妹優先の婚約者、もう無理〜一つの約束も守れない人とは一緒になれる気がしない〜
妹を優先する兄を褒める人は他人。
他人は他人だから。
身内になる予定の人ならば。
こうなる。
「ごめん、今日も無理になった。アマカロアが熱出しちゃってさ」
まただ。
またこれだ。
婚約者であるライナスは、申し訳なさそうな顔でそう言った。
今日で何度目のドタキャンだろう?
心の中で盛大に舌打ちした。
この世界に転生してきて、もう十五年。
前世ではしがない漫画家だった。
けど、今世は公爵令嬢のエリス・リゼルと生まれ変わった。
恵まれた身分、美しい容姿。
何不自由ないはずなのに、唯一の悩みがこの婚約者、ライナスだ。
彼は、優しい人。
それは間違いない。
でも、優しすぎる。
特に、彼の妹であるアマカロアに対しては。
アマカロアがちょっと風邪を引いた、転んで膝を擦りむいた、お気に入りの人形の腕が取れた。
どんな小さなことでも、ライナスは約束を簡単にキャンセルする。
デートはもちろん、大事なパーティーですら。
「アマカロアが寂しがってるから」
の、一言でドタキャンされたことが何度もある。
最初は「仕方ないな」って思ってた。
でも、それが何年も続くと、さすがに堪忍袋の緒が切れる。
だって、一応、彼の婚約者だよ?
将来の妻だよ?
こっちの気持ちを考えてくれないの?
そんなの夫婦になれない。
「ライナス、さすがに私も限界」
思わず口に出した言葉に、ライナスはきょとんとした顔をした。
「え、どうしたの、エリス? 何か気に障ったことでもあった?」
この鈍感さにも、もううんざり。
「気に障った? 毎日毎日、妹さんの都合で私の予定が振り回されてるのに、何も感じないの? あなたにとって、私はその程度の存在ってこと?」
声は、我ながらかなり怒っていたと思う。
ライナスの顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「ち、違うよエリス! そんなことない! アマカロアは体が弱いから、どうしてもってなるし」
「体が弱いって、アマカロアはもう十歳でしょ? いつまでそうやって過保護にするつもり? それに、体が弱いことを言い訳に、周りを振り回していいなんてことはない」
前世の記憶がある私にとっては、この世界の常識も多少は違うけれど。
それでも「過保護」という言葉がぴったり。
ライナスは、アマカロアが泣いたりすると、すぐに言いなりになってしまう。
「もういいわ。あなたとは、これ以上続けていけない」
静かに、しかしはっきりとそう告げた。ライナスの目が大きく見開かれる。
「え、エリス? 何を言ってるんだい? 婚約解消?」
「そうよ。あなたには、私を幸せにする資格がない。妹さんを優先しすぎるあなたとでは、たとえ結婚したとしても、私はずっと寂しい思いをするだけだわ」
そう言うと、心の中はなぜかスッキリしていた。
ずっとモヤモヤしていたものが、一気に晴れたような気分だ。
ライナスは、まだ何か言いたそうにしていたけれど、もう彼の顔を見るのも嫌だった。
「ごめんね、ライナス。私、もう決めたから」
そう言い残して、彼の前から立ち去った。
もちろん、婚約解消は大変だった。
ライナスの家柄も良かったから、周りからは色々言われたし、両親も最初は驚いていたのだが。
でも、きちんと理由を説明すると、最終的には決断を尊重してくれた。
婚約解消後。
これまでの鬱憤を晴らすかのように、自分のために時間を使った。
習い事を始めたり、友人たちと旅行に行ったり。
ライナスのことなんて、すぐにどうでもよくなった。
そんなある日。
公爵家が主催する慈善パーティーに参加していた。
会場はきらびやかなドレスを着た人々で賑わい、あちこちで楽しそうな会話が弾んでいる。
友人と談笑していると、ふと、ある男性の視線を感じた。
彼はこちらを見て、にこやかに微笑む。
背が高く、落ち着いた雰囲気の彼は、どこかライナスとは違う、大人っぽい魅力があった。
目が合うと、彼はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
身を繕う。
「エリス様ですね? 以前からお噂はかねがね。わたくし、ペイシェル・ヴァインベルクと申します」
彼は優雅に一礼し、穏やかな声で自己紹介した。
公爵家の嫡男、つまり次の公爵様になる人だ。
粗相がないようにしなければ。
