也は窓の外を見た。
庭の暗闇。
そして言った。
「……猫がいる」
父は眉をひそめる。
「何?」
隆也は少し笑う。
自分でもおかしいと思っている。
だが口から出た。
「黒い猫」
父は呆れた顔をした。
「くだらん」
隆也は小さく言う。
「違う」
沈黙。
父は書類に戻る。
隆也は窓を見たまま言った。
声は低かった。
「アイツ……」
「知ってる」
父は顔を上げない。
「何をだ」
隆也は答えなかった。
⸻
屋根の上。
黒猫クロが座っていた。
街の匂いが流れている。
酒。
煙。
夜。
そして
人間の恐怖。
クロは静かに目を閉じる。
覚えている。
あの夜の匂い。
同じ匂いが
まだこの街に残っている。
クロは目を開けた。
遠く。
ひとつのビル。
そこにも
屋上がある。
クロは立ち上がる。
静かに歩き出す。
夜の街の上を。
ただ
見ているために。




