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『路地裏の目』第四話

窓際


警察署の廊下は、昼なのに妙に暗かった。


蛍光灯の光が白く滲んでいる。


内村は書類を持ったまま立っていた。


向かいにいるのは佐伯だった。


捜査一課係長。


長い付き合いの上司だ。


だが今は、机の向こう側に座っている。


距離がある。


佐伯は書類を一枚、机の上で揃えた。


それから言った。


「異動だ」


短い言葉だった。


内村は何も言わない。


佐伯は続ける。


「資料整理室」


警察署の三階。


通称――


窓際。


事件から外された刑事が行く場所。


内村はゆっくり息を吐いた。


「理由は」


佐伯は書類を指で叩いた。


「独断捜査」


「上層部の命令を無視」


「参考人への強引な接触」


全部、本当だった。


内村は目を伏せた。


佐伯はしばらく黙っていた。


それから言った。


「内村」


声が少しだけ低くなる。


「お前を守ってる」


内村は顔を上げた。


「守る?」


佐伯は腕を組んだ。


「相手が誰か分かってるのか」


内村は答えない。


佐伯は言う。


「隆也の父親だ」


「会長だぞ」


この街で一番大きな企業。


政治家も警察も、無関係ではいられない。


佐伯は続ける。


「触るな」


「これは忠告だ」


内村の声が低くなる。


「女が落ちた」


佐伯

「自殺だ」


「違う」


「証拠は?」


沈黙。


内村は答えない。


佐伯はため息をついた。


「ほらな」


「だから終わりだ」


机の上の異動辞令を、内村の方へ滑らせる。


「今日付けだ」


内村は書類を見つめた。


そしてぽつりと言った。


「……あの件もか」


佐伯の眉がわずかに動いた。


「何の話だ」


内村は顔を上げた。


「婚約者の事件」


空気が止まる。


佐伯はゆっくりと椅子にもたれた。


「終わった話だ」


内村の目が細くなる。


「俺は終わってない」


佐伯は静かに言う。


「終わってる」


「自殺だ」


「違う」


二人の視線がぶつかる。


佐伯は少し黙った。


それから言った。


「内村」


声が低い。


「死ぬぞ」


その言葉は、怒りではなかった。


警告だった。


「この国にはな」


佐伯は続ける。


「勝てない相手がいる」


沈黙。


内村は書類を取った。


「異動、了解しました」


それだけ言って、踵を返す。


扉の前で止まる。


振り返らないまま言う。


「係長」


佐伯は答えない。


内村は言った。


「俺は見たんです」


佐伯の目が動く。


内村は続ける。


「現場を」


「柵の壊れ方」


「女の靴」


「足跡」


「全部」


静かな声だった。


「自殺じゃない」


佐伯は何も言わない。


内村は扉を開ける。


出ていく。


扉が閉まる。


部屋には、佐伯だけが残る。


しばらく動かなかった。


それから小さく呟く。


「だからだ」


声はほとんど聞こえない。


「だから止めてる」


誰に言ったわけでもない。



夜。


旧市街。


アパートの前。


内村は自動販売機の前に立っていた。


缶コーヒーを買う。


プルタブを開ける。


湯気が立つ。


静かな通りだった。


遠くで車が通る。


その時。


足元で気配が動いた。


黒い影。


猫だった。


黒猫。


半長毛。


内村は見下ろした。


猫も見上げている。


しばらく沈黙。


それから内村は言った。


「……お前」


猫は動かない。


内村はしゃがんだ。


街灯の光の中で、猫の毛が揺れる。


内村は小さく笑った。


「覚えてる」


猫の耳が少し動く。


「このアパート」


内村は言う。


「よく来てたな」


猫は黙っている。


内村は続ける。


「アイツが餌やってた」


婚約者。


このアパートに住んでいた。


小さなワンルーム。


ベランダから猫を呼んでいた。


『クロ』


そう呼んでいた。


黒いから。


単純な名前だった。


内村は猫を見て言う。


「クロ」


猫は逃げない。


目を細める。


内村は息を吐いた。


「お前も見てたのか」


夜の風が吹く。


街の匂いが流れる。


酒。


排気ガス。


湿ったコンクリート。


内村は呟く。


「あの夜」


屋上。


黄色いテープ。


白いシート。


落ちた体。


そして。


屋上の縁に座っていた猫。


黒猫。


内村は言った。


「……なあ」


猫は見ている。


ただ見ている。


内村は立ち上がる。


歩き出す。


猫が後ろからついてくる。


足音はしない。


内村は振り返らない。


だが言う。


「ついてくるな」


猫は止まらない。


内村は苦笑する。


「勝手にしろ」


街灯の下を二つの影が伸びる。


一人と一匹。


夜の旧市街を歩いていく。


猫は知っている。


この男は


見てしまった人間だ。


そして。


今も


見続けている。


だからクロは


逃げない。


ただ


一緒に歩く。


それだけだった。


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