『路地裏の目』第十一話
最後の夜
夜の旧市街は、昼間より静かだった。
風がビルの間を抜ける。
屋上のフェンスが、わずかに軋む。
黒猫はそこにいた。
半長毛の毛が夜風に揺れている。
クロは屋上の縁に座り、街を見下ろしていた。
匂いがする。
酒。
香水。
若い汗。
そして。
恐怖。
クロの耳が動いた。
階段の扉が開く。
男が出てくる。
隆也だった。
スーツの襟を緩め、手には缶ビール。
もう半分以上空いている。
後ろから女が出てくる。
若い。
震えている。
「帰ります」
女は言った。
隆也は笑う。
「だからさ」
軽い声。
「なんでそんな大げさなの」
女は後ろへ下がる。
屋上の柵に背中が当たる。
金属が小さく鳴る。
「怖がりすぎ」
隆也は一歩近づいた。
クロはじっと見ている。
匂い。
同じ匂い。
あの夜と。
隆也はビールを置いた。
「俺、そんな悪いことしてないよ?」
女は首を振る。
「でも……」
「でも何」
「前の子……」
その瞬間、隆也の顔が変わった。
笑っていない。
「誰から聞いたの?」
女は黙る。
隆也はため息をついた。
「ほんとさ」
「みんな騒ぎすぎなんだよ」
一歩近づく。
女は柵に押し付けられる。
「落ちたのは事故」
隆也は言う。
「自分でバランス崩した」
女は震える声で言う。
「警察に言います」
隆也は笑った。
「言えば?」
「誰が信じるの」
その時だった。
屋上の端で、黒い影が動いた。
クロ。
隆也が気づく。
目が合う。
隆也の顔が凍る。
「……」
クロは瞬きもしない。
ただ見ている。
隆也の喉が動く。
「またお前か」
クロは動かない。
ただ。
見ている。
あの夜と同じ。
隆也の手が震えた。
「……見てたな」
女がその隙に走る。
扉へ。
隆也が腕を掴む。
「待て!」
揉み合いになる。
柵が揺れる。
金属音。
女の悲鳴。
その瞬間。
屋上の扉が開いた。
「警察だ!」
内村だった。
息を切らしている。
その後ろに若い刑事が二人。
隆也は舌打ちした。
「……くそ」
女が叫ぶ。
「助けて!」
隆也が女を突き飛ばす。
体が柵の外へ傾く。
落ちる。
その瞬間。
黒い影が飛んだ。
クロだった。
女の肩にぶつかる。
体勢が崩れる。
女は屋上側へ倒れ込む。
刑事たちが駆け寄る。
「大丈夫か!」
女は泣きながら頷く。
隆也は呆然と立っていた。
顔を上げる。
クロがいる。
屋上の縁。
毛を逆立てている。
隆也の目が狂気を帯びる。
「……てめえ」
隆也が掴もうとする。
クロが飛ぶ。
隆也の顔を爪が裂いた。
血が飛ぶ。
「っ!」
隆也が叫ぶ。
後ろへ下がる。
足がビール缶を踏む。
転ぶ。
内村が腕を掴む。
「動くな」
隆也は笑った。
血まみれの顔で。
「証拠あるんですか?」
内村は何も言わない。
ただ見ている。
隆也も見ている。
二人の間に沈黙。
風が吹く。
クロは屋上の縁に座る。
さっきまでとは違う。
静かだった。
内村が言う。
「……お前」
クロは動かない。
内村はゆっくり息を吐く。
「今度は」
「見てるだけじゃなかったな」
クロは答えない。
隆也は笑った。
「猫が証人?」
「ふざけてる」
内村は隆也を見る。
そして言う。
「お前は終わりだ」
隆也は肩をすくめた。
「俺じゃない」
「全部事故」
「証拠は?」
内村は何も言わない。
ただポケットから小さな袋を出す。
地面に落ちていた。
隆也のスマホ。
画面は録画中だった。
女を脅していた時の。
隆也の顔が変わる。
内村が言う。
「証拠ならある」
隆也は沈黙した。
遠くでサイレンが聞こえる。
赤い光がビルの壁を染める。
クロは立ち上がる。
屋上の縁へ歩く。
内村が小さく言う。
「……ありがとな」
クロは振り返らない。
夜の街へ飛び降りる。
闇の中へ消える。
屋上に残るのは
人間だけだった。




