四日目
階段をなんとか降りていくと、ロスは既に朝食の準備を済ませていた。テーブルに朝食の皿を置くと、私に気づいたロスは目をむいた。
「おねぇちゃん? 顔色悪いよ?」
パタパタとスリッパの音を響かせて、ロスが駆け寄ってきた。またやっちゃった。心配をかけてしまった。私はロスの表情を見て思う。
「ごめんね。なんか調子悪いみたい」
視界が歪んでいるような感じが気持ち悪い。ロスは一瞬戸惑ったけれど、私の手を引いて椅子に座らせてくれた。
「とりあえず、食べて」
ロスは私の向かいに座った。じっと私の様子を確かめるように見つめている。
――食べなきゃ。
私が一口食べるのを見たロスは息を吐いた。安堵のようにもため息のようにも見えた。ロスも暫くして食事に手を付け始めた。
いつもよりもゆっくりのペースでの朝食が終わった。とたんにロスが切り出した。
「おねぇちゃん。外に行こう」
ロスは言い出すなり立ち上がり、私の手を引っ張った。
「え、ちょっと、ロス?」
ロスの唐突な行動に頭が追いついていかない。私は重たい体を素早く動かす事ができなくて、それが余計にロスを焦らせているみたいだった。
「早く、行かなきゃ」
ぼそりと、ロスが低く呟いた。一瞬だけ見えた横顔は、知らない男の人のように見えた。私はロスに引き摺られるように外へ出た。
自転車を出すだけの時間も惜しいのか、ロスはすたすたと歩いた。行き先の予想がつき出して私は嫌な汗をかいた。
「ロス!」
「大丈夫だよ」
ロスはこちらに見向きもしない。私は焦って止めようと歩くのをやめた。
さすがに私を引き摺っていくのは出来ないのか、ロスが振り向いた。睨むような視線に心が痛んだが、私は口を開いた。
「一人じゃ、帰れないよ」
視線の先には荒々しく揺れている川が一つ。離れていても微かに家族の声が聞こえてくる。自分を必死に呼んでいるのがわかる。
「でも……だめだよ。おねぇちゃんはもう時間がない」
ロスが険しい顔で言う。たった四日しかいない私に時間がないなら、ロスはどうなんだろう。私は徐々になくなりつつある感覚を確かめるように拳を作った。
「私、ロスと一緒じゃなきゃ帰らない」
「おねぇちゃん!」
ロスの口調が荒々しくなった。
――ああ……子供みたいだ。
一緒じゃなきゃ帰らないと言う自分も、帰れない事実から目を背け続けたロスと何も変わらない。ロスの声がどこか男の人のそれに近いような気がした。
「このままじゃ、おねぇちゃんまで帰れなくなっちゃう! それだけはダメだ!」
どうしてそんな事を言うのだろう。どうしてそんな事がわかるんだろう。ぼんやりとし始めた頭を私は横に振った。
「っ……僕みたいにはなってほしくないんだよ! どうしてわかってくれないの?」
ロスが叫んだ。その顔が苦しそうで、私は流れていく涙を手で追った。
「ロス、一つ約束」
「……何?」
手で必死に目をこすったロスは顔を上げた。私はその赤い目をじっと見る。
――綺麗だな……こんなに、綺麗なのに。
「一緒に、帰ろう」
――どうして、一緒にいられないんだろう。
きっと、傷ついて、でも優しさは捨てられなくて。だから、優しくしてくれたはず。大事に持ち続けることのほうが、捨てるよりも難しいのに。
「お、ねぇちゃん」
ロスの真っ赤な目から、透明な涙が流れて地面に落ちる。白い髪は汗でうっすら肌に張り付いている。自分とは違う、まるで違うものを持っている少年ともう一度、違う場所で出会えたなら。
「待ってるから。いつまでも」
――もう一度。
「絶対、会いに来て」
――笑ってるところが見たい。
ロスは静かに頷いて、私の手を離した。私は前を向いた。耳を澄まさなくても、声がはっきり聞こえる。体の感覚はどこか遠い。
本当に、限界だった。意識はほとんどぼんやりとしたもので、気付いたら川の目の前まで来ていた。川の流れは近くで見ると、思いのほか激しかった。声は途切れ途切れになっていて、聞き取る事は出来なくなっていた。
ザアザアと流れている川の中にぼんやりと、馴染みのある公園と倒れた自転車が見えた。空からみているような風景で、素直に馴染めない。そこに横たわる自分の姿が写っているから、余計かもしれない。
――信じよう。
