二人の帰還
白い正方形が並んでいる。白を基調とした家具がちらりと見えていた。
「真衣!」
私は聴こえてきた声に振り向く。
「おかーさん?」
振り向くと、母が心配そうな顔で私を覗き込んでいた。なぜか酷く懐かしいような気がして、涙があふれ出た。
「真衣ちゃん……心配させて」
私は母の泣きそうな顔を、ぼんやりと見つめる。少し痩せただろうか、母の顔が疲れているように見える。
「あんた、トラックにはねられて四日間も寝込んだのよ? 覚えてない?」
母はため息をついて話すと「先生呼んでくるわ」と涙ぐんだ声で言い、病室を出て行った。
私はゆっくり体を起こしていった。ぼんやりとしたまま、体をよくみる。所々外傷はあるが、あまり痛みはない。ただ、頭が酷く重たかった。
――なんだろう……思い出せない。
私は手を動かしてみたり、足を動かしてみたりしながら考える。眠っている間、なにか夢を見ていた気がするのに、思い出せない。どんよりと重たい頭は、それ以上うまく働かなかった。
――でも……悲しい夢だった気がする。
思わず泣いてしまったのは、なぜだったんだろう。私は呆然と窓の外で色づく赤い紅葉を見つめた。晴れた空の青さは白にもよく似ていた。
「ねぇちゃん!」
がたんと、派手な音を立てて病室の扉が開かれた。私は驚いて体が硬直した。私が目覚めた日の夕方に、弟は息を切らしてやってきた。
久しぶりに会った弟は、まだ真新しい学生服を既に着崩していた。走ってきたようで、汗をかいている。息も乱れていて、扉に寄りかかるように立って、息を整えるのに精一杯のようだった。
「あ……ゆむ?」
「……生きてる」
私が名前を呼ぶと、歩は荒い呼吸の途中で、それだけ言った。黒い髪は短く切りそろえられ、所々が跳ねている。顔は母似で、少しつり目だ。黒い目が私を見て、少し和らいだように見えた。
「生きてるよ? なに、その酷い言い方は」
心配をかけたかもしれないが、その言い方はあんまりだと思う。むっとしていると、歩はその場にしゃがみこんで深いため息を吐いた。
「歩? なに、大丈夫?」
いきなり座り込んだ歩に近寄ろうと、私はベッドから降りようとした。
「大丈夫? じゃねーよ! それを言いたいのは俺のほうだっての」
ベッドから降りようとする私を止めて、歩は怒鳴った。歩に怒られるのは、一体いつぶりだろう。びくりと体を止め、黙り込んだ歩に言葉を促す。「歩?」
ぐったりとした様子で俯く歩は、息を整え終わると、ゆっくりと話だした。
「いきなりさ、事故に遭ったて知って……来てみりゃ、ずっと寝てて……ねぇちゃんのが、大丈夫なのかよ?」
歩は息をはきながら、頭を掻きながら困ったような声を出した。
「歩……ごめんね。ありがとう」
歩は顔を上げると、泣きそうな顔で笑った。
「なんだよ。それ」
呆れたような、乾いた笑いだった。
「心配してくれたんでしょ? ありがとう。ねぇちゃん嬉しいよ」
歩がまた私の事を「ねぇちゃん」と呼んでくれた事。泣くほど心配してくれたことが、泣きたくなるほど嬉しかった。
「……ばーか。ばかねぇ」
歩は悪態つくとまた俯いた。静かなうめき声が聞こえる。
――泣き虫なのは、かわってないんだなぁ。
もう見た目は大人に近いのに、泣き出すと長いのも、泣きながら怒るのも昔と変わらない。
私は胸のどこか深くに、懐かしさが芽生えていた。昔の事を思い出しているような、別の何かを思い出しているような感じだった。
――なんだろう、この感じ。
私は泣いている歩をあやしながら、首を傾げた。
弟が落ち着いた頃、母が弟を迎えに来た。母は目がはれるほど泣いた弟を見て笑った。私も一緒になって笑っていると、弟はまた怒鳴った。
「いいから、ねぇちゃんはさっさと怪我治せよ!」
笑われて恥かしいのか、顔を真っ赤にして怒ると病室を飛び出した。
