三日目
ロスの手料理をバケットに詰め込んで「丘に行きたい」とロスを外へ連れ出した。自転車を出し、またがると嫌そうにしているロスを急かす。
「ロス、ほら行こうよ」
――急がなきゃ。
ロスは先に行ってしまいそうな私に、しぶしぶと言った感じで自転車を出した。ロスが自転車にまたがるのを見て、私は自転車を漕ぎ出した。
川は丘へ行く途中の道を曲がらずにまっすぐ行ったところにある。通り過ぎたログハウスを、ロスは一度も見なかった。丘へ近づき、川があったところを私は目を凝らしてみた。
――……あった!
注意深く見ていると、ゆらゆらと光りを反射するものがある。それは夏の陽炎に似ていて、色はないがはっきりとそこにあった。
「おねぇちゃん?」
道を曲がらずに、進んでいた私はロスの声にはっとする。自転車を止めて後ろを見ると、同じく自転車から降りてこちらを見ているロスがいた。表情はどことなく、悲しそうだ。
「丘は、そっちじゃないよ」
なにかを悟っているような、その上で諦めているような顔だった。幼い頃の弟がそんな顔をしたことがあった。もう、二度と見たくないと思った顔だ。
「ロス……教えて、あそこに行けば、帰れるんだよね?」
あの子が帰ったように、あの川の中に行けば。私はじっとロスを見ていた。うつむいて押し黙るロスに、私は背を向けた。
「ロスにも、待ってる人がいるよね? 私もいるんだよ。ほら……名前、呼んでる」
少し離れた位置でも、耳を澄ますと聞こえてくる。初めて見た時も聞こえたあの声が。
『真衣ちゃん』
未だにちゃん付けで呼ぶ母の声。どこか、切なそうな、元気のない声だった。
『姉貴』
声変わりをし始めた、弟の声。相変わらず、姉貴呼びなんだなと、私は苦笑する。こんなときぐらい、昔みたいに呼んでほしい。
「おねぇちゃん」
振り返ると、ロスは苦しそうに顔をゆがめていた。
「僕には、聞こえないよ……僕には、名前、呼んでくれる人、いないから」
無理して笑おうとしているのがわかって、私は泣きたくなった。
「そんなこと、ないよ」
――そんな顔、しないで。
私は拳を作って、祈った。あの子にちゃんと思いが伝わってくれていることを。けれど、暫くそこにいてもロスを呼ぶ声は聞こえてこなかった。
ロスは、ゆっくり首を振った。
「意味ないよ。おねぇちゃん……『ロス』って、なんだか、わかる?」
泣きそうな顔で言うロスに、私は首を振った。本当は、なんとなくわかっているような気がした。
「そのままだよ。『Loss』損失って意味……ここに来る前のこと、ほとんど忘れちゃった。だからね、僕を呼んでくれる人も、いないんだよ」
「そんなことない。私は会ったよ、ロスのことちゃんと覚えてる人に」
ロスは驚いたように目をはったが、すぐに苦笑した。
「嘘だよ。そんな人いない。ここに居るはずもないよ」
「ううん。居たよ。もう帰っちゃったけど……ねぇ、ロス。私にはロスに何があったのかわからないけど。ちゃんと、待ってる人もいるよ。私が保証する」
優しく、でもはっきりと言うとロスは不安そうな顔をした。
「……ほんと? ほんとに、僕、帰ってもいいの?」
私は、ぐっと手に力を入れた。どうして、こんなに小さな子がそんな事を気にしなきゃいけないんだろう。
「当たり前だよ!」
きっと、ずっと不安だったんだ。帰りたかったはずなんだ。私は力強く言って、川を見た。もうあの声は聞こえない。
「でも、僕は帰れないよ」
川へ向かおうとすると、ロスがはっきりした口調で言った。
「え?」
ロスはもう泣きそうな顔も、苦しそうな顔もしていない。本気で言っているようだった。
「帰りたくないわけじゃなくて……その川は、おねぇちゃんのだから、僕はその川じゃ帰れないんだよ」
私はぽかんと口を開ける。
――帰れ、ない?
