『路地裏の目』第一話
見てしまった夜
夜はまだ完全には冷えていなかった。
昼の熱がアスファルトの奥に残り、旧市街の路地はぬるい空気を吐き出している。
屋根の上を、黒い影が進んでいた。
猫だった。
半長毛の黒猫。
細い足取りで、瓦屋根から隣の建物へと静かに飛び移る。
音はしない。
この街は匂いでできている。
焼き鳥の煙。
古いゴミ袋。
湿ったコンクリート。
排気ガス。
そして人間。
猫は鼻を動かす。
その中に、ひとつだけ強い匂いが混ざっていた。
甘い酒。
若い汗。
興奮した体温。
猫は屋根の縁まで歩く。
下に古いビルがあった。
廃ビル。
屋上の柵は壊れかけている。
そこに二人の人間がいた。
若い女。
そして男。
男は笑っている。
軽い笑い方。
女は後ろへ下がる。
「やめてください」
声が震えている。
男は近づく。
「大げさだな」
女の背中が柵に当たる。
金属が鳴る。
猫は屋上を見下ろしている。
動かない。
女が言う。
「帰らせてください」
男は肩をすくめた。
「だから帰ればいいじゃん」
一歩近づく。
女はもう下がれない。
柵が軋む。
その瞬間。
男が手を出す。
押した。
ほんの軽く。
だが柵は壊れていた。
金属が外れる。
女の体が傾く。
空白の一瞬。
そして――
落ちた。
音は小さい。
遠くで鈍い音がした。
男は屋上の縁に立つ。
下を見る。
しばらく黙っていた。
それから、舌打ちした。
「……最悪」
階段の扉が開く。
足音。
男は振り向く。
一瞬だけ、誰かの影が見えた。
暗くて顔は見えない。
猫はそちらを見る。
匂い。
知らない匂い。
いや――
覚えておくべき匂い。
扉はすぐ閉まった。
男は階段へ走る。
屋上に残ったのは
風と
黒猫だけだった。
猫は動かない。
屋上の縁に歩く。
下を見る。
人間が倒れている。
動かない。
猫は目を細める。
ただ見ている。
それだけだった。
⸻
翌朝。
旧市街の路地は騒がしかった。
黄色いテープ。
パトカー。
野次馬。
「転落らしいですよ」
「自殺?」
「若いのにねぇ」
白いシートが地面に広がっている。
警察官が現場を歩く。
その中に一人、ゆっくり歩く男がいた。
刑事。
内村。
四十代の男。
無精ひげが薄く伸びている。
同僚が言う。
「屋上から落ちたみたいです」
内村は空を見上げる。
廃ビル。
古いコンクリート。
壊れた柵。
「遺書なし」
「目撃者なし」
「最近多いですよね」
内村は答えない。
ただ上を見ている。
屋上の縁。
そこに黒い影があった。
猫。
半長毛の黒猫。
じっとこちらを見ている。
逃げない。
内村は少し眉をひそめる。
「……野良か」
若い刑事が笑う。
「この辺多いですよ」
内村はまだ猫を見ている。
普通、野良猫は逃げる。
だがこの猫は動かない。
ただ見ている。
まるで――
何かを知っているように。
内村は小さく息を吐く。
「屋上見てくる」
「了解です」
内村は廃ビルへ入る。
暗い階段。
コンクリートの匂い。
足音が響く。
屋上の扉を押す。
風が吹く。
柵は壊れていた。
錆びた金属。
足跡。
争った形跡。
内村はしゃがみ込む。
柵を触る。
「……」
事故。
そう処理されるだろう。
だが
少しだけ
押された跡がある。
その時。
背後で音がした。
振り向く。
黒猫が屋上にいた。
いつの間にか来ている。
内村を見ている。
逃げない。
内村はしばらく猫を見る。
そして言う。
「……お前」
猫は瞬きもしない。
風が毛を揺らす。
内村は屋上の縁を見る。
落ちた場所。
それから猫を見る。
「見てたのか?」
猫は答えない。
ただ見ている。
内村は苦く笑う。
「聞いても仕方ないか」
立ち上がる。
だがもう一度、猫を見る。
猫の目は静かだった。
感情がない。
ただ
記録しているような目。
内村はふと呟く。
「……自殺じゃない気がするんだよな」
猫は動かない。
内村は扉へ向かう。
屋上を出る前に、もう一度振り返る。
猫はまだそこにいる。
同じ場所。
同じ姿勢。
内村は言う。
「まあいい」
「お前が証人なら楽なんだが」
猫は何も言わない。
当然だ。
だが
猫は覚えている。
甘い酒の匂い。
若い汗。
そして
もう一つの匂い。
階段の扉から来た男。
その匂いも。
猫は屋上の縁に座る。
旧市街を見下ろす。
人間が歩く。
車が走る。
騒がしい街。
猫は静かに目を閉じる。
そしてまた開く。
猫は見ている。
あの夜も。
今も。
そして
これからも。




