『路地裏の目』第五話
静かな捜査
朝の警察署は、いつも同じ音で始まる。
コピー機の駆動音。
紙をめくる音。
古い蛍光灯の低い唸り。
窓際の部署は、特に静かだった。
机の上に積まれたファイル。
「未整理資料」
内村はその山を前に座っている。
刑事だった頃と違い、電話も鳴らない。
誰も声をかけない。
隣の若い職員が、気まずそうに聞く。
「内村さん……それ、急ぎじゃないんで」
内村は顔も上げない。
「知ってる」
ペンを動かす。
カチ、カチ、とボールペンの音が続く。
机の引き出しの中には、別のファイルがあった。
廃ビル転落事件。
写真。
現場図。
時間表。
表向きはもう終わった事件だ。
「自殺」
そう処理されている。
だが内村は、ゆっくり資料を並べていく。
・転落時刻
・付近の交通記録
・防犯カメラ
独断捜査ではない。
ただの資料整理。
その形を取っているだけだった。
内村は小さく呟く。
「……夜十時四十分」
写真を見る。
屋上の柵。
壊れている。
「自分で壊すかよ」
その時だった。
窓の外の電柱に、黒い影が止まる。
黒猫。
クロだった。
内村は一瞬だけ目を上げる。
そしてまた資料に視線を戻す。
「仕事中だ」
小さく言う。
クロは瞬きもしない。
ただ見ている。
⸻
夕方。
旧市街。
仕事を終えた人間が街へ溢れてくる。
居酒屋の匂い。
煙草の煙。
内村は歩いていた。
後ろから小さな足音が続く。
振り返らなくても分かる。
黒猫だ。
「……帰れ」
クロは帰らない。
少し距離を保って歩く。
内村はため息をつく。
「好きにしろ」
路地に入る。
古いビルの壁に、防犯カメラがついている。
内村はスマホを取り出す。
動画を再生する。
夜の映像。
時間表示。
22:31
一台の車が映る。
黒いセダン。
止まる。
男が降りる。
スーツ姿。
整った顔。
隆也。
内村は画面を止める。
拡大する。
「……やっぱりな」
その時、クロが車道の方を見る。
耳が動く。
エンジン音。
黒いセダンがゆっくり通り過ぎる。
同じ車だ。
クロの毛がわずかに逆立つ。
内村は気づかない。
車は信号で止まる。
⸻
隆也はハンドルを軽く叩いていた。
退屈そうな顔。
助手席には若い女。
笑っている。
「ねえ、次どこ行く?」
隆也は窓の外を見る。
夜の街。
交差点の端。
刑事が一人立っている。
内村。
その足元に黒猫。
隆也の視線が止まる。
「……」
女が聞く。
「どうしたの?」
隆也は小さく笑う。
「いや」
「猫」
女は窓を見る。
「あ、ほんと」
黒猫。
街灯の下で、じっと車を見ている。
隆也は視線を逸らす。
「行くか」
信号が変わる。
車は走り出す。
クロはその匂いを追うように、数歩歩く。
止まる。
その背中を内村が見ていた。
「知ってるのか」
クロは振り向かない。
内村は呟く。
「俺もだ」
⸻
その夜。
内村のアパート。
古いワンルーム。
机の上には資料が並んでいる。
防犯カメラ。
タクシー記録。
スマホの基地局ログ。
内村は一つずつ書き出す。
・22:31 黒セダン
・22:38 ビル到着
・23:10 通報
線を引く。
つながる。
内村は小さく息を吐く。
「事故じゃない」
窓の外。
クロが座っている。
内村は言う。
「お前」
クロは静かに見る。
内村は言葉を続ける。
「……あのアパートの猫だろ」
沈黙。
遠くで電車の音。
内村は目を閉じる。
記憶が浮かぶ。
夜のアパート。
小さな皿。
キャットフード。
笑う女性。
「また来たよ、この子」
黒猫。
その隣で内村が言う。
「餌やると住み着くぞ」
女性は笑う。
「いいじゃない」
「一匹くらい」
記憶が消える。
内村は目を開ける。
窓の外のクロを見る。
「……お前」
声は低い。
「見てたのか」
クロは何も言わない。
ただ静かに見ている。
あの夜も。
この夜も。
そして――
街のどこかで。
また同じ匂いが動き始めていた。




