『路地裏の目』第十二話
見ていた者
夜の屋上は、風が強かった。
古いビルの柵が軋む。
街の灯りが遠くに揺れている。
その端に、黒猫が座っていた。
クロ。
尾をゆっくり揺らしながら、静かに夜を見ている。
階段の扉が開いた。
隆也が出てくる。
息が荒い。
額に汗が浮いている。
後ろには若い女。
腕を掴まれている。
「離して…!」
女が叫ぶ。
隆也は笑う。
その笑いは、どこか壊れている。
「落ち着けよ」
「ただ話してるだけだろ」
女は必死に腕を振りほどこうとする。
「帰らせて!」
「警察呼びます!」
隆也の表情が一瞬で変わる。
「……うるさいな」
腕を強く引く。
女の背中が柵にぶつかる。
金属が軋む。
クロは動かない。
ただ見ている。
隆也は気づく。
猫。
黒い影。
目だけが光っている。
「……またお前か」
隆也の顔が歪む。
あの夜の目だ。
夢に出る目。
ずっと見ていた目。
「見るなよ」
隆也が呟く。
「見るな」
女が叫ぶ。
「助けて!」
その瞬間。
屋上の扉が開く。
「そこまでだ」
低い声。
隆也が振り向く。
刑事 内村。
ゆっくり歩いてくる。
「……遅いんだよ」
隆也が笑う。
「いつも」
女を突き飛ばそうとする。
その瞬間。
黒い影が飛ぶ。
クロ。
顔面に爪が走る。
「ぐっ!」
隆也がよろめく。
女が柵から離れる。
内村が走る。
隆也の腕を掴む。
「終わりだ」
隆也は笑う。
血の滲んだ顔で。
「証拠あんのかよ」
「俺がやったって」
内村は何も言わない。
地面に落ちているものを拾う。
スマートフォン。
録画画面。
屋上。
隆也。
女。
全部映っている。
隆也の笑顔が消える。
沈黙。
遠くでパトカーの音が聞こえる。
内村は言う。
「終わりだ」
隆也は膝から崩れる。
クロは少し離れた場所でそれを見ている。
⸻
数日後。
警察署の屋上。
夜。
内村が立っている。
風が吹く。
扉が開く。
佐伯が出てくる。
コートのポケットに手を入れている。
「終わったな」
内村は振り返らない。
「……そうですね」
沈黙。
街の灯り。
佐伯が言う。
「会社は切り捨てた」
「息子一人のために全部潰れるわけにはいかない」
内村は言う。
「そうですか」
また沈黙。
内村がゆっくり振り向く。
「一つ聞きたい」
佐伯は答えない。
内村は言う。
「数年前」
「婚約者が落ちた夜」
「あなた、現場にいましたね」
風が止む。
佐伯の目が少しだけ細くなる。
「……何の話だ」
内村は言う。
「古い防犯カメラ」
「残ってました」
「屋上の階段」
「あなたの車」
長い沈黙。
佐伯は小さく笑う。
「だからどうした」
「俺が突き落としたのか」
「違いますよ」
内村は言う。
「でも」
「見ていた」
佐伯は空を見る。
「ああ」
あっさり言う。
「見てた」
内村の拳が震える。
「止めなかった」
佐伯は静かに言う。
「止めたら」
「俺も消される」
「相手が誰か分かってるだろ」
沈黙。
佐伯は続ける。
「世の中には」
「勝てない相手がいる」
内村は言う。
「だから黙った」
佐伯は答える。
「終わらせた」
風が吹く。
その時。
足元に影。
クロが屋上の端に座っている。
佐伯が見る。
「……猫は嫌いだ」
クロが近づく。
ゆっくり。
佐伯の靴の匂いを嗅ぐ。
そして。
一瞬だけ毛を逆立てる。
ほんの一瞬。
内村はそれを見る。
クロは何も言わない。
ただ見ている。
佐伯は踵を返す。
「この話は終わりだ」
扉が閉まる。
屋上に残るのは
内村と
クロ。
内村はしゃがむ。
クロを見る。
「……お前」
クロは動かない。
内村は言う。
「ずっと見てたんだな」
沈黙。
夜の街。
遠くのサイレン。
内村は空を見る。
そして呟く。
「俺も見た」
クロが尾を揺らす。
内村は言う。
「今度は」
「見てるだけじゃ終わらせない」
クロは答えない。
ただ夜を見ている。
あの夜も。
今日も。
そして
これからも。
黒猫は屋上から降りる。
静かに。
影の中へ消えていく。
内村はその背中を見る。
少しだけ笑う。
「……ありがとう」
猫は振り返らない。
夜の街へ消える。
見ていた者は
まだ
ここにいる。




