『路地裏の目』第十話
映像
夜の警察署は静かだった。
昼間のざわめきが嘘のように、廊下には蛍光灯の白い光だけが残っている。
資料整理室。
窓際の机。
刑事・内村は、古いノートパソコンの画面を見つめていた。
机の上には、山のような資料。
コピーされた防犯カメラ。
通話履歴。
タクシー会社の運行記録。
どれも正式な捜査ではない。
ただの
個人の執念だった。
画面には動画が映っている。
屋上。
暗い夜。
映像は荒い。
遠くのマンションから撮られたものだ。
風の音。
ノイズ。
そして
二つの影。
若い女。
男。
内村は再生を止めた。
画面の男を拡大する。
整ったスーツ。
少し長い髪。
顔が一瞬だけ映る。
隆也だった。
内村は目を閉じる。
小さく呟く。
「……やっぱりな」
再生。
女が後ろへ下がる。
柵にぶつかる。
男が腕を掴む。
揉み合う。
次の瞬間
女の体が宙に浮く。
映像が揺れる。
悲鳴。
そして
闇。
動画はそこで終わる。
内村はしばらく動かなかった。
やがて、マウスを握る。
もう一つのファイルを開く。
ファイル名。
200X_旧市街ビル事故
数年前の事件。
警察の公式記録。
内村の婚約者の死。
自殺処理。
内村はその動画を再生する。
これは監視カメラの映像だった。
ビルの出入口。
深夜。
婚約者が歩いて入っていく。
その後ろに
男が入る。
顔はよく見えない。
帽子。
コート。
だが
背格好。
歩き方。
何かが引っかかる。
内村は動画を止める。
静かに画面を見つめる。
その時だった。
コツ。
窓の外で音がした。
内村は顔を上げる。
窓の外。
細い縁。
そこに
黒猫が座っていた。
クロ。
じっとこちらを見ている。
内村は苦く笑う。
「……お前か」
クロは動かない。
ただ見ている。
内村は画面を指差す。
「これ」
「見えるか?」
猫は当然、答えない。
内村は椅子にもたれた。
長い息を吐く。
「なあ」
「お前」
「知ってるのか」
沈黙。
夜の風が窓を揺らす。
内村はもう一度動画を再生する。
婚約者がビルに入る。
その後ろの男。
ここで映像が少し乱れる。
しかし
次の瞬間。
もう一人の影が映る。
ほんの一瞬。
階段の影。
誰かがいる。
内村は再生を止める。
拡大する。
画面は荒い。
顔は見えない。
だが
確実に
もう一人いる。
内村の背中に冷たいものが走る。
「……なんだよ」
誰もいない部屋で呟く。
「これ」
「どういうことだ」
婚約者は自殺ではない。
それはずっと思っていた。
だが
もし
あの夜
二人いたとしたら。
内村は椅子から立ち上がる。
机の上の資料を見る。
企業記事。
新聞。
会長の名前。
神崎グループ。
隆也の父の会社。
その横に
古い新聞記事。
政治献金問題。
その記事の横に写っている写真。
警察の会合。
中央に立つ男。
捜査一課係長
佐伯。
内村は写真をじっと見つめる。
「……偶然か?」
その時。
コンコン。
ドアがノックされた。
内村は振り向く。
ドアが開く。
立っていたのは
佐伯だった。
スーツ姿。
いつもの落ち着いた顔。
「まだ帰らないのか」
内村は答えない。
ただ佐伯を見る。
佐伯は机の上の資料を見た。
動画の画面。
止まった映像。
婚約者の姿。
佐伯はゆっくり近づく。
そして言う。
「まだやってるのか」
内村
「……見つけました」
佐伯は黙る。
内村は画面を指差す。
「これ」
「自殺じゃない」
佐伯はしばらく映像を見ていた。
やがて
小さく息を吐く。
「内村」
「やめろ」
その声は強くなかった。
むしろ
疲れていた。
内村は笑う。
「やめろ?」
「俺の婚約者ですよ」
佐伯は言う。
「だからだ」
沈黙。
内村の拳が震える。
「知ってたんですか」
佐伯は答えない。
ただ窓を見る。
そこに
黒猫がいる。
クロ。
佐伯は猫を見る。
そして小さく言う。
「猫は嫌いだ」
クロは動かない。
ただ
見ている。
内村はゆっくり言う。
「……あの夜」
「何があったんですか」
佐伯は答えない。
代わりに言う。
「帰れ」
「今日はもう帰れ」
そしてドアへ向かう。
去り際に
一言だけ言う。
「お前を守ってる」
ドアが閉まる。
部屋に静寂が戻る。
内村は動かない。
画面を見つめる。
婚約者の姿。
そして
もう一つの影。
窓の外。
クロがゆっくり立ち上がる。
夜風が吹く。
猫は屋上の闇を見つめている。
あの夜も
同じ風だった。
同じ屋上。
同じ匂い。
そして
同じ人間。
クロは覚えている。
だが
猫は証言できない。
ただ
見ている。
今夜も。
そして
あの夜も。