後ろを振り向く。私の視線に気付いたロスが一瞬顔をしかめたような気がした。何かを言いたかった。言葉は出なかったけれど。口を開けるのと、ロスが走り出すのは同時だった。
私は後ろへと強い力に引っ張られた。力の入らない体は、簡単に倒れた。やけにはっきりと水の音がした。ロスの姿はすぐに見えなくなった。
ゴーと言う激しい音が耳元でして、視界はもやがかかってみたいにぼやけていた。不思議とどこも痛くなかった。
最後にロスが笑ったように見えた。初めて会った時のような、天使の笑顔なんかじゃなくて。苦々しくて、半分は泣いているような、笑顔といえるのかわからないぐらいの表情。
笑っていてほしいと思う、私の願望が見えていただけかもしれない。それでも、ロスは笑っていたと思う。
川は静かに消えた。ベタンと地面に手がつく。真衣に触れる事は出来なかった。ロスはぼたぼたと溢れては落ちていく涙の意味も考えなかった。
――帰らなきゃ。
ただ、それだけ。ロスは膝に力を入れて立ち上がった。砂に汚れた手で顔を拭う。じゃりじゃりとして、痛かった。それでも、歩き出した。
――待ってて、くれるなら……帰りたい。
真衣のいる世界に。もしも望む場所に行けなくても、他の誰も望んでなくても。一人でも待っててくれるなら、帰りたい。
――妹も、待ってるって言った。
自分はもうほとんど覚えてない妹に、真衣は会ったという。すぐに帰ったと聞いて、安心したのに、すぐに寂しく思った。
会いたかった。でも、会いたくなかった。もし、向こうが自分を覚えてなかったら、そう考えるだけで手が震えた。唯一の、頼りだった。慕ってくれる自分よりも小さな手が。
ロスは走り出した。川へ飛び込んだときに擦った膝から、血が出ている気がした。それでも、走った。一つだけ、思い当たる場所があった。結局真衣には何も言えなかったけれど。
不意に鼻をつく香りがした。空が微かに曇っているのが見えた。それは雲なんかじゃなくて、煙だった。前方に見える煙突から、煙が出ていた。
「なん、で」
今まで、一度だってなかったことだ。どれだけ、近づきたくないと思っていても、視線は自然とそっちを向いた。毎日、その家を見ては、目を伏せた。
誰もいない、静かで、冷たい家だった。それも、少しずつ忘れていった。もう、家族のことはほとんど思い出せない。
思い出なんて何もない家なのに、どうしてか知っているような気がした。流れてくる香りはどこか懐かしいような感じがした。真衣を置いて川の様子を見に行ったあの日、かいだような気が少しだけした、匂い。薪を燃やす、暖炉の匂い。
真衣はすぐに帰ってしまうだろう。そんな予感がしていた。もうほとんど覚えていないけれど、前に来た人もそうだったから。彼女達には、帰る場所があって、帰る意思があるから。
――僕とは……違う。
嫌な事はほとんど忘れた。それでも、嫌いな見た目だけはどうしても変わらなかった。
目の前の川は穏やかに流れ、彼女の現実の姿を映していた。白い、病室のベッドで眠る彼女の姿は、綺麗で壊れてしまいそうだった。
――もって……あと二日。
それ以上はここにいられないだろう。真衣の怪我の加減からそこまで長く寝込む事はなさそうだ。現実に意識が引っ張られるにつれ、彼女はここから遠のいていくだろう。
――また……一人か。
どれだけの時間が経ったのか、全くわからなくなっていた。今自分がいくつなのかも、ここに来てどれだけ経ったのかもわからない。ただ一つ。
――僕も、そろそろ。
終わり来るような予感がしていた。この生活も、一人きりの世界も、もうすぐ壊れる気がしていた。限界が近いのは自分もきっと同じだろう。
踵を返し、家へ戻ろうとすると、ふと何かが匂った。それはすぐに消えてしまって、なんだったか思い出す事は出来なかったけれど。懐かしいような、香ばしい匂いだった気がした。
ロスは思い切り走り出した。嫌な痛みがして、足ががくがくしても、もがくように走った。たどり着いたログハウスは、煙突から煙を出し続けていた。疲れでもう一歩も動ける気がしなかった。
ロスは玄関前の階段に腰をかけると、そのまま後ろへ倒れこんだ。息を整えようとしても、出るのは咳ばかりだった。喉の奥を突かれるような痛みには、ずいぶん苦しめられたような気がする。
――前にも……こんな痛いの、あったかも?