色々な話をした。
彼は話をじっくりと聞いてくれ「最近始めた刺繍が難しくて」と言えば、「私も幼い頃に少しだけ嗜んでいました」と、具体的なアドバイスをくれたりも。
ライナスがいつも「アマカロアがね、アマカロアがね」と妹の話ばかりしていたのとは大違い。
ペイシェルは、自分という個人に興味を持ってくれているのが伝わってくる。
ペイシェルとの交流は、それからも続いた。
パーティーで、伸びやかに談笑できる日が来るなんて。
彼は、落ち着いていて、話をじっくり聞いてくれる人。
何より、一番に考えてくれる人だった。
「エリス、君といると、本当に心が安らぐよ」
彼がそう言ってくれた時に初めて「幸せ」を感じ、元婚約者と別れて本当に良かった。
ライナスとの婚約を解消してから本当に、自由になった気がしたし、合わせて我慢していたことが、嘘みたいにどうでもよくなる。
自分のために時間を使ったり、友人たちと気兼ねなく笑い合ったり、心が軽くなるとは、まさにこのことだと思う。
彼は忙しい中でも、必ず約束を最優先してくれ、体調が悪いと伝えれば「無理なさらずに」とすぐに会うのを延期してくれるし。
行きたいと言った場所には、どんなに遠くても付き合ってくれた。
ある雨の日。
ちょっとした風邪を引いてしまった時、彼は熱心な見舞いの手紙と一緒に、温かいハーブティーのセットを贈ってくれた。
「お大事に」
という短い言葉にも、彼の深い気遣いが込められているのがわかったのだ。
「ありがとう……ございます」
その時、確信した。
「あぁ、この人こそが、私が本当に求めていた人だ」
と。
不安な気持ちを打ち明けると、彼はいつも「エリス、君には私がいる」と、優しく。
力強く言ってくれる。
彼の言葉は、まるで魔法のようで、温かく包み込んでくれた。
出会ってから半年が経った頃、ペイシェルは求婚してくれた。
「エリス、君といると、本当に心が安らぐ。これからの人生、どうか私と共に歩んでほしい」
「はいっ」
迷うことなく、彼の求婚を受け入れた。
ペイシェルとの結婚式は、盛大に執り行われた。
白いウェディングドレスに身を包んむと、心から幸せだ。
「綺麗だ」
バージンロードを歩く隣には、最高の笑顔を浮かべたペイシェルが。
結婚後、ペイシェルと穏やかで幸せな日々を送っている。
彼はいつでも大切にしてくれ、どんな時も意見を尊重してくれるので、これ以上の幸せはない。
遠い記憶の彼方に、妹を優先し続けたライナスがいた。
でも、今はもう何の感情もわかない。
あの時、勇気を出して婚約を解消して本当に良かった。
今、本当に最高の気分。
ライナス視点
あの日、エリスがぼくに婚約解消を告げた時、ぼくの頭は真っ白になった。
「あなたとは、これ以上続けていけない」
彼女の静かで、しかしはっきりとした言葉が、まるで冷たい氷のようにぼくの胸に突き刺さり。
ただ、彼女の顔を呆然と見つめることしかできなかった。
「ごめんね、ライナス。私、もう決めたから」
そう言い残して、エリスはぼくの前から立ち去ってしまった。
残されたぼくは、ただ立ち尽くすしかない。
何がどうなったのか、理解が追いつかないと、ふらりとよろめく。
つい数分前まで、いつものようにデートの約束をキャンセルしたばかりだったのに。
アマカロアが熱を出したから、それは仕方のないことだと思っていたのに。
後から、使用人たちがエリスがひどく怒っていた、と口々に言っていた。
でも、エリスがそんなにも不満を抱えていたなんて、全く気づいていなかった。
彼女はいつも、言うことを受け入れてくれる、優しい人だと思っていたから。
アマカロアが一番、それが当たり前だった。
妹のアマカロアは、かけがえのない存在。
体が弱く、ぼくがいなければ何もできない、大切な妹。
幼い頃から、アマカロアを守ってやらなければ、と強く思っていた。
だから、アマカロアが少しでも体調を崩したり、寂しがったりすれば、他のどんなことよりもアマカロアを優先してきたのに。
エリスとの約束も、例外ではなかった。
デートの約束をキャンセルしたり、パーティーを欠席したりすることは、確かにあった。
アマカロアのためだから、エリスも理解してくれると信じていたし、いつも「仕方ないわね」と微笑んでくれていたから。
それが、彼女の本心からの言葉ではないと、なぜ気づけなかったのだろう。
婚約解消の知らせは、すぐに社交界に広まった。