「あ……あの子も、心配してたのよ」
母は乾いた笑いをこぼして、弟の後を追って病室を出て行った。
――わかってるよ。
わかってる。嘘が下手なのは、姉弟そろってだから。
歩はそれからもよく見舞いに来てくれるようになった。口は相変わらず悪いが、以前よりも距離が近くなったようで嬉しかった。
中学に上がって暫く経っているが、友達は順調に出来ているようだった。これまでは、いくら聞いても教えてくれなかった。
――それだけ、心配かけちゃったって事かな。
歩は質問にもある程度答えてくれるようになり、自分から話をしてくれた。病院生活を暇だと嘆いた私への気遣いなのかも知れない。
「俺、サッカー部にしたんだ」
「へぇ。結局サッカーなの?」
歩は楽しげに言った。中学に上がった時、何の部に入るか、悩んでいたらしい。
私はそれまでやっていたサッカーを続けるのだと思っていた。けれど、歩は別のスポーツにも興味を持っていたらしい。
「結局って何だよ……面白い奴がいてさ。そいつがサッカー部に入るって言うから」
歩は楽しげに面会時間が終わるまで話続けた。私は懐かしい気持ちで、それを静かに聞いて過ごした。幸せな時間だった。
忘れている何かを、考える時間は徐々に減った。
病院生活のほとんどは、面会とリハビリに費やされた。事故に遭ってから四日間も寝込んでいたせいで、体はなまってしまったらしい。医者は暫くすれば元に戻るだろうと、笑って言ってくれた。
リハビリと面会中以外は、ずっと暇だった。本は元々あまり読むほうではないので、すぐ飽きてしまうし、運動は出来ない。
病室に篭って何かをするのは、部屋に篭るのに慣れていない私には苦痛だった。
面会には家族以外に友達も来てくれたが、持ってきてくれるのは宿題ばかりだ。
「たまには違う物も持ってきてくれたらなぁ」
「何よ。届けてあげてるだけ感謝しなさい。それ、明日までに出すやつだからね。退院したらどうせやらなきゃいけないんだから」
面会に来てくれた友人、由紀はきつい口調で言った。目の前には現代文の宿題プリント。
「わかってるよ。でも、終わる頃には面会時間も終わっちゃうじゃん」
軽く睨むような目で私を見た由紀に、わざとため息をついてみせる。出来れば勉強ではなく、普通の会話をしたい。
「……提出期限は延びないから。今日中にやって、私が出しておいてあげるから。話たかったら、早く終わらせなさい」
由紀は高校からの友達だが、今では一番の友達だと思っている。
「教えてくれるんだよね?」
私が首をかしげて見せると、由紀はペンを取って静かに説明しだした。由紀は厳しい事ばかり言うし、怒鳴られる事だって少なくないけれど。
――ちゃんと、教えてくれるし。
それが由紀なりの優しさなのだと思う。何より、私は彼女の歯に衣着せぬ物言いが好きだった。
「ちょっと、聞いてる? これ読んで」
由紀の顔をじっと見ていた私は慌てて、指されたところを読む。
「えっと……しんいせい?」
「心因性。精神面からくるってこと」
指された場所を読み出し、漢字に躓く私に由紀は読みを教え「メモしとけ」と指で教科書を叩いた。
「んと……精神的原因で、一時期の記憶を失くした人の事を言う。本作では母親同士のいじめによるものと思われる」
教科書に載っていたのは、記憶を失くした人の話。本やゲームの中でしか聞かない言葉だったが、考えさせられる内容だった。
私は、知らない事を責められ、悲しまれる事がどれだけ辛いか考えた。
――怖くて、きっと悲しい。
どれだけ考えても、予想もつかないほどのことなんだろうと、思うと胸が苦しかった。
「はい。こんなところでしょ。終わりだよ」
数十分とした頃、プリントは終わった。一番時間が掛かったのは、感想文の方だった。
――なんて、書いたらいいのかわかんないよ。