ロスは、少女が帰ったように、その人にはその人のための帰る道があり、それが川のように見えているだけで、実際は別の物体としてそこにあるのだと言う。
「それは本人がここに来る前の場所とか、物に関わってるんだけど……僕の場合はそれが思い出せないんだ。だから、今まで川は見つかって無いんだ」
あの子の場合はそれがベッドだった。
「私には……川、にしか見えないけど」
「近づけばわかるんじゃないかな。でも、たぶん近づくと引っ張られると思う」
そう言われて川を見つけた時、無意識に近寄っていたことを思い出す。引っ張られてそのままロスを置いて行ってしまうのはいやだった。
「あの川はおねぇちゃんの帰る道だから、僕はあれじゃ帰れないの……僕の予想も入ってるけど、わかったかな?」
ロスは帰る気になってくれたのか、素直に教えてくれた。表情はどこか晴れ晴れとしているようにも見える。
「なんとなく……じゃ、ロスの川を探しに行こうか」
「おねぇちゃん……大変だと、思うよ?」
「それでもやるよ。妹ちゃんと約束したし、連れて帰るって」
――はっきりと言ったわけではないけど。
私は川から離れ、自転車にまたがった。ロスは少し苦い顔で、私を見上げていた。
「あの子は……ちゃんと、帰れたんだね。あんまり、覚えてないんだけど」
「ロスも、帰ろう。もし、思い出せなくてもさ……作っていけばいいじゃないかな」
ふと、弟のことが頭を過ぎった。妹のことを思うロスの気持ちはきっと、もっと複雑なんだと思う。単純に仲が悪いとか、そういったこととは比べられないのだから。
丘の周り、まだ入った事のなかった民家の中、店の中、街のいたるところを隅々まで回った。それでも、川は見つからなかった。ロスは半ば諦めているのか、困ったような顔を終始していた。
「おねぇちゃん。やっぱり」
「無理じゃない。諦めちゃダメだよ」
心配そうに見つめてくるロスをじっと見つめ返す。もう日は暮れて、見ていないところは数箇所となっていた。夢の世界でも日は落ちる。眠気も疲れもちゃんとする。
「もう、今日はやめようよ」
「……まだ。もう少しだけ、探そうよ」
不安が強いのか、ロスは辛そうに言った。その顔に少し迷うが、私は新しい家へ入って行った。いやな予感がしていたからだ。
――体が辛い。
ロスの川を探し始めてからだろうか、体が重くなっていっているような感覚がしていた。気付くとふらふらと川の方へ足が向く。何かの力に引っ張られているような気がして、私は内心焦っていた。
「おねぇちゃん、顔色悪いよ? 今日は休もうよ」
ロスが後ろからパタパタと音を立てて駆け寄ってくる。
――ああ……だめだなぁ、私って。
どうして、うまくやれないのだろう。ロスに心配をかけてしまう。気を使わせたくないのに、自分の事だけ考えてほしいのに。
――自分だけ、帰れないかも知れないのに。
不安でいっぱいのはずなのに、ロスは私の心配をしてくれている。それが今はただ、情け無いと思った。
「ごめんね」
ただそれだけしか言えなかった。じわりと、汗と共に涙が溢れた。
頑張っても、頑張ってもうまく出来ないことがあった。嘘をつくことだった。人を傷つけたり、騙したりするつもりはないけれど、うまく出来ないことで傷つけることもたくさんあった。
きっと気付いてしまったら、傷つけてしまうだろう。それがわかるから、ごまかそうとする。頑張って、頑張って、ばれないようにしてるのに。
――うまくいかない。
すぐにばれてしまう。仲が良ければ良いほど、大切な分だけ、守りたいと思うのに、その分まで嘘は難しくなった。結局は嘘をついたことを怒られる。
怒ることは、辛い事だと思う。好きだから、気に入っている相手だから、余計に腹が立つ事だってある。
嘘をつく事が優しさだなんて、そんな身勝手な言い訳は通用しないのだと、ずっと前に気付いていた。気付いていたのに、また傷つけてしまう。
――いつまで続けるんだろう。
癖になっているのか、気付けば嘘をつく。相手を思うふりをして、誰を守っているのだろう。嫌気に頭が痛む。
