第1章:『わたくし、世界を征服する予定はございませんの!』
【1】
「この世に悪役令嬢が存在するのは、きっと世界の美の均衡を保つため……」
空を仰ぎ、金糸のようなブロンド髪をなびかせながら、ヴァイオレット・グランチェスターはうっとりと呟いた。
ここは、王都の中心にそびえ立つセレスティア魔導学院の庭園。学園一の花畑スポットであるにもかかわらず、今日もそこには人影がない。
理由は簡単、ヴァイオレット様がいるからである。
彼女の姿を見かけた学生たちは、小声で囁き合いながら距離を取る。
「ほら、あれが悪名高いグランチェスター嬢よ」
「また誰かに決闘を申し込んだって話、ほんと?」
「いやいや、今朝は『あなたはわたくしの敵ですわ!』って空気に言ってたらしいぞ…」
──うわさは風に乗って三倍速で広がる。が、その本人はといえば。
「今日もわたくし、完璧でしたわ……はぁ、世界征服ってどのあたりから始めるのがよろしいのかしら?」
と、全力の笑顔で紅茶を注いでいる。
が、彼女が世界を征服しようと“考えている”わけではない。
実際は「紅茶を美味しく飲める場所を確保したい」→「花畑を占拠」→「あれ?これって支配……?」→「そうですわ、わたくしは悪役令嬢でしたわ!」という脳内連想ゲームの果てに到達しているだけである。
天然とは時に、世界を滅ぼすよりも手に負えないのだ。
【2】
「……で、何してるの?」
背後からかかった冷静な声に、ヴァイオレットはぱっと振り返った。
「まあアリア!おはようでございますわ!今日は良いお天気ですわね、世界征服日和ですの!」
「その単語を爽やかに言うんじゃない」
登場したのは、氷の姫と称される美少女──アリア・レフィーナ。
すらりと伸びた黒髪と紫紺の瞳が印象的な、理知的な佇まいの少女だ。
彼女はヴァイオレットの“監視役”として、王家から密かに派遣されていた。
……が、今ではもう完全に“保護者”と化している。
「それで、何をまたやらかしたの?」
「やらかしただなんて。わたくし、ただ図書塔に足を運びましてよ?封印された地下階に入って、うっかり転んで、謎の本に手を置いたら、すごくキラキラした魔方陣が──」
「それ、100人中100人が“やらかした”って言う案件だよね!?」
アリアは手で額を押さえた。
「もしかして、その本って……黒い表紙に銀の鍵模様とか?」
「まあ、よくご存じで!」
「──それ、封印魔導書! 国家指定の危険魔導書のひとつなんだけど!?なぜあなたがそんなもん契約してるの!?」
「ええ、あの子、可愛い声で『お前かよ……』って言いましたのよ?わたくし、思わず母性本能くすぐられてしまって」
「思考が飛躍しすぎて、もはやワープしてる」
【3】
と、その時だった。
ヴァイオレットの後ろから、ふわりと何かが浮かび上がった。
「……まったく、起こすなっつったのに。もうちょっと寝かせろってんだよ」
宙に浮いていたのは、銀髪の少年の姿をした小さな存在。
眠たげな目、つまらなそうな表情、そして足を組みながらふわふわ浮くその姿。
「この子が、ラクリモーサ・コードの精霊、ミル=インクスですの!」
「紹介しないでいいから!なにこの状況!?あんたが封印解いたのって、昨日の話だよね!?なんでもう仲良くなってるの!?」
「だって、お菓子を分けましたのよ?」
「……お前、令嬢じゃなくて野良猫の保護者か何かか?」
アリアは崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
【4】
その後、ヴァイオレットが「世界征服の日誌」を書いていたことが判明し(内容はすべて“ティータイムの場所リスト”)、アリアがため息三回分説教し、ミルが「俺、選ばれし精霊だったよな……?」と遠い目をしたところで、この日の事件は幕を閉じた。
だがその影で、魔導書の光を探知した”影の組織《クレパスの影》”が、ひそかに動き始めていたことを、誰も知らなかった。
次回、ヴァイオレット様がまたやらかす。