悩む私に由紀は「適当に書け」とアドバイスをくれたが、どうにもそういう気持ちにならなかった。
「あ、あれ、弟君じゃない?」
由紀は窓の外を指差した。私は背伸びをやめ、身を乗り出す。窓の外には、ユニホームのまま病院へ入っていく歩が見えた。
「本当だ……部活終わったのかな」
「みたいね……いいわね、仲がよくて」
視線を戻すと、由紀は悲しんでいるみたいに微笑んでいた。
「最近はお見舞いに来てくれるけどね。ちょっと前までは酷かったんだよ? 反抗期で」
「でも、何ヶ月も話さないほどじゃないでしょ? 充分でしょうよ」
私は入院する前の歩を思い出して、顔をしかめたが、由紀は目を伏せて言ったので何も返せなかった。
詳しい事は聞けていないが、由紀の家族はあまり仲がよくないらしい。
「あんたは弟と一緒に笑ってるのが、普通だったんでしょ……もちろん、悪い事じゃないよ。いいことだし、あんたはそれでいいんだと思うよ」
由紀が少し悲しそうに見えて、私は小さく頷くことしか出来なかった。
「まぁ、私はあんたみたいにうるさい姉はいらないけど。ブラコンだし」
「ブラコンって……酷いなぁ」
暗くなっている私に気づいているのか、由紀はおどけて言った。気遣いのうまい由紀に乗せられて、私は残りの時間を楽しく過ごせた。
私は入院してから二週間、まだリハビリの最中だった。それでも、経過はいいらしく、一人で出歩く許可はすぐに出た。
少し寒くなりだした初冬の病院の廊下はひんやりとしていた。動いて暖まった体に、手すりのひんやりとした温度が気持ちいい。
鈍っている足は、痺れているときの感覚によく似ている。とても重くて、引き摺るように歩く。歩いているというよりは、持ち上げているような歩き方だった。
今は大分よくなって、ゆっくりなら普通に歩けるまでになった。
「ふぅ……水ぅ」
今日は少し多く歩いた所為か、汗をうっすらとかいていた。
――もうちょっとでロビーだ。
ロビーは自販機とソファー、テーブルにテレビが置かれ、受付と仕切りがされていない広々とした空間だ。診察を待つ人と、散歩している人がごった返す空間が、私は賑やかで好きだった。
都会に近い総合病院は、町の人達が集まり、いつも賑やかだった。病院だというのに人々の笑い声が溢れていて、私はロビーでは少しも沈んだ気持ちにならなかった。
病院はとにかく広くて、いくつもの棟に分かれていた。棟の中心に中庭があって、噴水や花壇。その近くには運動場が備わっていた。
私のリハビリは殆ど室内で、病室のある棟と、ロビーのある中央棟だけの範囲で行っていた。
「水、水っと」
体力が落ちているせいか、少し動くと汗が出て、息が上がってしまう。私は人で賑わう受付を抜け、自販機へと歩いて行った。
ロビーのテレビはどこかのチームのサッカー中継を映し出していた。テレビを見る人々の視線はどこか熱っぽい。
弟が熱心にテレビ観戦をしていたのを思い出す。何かの大会の中継でもしているのか、何人かは見慣れないチームのユニホームを握り締めていた。
私は自販機に視線を戻し、見慣れない人を見つけた。
鼻にかかるほど長く伸びた前髪と、肩に掛かる無造作な白髪。細い手足と白い首筋。すらっとしている青年は、ぴしっと背筋を伸ばして歩いてくる。
私はどこか違和感を覚えて足を止める。すたすたと歩く青年は、私の横をすれ違った。彼は薄紅色のパジャマを着ていた。彼が自販機で売っているジャンスミン茶を握っていたのが見えた。
テレビから、アナウンサーの声が響いていた。
『ロスタイムが終了しました! さぁ、後半戦、先攻○○チーム! どうでるか!』
目が覚めたときのような涙は出なかった。秋も終わり、寒くなってきた昼下がり。ロビーの窓から指す日差しに照らされて、私はうっすらと笑みを浮かべた。