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『路地裏の目』第二話

同じ匂い


夜の街は、昼とは違う顔をしている。


路地裏の湿った匂い。

排気ガス。

コンビニの揚げ物。

古いゴミ袋。


そのすべての中から、黒猫は一つの匂いを拾う。


甘い酒。


若い男の汗。


そして――

焦り。


黒猫は屋根の縁に立っていた。


半長毛の黒い毛が、夜風に揺れる。


目が光る。


覚えている匂いだった。


昨夜の屋上。


女が落ちた夜。


黒猫は静かに屋根から飛び降りた。


音はしない。


アスファルトの路地を歩く。


鼻が動く。


匂いは道路の先へ続いていた。


一台の車のところで止まる。


黒いセダン。


高級車。


エンジンの余熱が残っている。


猫は車の周りを一周する。


ドアの下。


タイヤ。


そして助手席の下。


匂い。


間違いない。


あの男だ。


そのとき、足音がした。


猫はすっと物陰に隠れる。


男が車に近づいてきた。


二十代後半。


整った服。


高価な靴。


スマートフォンを見ながら笑っている。


「だからさ、大げさなんだって」


通話中らしい。


「昨日のは事故。

 分かる? 事故」


男は車に乗り込む。


黒猫は暗闇の中からそれを見ている。


男の名前を、まだ猫は知らない。


だが匂いは覚えている。


エンジンがかかる。


黒いセダンは夜の街へ滑り出した。


猫はその後を歩き出す。



翌日。


旧市街警察署。


刑事・内村は机の上の資料を見ていた。


写真。


廃ビルの屋上。


壊れた柵。


白いシート。


転落死した女性。


書類の上には

「自殺」と赤いスタンプ。


隣の刑事が言う。


「最近多いですよね、こういうの」


内村は答えない。


写真を見続ける。


柵の根元。


曲がった金属。


ペンでそこを軽く叩く。


「……」


押されたように見える。


だが証拠はない。


内村は椅子に背を預けた。


目を閉じる。


思い出す。


屋上。


夜風。


そして――


黒猫。


屋上の縁に座っていた。


逃げなかった。


ただ見ていた。


内村は小さく呟く。


「馬鹿らしい」


自分でも分かっている。


猫が証人になるわけがない。


だがどうしても引っかかる。


内村は立ち上がった。


「ちょっと外行ってきます」


同僚が振り向く。


「現場ですか?」


「散歩だ」



夕方。


旧市街の路地。


内村は歩いていた。


廃ビルの近く。


ふと足を止める。


壁の上に黒い影。


黒猫。


半長毛。


同じ猫だった。


内村は少し笑う。


「……いたな」


猫は動かない。


ただこちらを見ている。


内村は近づく。


「お前、ここらの主か?」


猫はゆっくり立ち上がる。


そして壁から降りた。


歩き出す。


路地の奥へ。


内村は一瞬迷う。


「……」


ため息をつく。


歩き出す。


猫を追う。


「俺も暇じゃないんだがな」


猫は振り返らない。


路地を曲がる。


さらに曲がる。


やがて大通りに出た。


そのとき。


一台の車が止まった。


黒いセダン。


ドアが開く。


男が降りる。


内村の視線が止まる。


若い男。


高級スーツ。


笑いながら助手席の女に言う。


「ほら、景色いいとこ知ってるんだよ」


女は少し不安そうだ。


「こんな時間に?」


「大丈夫だって」


男は笑う。


内村はその様子を見ていた。


特に不審な点はない。


ただの男女。


猫は車の下から男を見ている。


毛が少しだけ逆立つ。


匂い。


昨夜と同じ。


男の名前は


隆也。


だが内村はまだ知らない。



夜。


ビルの屋上。


女は怯えていた。


「帰りたいです」


男――隆也は笑う。


「だからさ」


「そんな怖がらなくていいって」


一歩近づく。


女は後ろへ下がる。


柵に背中が当たる。


金属が鳴る。


隆也は軽く肩を押す。


「ほら」


その瞬間。


黒い影が飛んだ。


猫。


隆也の顔に爪が走る。


「っ!」


隆也が叫ぶ。


女はその隙に走る。


屋上の扉へ。


階段へ。


隆也は怒鳴る。


「待て!」


その時。


屋上の扉が開いた。


刑事が立っている。


内村。


女が叫ぶ。


「この人です!」


「突き落とされそうになりました!」


夜風が吹く。


隆也は頬の血を拭く。


笑った。


「冗談ですよ」


「ちょっとふざけただけ」


内村は黙っている。


隆也を見る。


柵を見る。


そして猫を見る。


黒猫が屋上の縁に座っている。


静かに。


内村は小さく言う。


「……またお前か」


猫は動かない。


ただ見ている。


内村は隆也に視線を戻す。


「署まで来てもらおう」


隆也は笑う。


「弁護士呼びますよ」


「どうぞ」


内村は静かに答える。


だが心の中では、もう一つの確信が生まれていた。


昨日の転落。


壊れた柵。


逃げた男。


そして今。


同じ屋上。


同じ状況。


内村は小さく呟く。


「事故じゃないな」


夜風が強くなる。


街の匂いが広がる。


酒。


汗。


恐怖。


黒猫は屋上の縁に座っている。


見ている。


ただそれだけ。


だが匂いは覚えている。


あの夜も。


そして今夜も。


同じ匂いだった。

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