相手が気付かなければいい、そうすれば平和だ。そんなことを心の片隅から投げつけられる。いつか気付いてしまうことを、先延ばしにすることに意味なんてないと、感づいているのに、口から出るのは嘘ばかり。
人を傷つける嘘を、私はまたついてしまった。弟を傷つけては、自己嫌悪に陥る。その繰り返しを、私は夢の中でもしてしまった。
強い罪悪感に、胸が詰まるようだった。
「帰ろう。おねぇちゃん」
ロスが私の手を引いた。そっと私が歩き出すのを待つ彼が、とてもたくましく見えた。
――男の子って、ずるい。
子供、子供と思っていても、不意をつく強さに恋焦がれる。私はロスの小さな手をぎゅっと握り返した。
ぐっと涙を拭くと、引力に負けそうな体に精一杯の力を入れて踏み出す。ロスの隣を歩いて、ピンクの家へ帰る。もしも、こうやって同じ場所に帰れたなら、笑っているロスを見届けられたなら、幸せなのに。
私はきゅうと、胸が締め付けられるような感覚に首を傾げた。
いつもと同じ帰り道。私はいつもの公園で弟と遊んでいた。弟は引っ込み思案で、友達が出来にくかった。いじめられて無いか、小学六年になった頃はそんな心配をしていた。
「ねぇ、歩。友達できた?」
なるべく優しい口調でそう聞くと、砂に絵を書いていた弟の肩が跳ねた。
――やっぱり。
弟の友達と言えば数えるほどしかいなかった。どの子も大人しくていい子だとは思うが、もっといっぱい友達を作って欲しかった。自分が大勢の方が楽しいと思っているのもあるが、相談できる子がいて欲しいと思っていた。
「……別にいいもん。友達、いるし」
「またそんな事言って! 歩いっつも一人でいるし……ねぇちゃん心配だよ」
家で一人で本を読んでいる事の多い弟が、私には不思議でならなかった。
――一人で本なんか読んで楽しいのかな。
「次の日曜、運動会でしょ? 歩、練習できてる? ねぇちゃんが見てあげよっか?」
運動嫌いの弟は運動会の前に必ず渋る。保育園のときからそうだ。鉄棒から飛び降り、身を乗り出して言うと歩はいきなり振り返った。
「ねぇちゃんとは違うんだよ! 僕は……運動苦手だし、勉強できないもん! ねぇちゃんみたいに友達、いっぱい、いないし。僕、もうねぇちゃんと比べられるのヤダ!」
そういうと弟はさっきまで描いていた砂の絵を踏んで公園から飛び出して行った。私はその場でぽかんと突っ立っていた。
弟の怒る顔を、怒鳴る声を始めて聞いた気がした。嫌がる時も大声を出す事はなくて、どちらかと言うとすぐに泣き出すほうだったから。
――歩が……怒った。
――ロスタイム四日目――
私はやけに体が重いなぁと思った。夢に見たあの時の気持ちと同じくらいに。大好きな弟に怒られた、怒らせてしまった。そのことが頭の中にいっぱいで、私はその場で泣いたと思う。もうだいぶ前のことで記憶は曖昧だけど、どれだけショックだったかははっきりと覚えている。
しばらくしてから家に帰ると、歩が泣きじゃくりながら謝ってくれた。帰りが遅くなったことは怒られたけど、母は笑っていた。なぜか母は私たちのケンカを喜んだ。
『たまにはケンカも必要なのよ』
いくら聞いても、母はそれだけしか答えなかった。歩はそれから少しずつ、私から離れて行った。友達を作って、離れて行ったのだから、喜ばなくてはいけないはずだった。
――寂しかった。
だから、自分も友達と過ごす時間を増やした。家に一人でいることのないように。別に一人でいること自体は、悲しい事ではないんだと、最近は思うようになったけれど。
――いつも、歩がいたから、慣れなかったなぁ。
私はふと、瞼を上げた。弟を思うのに近い感覚で、ロスの事を思い出した。
目を開けると辺りはもう明るくて、いつもならもう起きている時間のようだった。私は手を動かして気がつく。
視界に入った手は、じっとりと汗をかいていた。顔を触ると同じように汗をかいている。昨日はそんなに寝苦しい夜ではなかった。
――なんだろ……頭が、ぐらぐらする。
体が重く、起き上がるのが少し辛い。昨日のような引力はなかったが、どこか覚束ない、不思議な感覚がする。私は深呼吸をしてベッドを降りた。