第2話 「春の嵐と、見えないスタートライン (後編)」
道真の
「リュックの中身を見てみろ」
という言葉は、大野拓海の心に、重たい錨のように、しかし無視できない存在として残り続けた。
一人になると、彼は無意識のうちに、自分の心の中にある
「見えない石ころ」
が何なのかを探し始めていた。
親からの期待という名の、角張ってずっしりとした石。
先生の励ましがいつしかプレッシャーに変わった、歪な形の石。
周りの友人たちの輝かしい未来予想図と自分を比べてしまう、小さくても無数にあるトゲトゲした石…。
それらを見つめる作業は、まるで自分の傷口を自分で抉るように辛く、目を背けたくなることばかりだった。
しかし、真の「見えねえ敵とは戦えねえ」という言葉が、彼を後押ししていた。
そんな拓海の異変に、親友である中村健太は誰よりも早く気づいていた。
いつものように「拓海、メシ行こうぜ!」「次の休み、どっか遊び行かね?」と明るく誘っても、拓海の返事はどこか上の空で、笑顔もぎこちない。
「お前、最近マジでどうかしちまったんじゃねえの? なんかあったら、この俺様に言ってみろって!」
中村の屈託のない言葉は、しかし、今の拓海の心には届きにくかった。
橘凛もまた、拓海の無理しているような笑顔を見るたびに胸を痛め、「大野君、最近、何か思い詰めてるように見えるけど、大丈夫? 無理しないでね」と、そっと声をかけるのが精一杯だった。
一条茜も、以前自分が「完璧な仮面」に苦しんでいた時のことを思い出し、拓海の心の重圧を察していた。
ある日の放課後、拓海は図書室で一人、参考書を前に深いため息をついていた。
結局、何一つ頭に入ってこない。そんな彼の隣に、いつの間にか真が座っていた。
「よう、大野。リュックの中身、少しは仕分けできたか?」
拓海は、驚いて顔を上げた。
そして、堰を切ったように、今まで誰にも言えなかった心の奥底の不安やプレッシャーを、真に吐き出した。
「…俺、やっぱりダメかもしれないんだ。みんなの期待に応えられないのが、怖くて…親にも、先生にも、中村たちにも、ガッカリされるんじゃないかって…そう思うと、何も手につかなくて…」
その声は震え、瞳には涙が滲んでいた。
真は、拓海の言葉を黙って最後まで聞くと、静かに言った。
「そっか。よく見つけたな、その石ころたち。そりゃあ、そんなもんパンパンに詰め込んでたら、重てえはずだわ」
その言葉には、拓海の苦しみをありのままに受け止めるような、深い優しさがあった。
「苦しいとか、怖いとか、そういう気持ちってのはな、別に無くそうとしなくていいんだぜ。むしろ、そういう気持ちがあるからこそ、人は真剣になったり、誰かの痛みが分かったりするのかもしんねえ。大事なのは、その気持ちに飲み込まれちまって、自分を見失わねえこと。そして、その重たいリュックと、これからどう付き合っていくか、だ」
真の言葉は、まるで温かい毛布のように、拓海の凍えた心を包み込んだ。
その週末、拓海は中村に呼び出され、いつものメンバーである凛や茜、そして鈴木遥や佐藤美咲たちと、公園でバスケットボールをすることになった。
最初は乗り気ではなかった拓海だったが、中村の強引な誘いと、友人たちの自然な気遣いに、少しだけ心が軽くなるのを感じていた。
プレーの合間、拓海は、意を決して、真に話したことと同じように、自分の抱えていたプレッシャーや不安を、涙ながらに友人たちに打ち明けた。
「ずっと…みんなの期待に応えなきゃって、良い自分でいなきゃって、そう思ってたけど…もう、どうすればいいか分からなくて…本当に、苦しかったんだ…」
その場にいた誰もが、拓海の真摯な告白に、息をのんで耳を傾けた。
最初に口を開いたのは、中村だった。
彼は、いつものお調子者な雰囲気は消え、真剣な眼差しで拓海の肩を掴んだ。
「バカだな、お前! そんなこと、一人でずっと抱え込んでたのかよ! 俺たち、友達だろ!? 期待とか、そんなもん、どうだっていいんだよ! お前が、お前らしくいてくれれば、それでいいんだって!」
「そうだよ、大野君!」凛も力強く頷く。「私たちは、どんな大野君だって、大切な友達だと思ってる。完璧じゃなくたっていいんだよ」
茜も、遥も、美咲も、それぞれが温かい言葉で拓海を励ました。
友人たちの言葉は、まるで春の陽射しのように、拓海の心の奥底まで届いた。
自分は一人ではなかった。こんなにも自分のことを思ってくれる仲間がいた。
その事実に、拓海の目からは、感謝と安堵の涙がとめどなく溢れ出した。
「…ありがとう…みんな…ありがとう…」
その涙と共に、彼の心を縛り付けていた「見えない石ころ」が、少しずつ溶け出していくような気がした。
数日後、拓海の表情には、以前のような明るさが少しずつ戻ってきていた。
まだ不安が完全に消えたわけではない。
けれど、その目には、自分の弱さを受け止め、それでも前を向こうとする、確かな決意の光が宿っていた。
彼は、大きな目標を掲げるのではなく、まずは目の前の授業を大切にすること、苦手な科目も少しずつ克服していくこと、そして何よりも、自分自身の心の声に正直に耳を傾けることから始めようと決めた。
そんな拓海の姿を見て、真はいつものようにニヤリと笑った。
「よお、大野。心のリュック、だいぶ軽くなったみてえだな。その調子で、焦らず、自分のペースで、お前だけの坂道を登ってけよ。頂上からの景色だけが、人生の全てじゃねえからな。道端に咲いてる小さな花に気づけるのも、立派な才能だぜ」
「苦しみ」は、誰の心にも、春の嵐のように突然訪れる。
しかし、その嵐の中で、自分の心と向き合い、大切な仲間たちの温かさに触れることで、人はまた新たな一歩を踏み出すことができる。
2年B組、いや、3年生になった彼らの物語は、また一つ、心に深く刻まれる教訓と共に、次の章へと続いていくのだった。