喉がひりひりして、咳が止まっても全然楽じゃない。ずっと痛いままで、嫌な思いをしたような気がする。少しだけ、思い出せそうな記憶に浸っていたいような、ただ休みたいだけのような気分で、そのまま目を閉じた。
暫くして、そっと誰かに頭を撫でられたような、そんな気がした。目を開けると木製の天井。抜けるような青い空がその端に見える。じっとりと掻いた汗は乾き始めて、余計に気持ち悪かった。ロスは起き上がった。
「……あれ」
ふと怪我をしていた膝に視線を落とす。数分しか経っていないはずなのに、何事もなかったかのように、傷は消えていた。手で触っても痛みはない。ロスはすっと立ち上がった。
――早く、帰りたい。
それまでは便利だなくらいにしか考えていなかった現象が、唐突に気味の悪い事に感じた。現実ではありえない世界が、今は妙に怖いと思った。
ロスは振り向き、深呼吸を一つすると、ログハウスのドアノブを回した。
家の中は静かだった。見覚えのある風景に、頭痛がした。
――ここを、曲がる。
玄関を上がって、角を曲がる。
――奥が、リビング……階段の上に部屋が三つ。
自然と家の内装が見えてくる。ロスは廊下を進み、リビングへ入る。薪の爆ぜる音が響く暖炉へ、ゆっくりと近づいていく。
――……ここで、なにかが。
あったはずだった。暖炉の前までくると、薪が燃えているのを確認する。心の奥がざわめいて、震えが止まらない。額に掻いた汗を拭うと、暖炉の上に置かれているものに気付く。
それには、一枚の写真が収まっていた。シンプルな木製のフレームの中で、楽しげに微笑む家族。そこに不自然に写りこむ自分。
ロスは言葉なく、それを手に取ると目を伏せた。涙が止まらなかった。
――帰りたい。
いい思い出なんて、無いし。写真も言ってる。『望まれて無い』って。
――それでも、帰る場所なんだ。
ロスは顔をあげた。暖炉の中の薪は燃え尽きていた。写真の中の妹は笑っている。
リビングをあとにして、階段を上がる。一番手前が妹の部屋。隣が両親の部屋。一番奥が、ロスの部屋だった。
都会から引っ越して、田舎に家を建てたのは妹が生まれるよりも前だった。まだ、母が名前を呼んでくれていた頃。アルビノである自分を気遣ってくれていた頃のことだった。
目が光に弱いからサングラスをして、白い髪を隠すように帽子を被っていた。そうするのが当たり前だった。けれど、そうさせたのは紛れもなく母だった。田舎に引越しを決めたのも母だったのだろう。
ロスは写真を机においた。小さいままの勉強机には、使われていた形跡がほとんどない。部屋の電球は切れたままで、明かりは点かない。埃を被っていないのが幸いと言ったところだった。
――誰も……来ない部屋。
病院から帰ってきても結局は一人だった。妹が生まれてからは、ずっとそうだった。母の愛情はすべて、妹へ注がれていった。そして自分は、母の記憶の中から消えた。
『重度の記憶障害です』
精神科の医師が言った。どうにも、一部の記憶だけがぽっかり抜けてしまったらしい。その一部が、自分でよかったと思った。忘れられているなら、諦めがつく、愛されなくても、傷つかない。
そんな、勘違いを起こした。ロスは母と関わらないようにした。それでも、だめだった。母は見掛けるたびにロスを家から追い出した。
――知らない子供が家にいたら誰だってそうする、のかな?
何が普通なのか、ロスはわからない子供になっていた。学校に行っても、友達は出来なかった。見た目のせいだけではなかったのだと思う。
ロスには、苦い思い出しかない家だった。部屋の片隅に置かれたベッドはうっすらと、見逃してしまいそうなほど小さく、波打っていた。
決意が揺らぎそうだった。忘れていた記憶がとたんに蘇ってくる。
『本当に帰りたいのか?』
そう、誰かの声で聞かれているような気がした。
『何もない家に? いい思い出なんてない家に?』
帰ってくるなと、言っているような気がする。でも誰が。
『帰ったって、誰も待ってないぞ。真衣だって、結局出会えるわけもないんだ』
やけになっているような声が、どこか近くから聞こえてくる。青年のような声が、川からやけにはっきり聞こえていた。
ロスはじっと、見覚えのほとんどないベッドを見下ろす。
『お前だって、帰ってきたら忘れるんだ。もう二度と、そっちへは戻れないんだぞ?』
「……別に、覚えていたいわけじゃないよ」
何もないのは、ここも一緒だった。逃げたくなるほど静かで、帰りたくなるほど寂しい場所なのは、ここも一緒だ。
『このまま死んだほうがいくらかマシだよ』
「そんなの、わかんないよ。死んじゃったら終わりだもの」
全てをなげうつような言葉に、ロスは強く返した。言ったとたんに、真衣に顔がちらついた。
ベッドの波に酷くあやふやに、誰かが眠っているのが映っていた。
「マシかなんて、死んじゃったらわからないよ」
青年は黙った。ロスはベッドへ腰をかけた。青年が誰なのか、見当がついた気がした。
「だから、僕は帰るよ。それで本当に何もなかったら、そのとき考えるよ」
弱かった波が徐々にロスを包んでいった。波は激しくなり、体がベッドへと沈んでいく。もう声は聞こえなかった。ただ、波に飲まれていく途中で、女の子の声が少しだけ聞こえた気がした。