ぼくの家の両親は、エリスを怒らせてしまったことを激しく責める。
自身も、なぜこんなことになってしまったのか、ずっと考えてから、ようやく気づいた。
エリスを「ぼくの婚約者」という枠にはめて、彼女自身の気持ちを全く見ていなかったんだろう。
ここにきて、己を顧みてみた。
アマカロアを優先することが、エリスを傷つけていたなんて、夢にも思わなかった。
彼女の「寂しい」という気持ちに、ぼくが全く向き合っていなかったことに、今になって気づく。
エリスがいなくなってからの日常は、味気ないものになった。
彼女がいた頃は、当たり前のように送られてきた手紙もなくなり、華やかなパーティーで彼女を見かけることもなくなる。
相変わらず、アマカロアの世話を焼いているが、どこか心にぽっかり穴が開いてしまったような、そんな虚しさを感じるようになった。
アマカロアはそばにいるけれど、心を満たしてくれるのは、アマカロアとは違う存在だったのだと、今さらながらに痛感。
ある日、社交界でエリスの結婚の噂を耳にする。
相手は、若き次期公爵。
誰もが羨むような、素晴らしい男性だ。
数ヶ月後には、二人の結婚式が盛大に執り行われたという話を聞く。
エリスが、ぼくとは違う誰かと、幸せそうに微笑んでいる姿を想像すると、胸の奥がチクリと痛んだ。
ぼくのそばでは、決して見ることのできなかった笑顔だろうか。
エリスというかけがえのない女性を、自分の手で手放してしまったのだ。
気持ちを考えず、自分の当たり前を押し付けてしまった結果、失ったものはあまりにも大きかった。
「そうだったのか」
この経験を無駄にはしない。
これからは、もっと周りの人の気持ちを考えられる男になろう。
そしていつか、エリスのような幸せが訪れることを願うばかり。
*
ペイシェルとの結婚生活は、想像していたよりもずっと温かく、満ち足りたものだった。
朝、彼の隣で目覚めるたびに「本当にこの世界に転生してきてよかった」と心から思う。
公爵夫人としての生活は、もちろん忙しい。
領地の管理や慈善活動。
ペイシェルの仕事を支えることが、大切な役割になった。
でも、彼と一緒ならどんなことも乗り越えられる。
困っている時には、すぐに助けの手を差し伸べてくれた。
ある日、領地視察で訪れた村で、幼い子どもたちが学ぶ場が少ないことに気づく。
ペイシェルにその話をすると、彼は真剣な顔で話を聞いてくれた。
言うだけで終わりなのは、しないつもり。
「エリスの言う通りだな。教育は未来を育む大切な基盤。君の考えをぜひ実現させよう」
彼はすぐに専門家を手配し、村に小さな学校を建設する計画を立ててくれた。
学校が完成し、子どもたちが楽しそうに学ぶ姿を見た時、感動でいっぱいになった。
ペイシェルは、いつも良いところを引き出してくれ、夢を一緒に叶えてくれる人。
幸せのため息を吐く間にも、結婚して数年が経ち、待望の小さな命が芽生えた。
お腹の中にいる赤ちゃんを感じるたびに、言いようのない幸福感に包まれる。
ペイシェルは、妊娠していることを知ると、まるでガラス細工のように優しく私を扱ってくれて。
「エリス、無理は絶対にいけないよ。君と赤ちゃんが一番大切だ」
彼の深い愛情に、何度も涙が出そうになった。
ライナスだったら、きっと「アマカロアがね、おばさんになるなんて嫌だって言ってるんだ」とか、的外れなことを言っていたかもしれない。
そんなことを考えて、思わず笑みがこぼれる。
もう、彼のことなんて、心の中に影すら残っていない。
ただの思い出。
春の日。
元気な女の子を授かった。
「あうあうあう」
「よしよし」
小さな手、小さな足、そしてペイシェルそっくりの瞳。
二人の娘、モルル。
モルルが生まれてからの日々は、さらに賑やかで楽しいものになった。
ペイシェルは、仕事から帰るとすぐにモルルを抱き上げ、優しくあやしてくれる。
そんな彼の姿を見るのが、何よりも好きだった。
すくすく育つ。
「パパ、パパ!」
よちよち歩きができるようになったモルルが、ペイシェルに駆け寄っていく。
彼は優しくモルルを抱き上げ、満面の笑みを浮かべる。
その光景は、最高の宝物。
今、本当に幸せだ。
あのまま元婚約者と結婚していたら、きっとずっと寂しさを抱え、不満を募らせていたに違いない。
選択肢を間違えないでよかった。
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