二日目
髪を整えて、身支度を終えて、いくら待ってもロスは現れなかった。家中を探して、部屋まで覗いたけれど、ロスの姿はなかった。徐々に不安が膨れていく。
――どうしよう……探しに行ったほうがいいのかな?
私は椅子から立ち上がって、もう一度部屋を見わたした。
この家には時計がなかった。正確な時間は分からないが、ロスを待ち始めてからもう数十分は経っただろうか。
「ちょっと……近場だけでも探そうかな?」
私は適当な紙に書き置きだけして、外へ出た。外は明るく、辺りには店が並ぶ。少し歩いて中を覗くも、それらのどこにもロスは居なかった。
「どこいったんだろ?」
私は困って空を見上げた。視界の端に、煙が見えた。
丘の上から上がっているらしい煙を見て、私は走り出した。
徐々に家が見えてくる。ログハウスのような木造の家は、屋根から煙突が飛び出ていた。煙突からは煙。玄関前には数段の階段と、ウッドデッキ。――暖炉、かな?
火事ではなさそうだでほっとする。
私は都会から引っ越してきた人が、こんな家を畑の真ん中に建てたのを思い出した。畑ばかりの田舎町にはオシャレすぎたのか、周りから浮いていたのを覚えていた。
ゆっくりと階段を上がると、表札を見る。文字はない。
――大きい家……ロス、いるかな?
人気の無い家を見上げる。期待半分、諦め半分と言ったぐらいの気持ちだった。私は中を覗こうとドアノブをまわした。
「すみません……ロスー?」
中は外装と同じように、木目調で揃えられていた。廊下は静まり返り、やはり誰もいないようだ。
どうしようかと、ため息を吐く。
――カタン。
ドアを閉めようとしていた手が止まる。物が落ちるような、微かな音に、私は中へと引き返して、辺りを探るように見た。
玄関から上がり、廊下を曲がる。朝日の差さない、うっすらとした暗がりの中で、目を凝らす。突き当りにはドアがあり、その手前には階段がある。突き当たりのドアが少しだけ、開いていた。
「ロス?」
私は静かに廊下を歩き、ドアノブを引いた。
中は薄暗く、パチパチと薪の爆ぜる音だけが響いていた。レンガ造りの暖炉と、ゆらゆらと揺れるロッキングチェア。キッチンとダイニングテーブル。少女が一人。
――ロス、じゃない。
肩にかかる長い黒髪に、ピンク色のパジャマ。少女は暖炉の方を向いたまま動かない。私はドキドキしている胸を押さえながら、そっと中へ入る。
「あの」
どう声をかけようかと悩みながらも、少女の背にあわせてしゃがんだ。声をかけられた少女は、肩を震わせると勢いよく振り返った。黒の瞳と、薄いピンクの唇。可愛らしい印象を持たせる少女は、驚いたような顔をしていた。
「おねぇちゃん、誰?」
少女の表情が、悲しそうに、興味なさげなものに変わった。背は低いものの、声や仕草は、大人に近づきつつある年頃のものだった。少女は弟と同じくらいの歳だろう。私は少女の手にあるものに、視線が行った。
「真衣だよ……それは?」
それと、指差すと少女はゆっくり視線を落とした。木製のフレームに収まる、一枚の写真。少女はゆっくりと口を開いた。耳元でドクドクと鼓動が鳴っていた。
「お兄ちゃんと、パパと、ママ」
頭痛がしてきた。私はもう一度、写真を覗きこんだ。遊園地を背景に取られた、普通の家族写真。そこには、若い夫婦と、母親に抱かれる女の子。
「これが、あなた?」
私は写真の女の子を指差して聞く。少女は小さく頷いた。
「ずっと、前の頃の写真」
確かに、写真の中の少女は、精々二、三歳といったところだ。面影があったからわかったが、十年近く前の写真になるはずだ。私は、その写真のひっかかりをじっと見つめていた。少女と視線が合うと、少女はゆっくり口を開いた。
「お兄ちゃん、もうずっと寝てるんだよ」
少女は私を見て言った。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「起きれないんだって……パパが言ってたの。このままだと、死んじゃうんだって」
唐突に少女の顔が涙で濡れる。写真に涙が一滴、落ちる。
「ママに、お兄ちゃんの事話しちゃいけないんだって、パパも言うんだよ。……もう、会えないのかな」
少女は目をこすって、黙ってしまった。私は震える拳をぎゅっと握った。
「お兄ちゃんに、会いたい?」
少女は手をどけて、私を見ると、小さく頷いた。
「お兄ちゃんも、会いたがってると思う。きっと、今必死になって頑張ってるから……お兄ちゃんの傍に居てあげて?」
手を優しく握ると、少女は頷いた。私は手を伸ばして、少女の頭を優しく撫でた。
――絶対、一緒に帰るから。
ぐっと、歯を食いしばる。
写真の片隅に、遠慮がちに写っている少年は、目深に帽子を被り、濃い色のサングラスをしていた。白い髪と、赤い目を見せないように。幸せそうな、妹の姿を横目に眺めながら、寂しそうな顔で写真に写りこんでいた。
泣きつかれたのか、少女は「帰らなきゃ」とだけ言って階段を上がっていった。慣れた足取りで行き着いた部屋のドアノブを回し、ベッドへと潜り込んでいく。薄暗い部屋の中で、私は目を見張った。
ベッドは少女を飲み込むように、波打つ川となった。言葉を失う私を横目に、少女は慣れた様子で波に身を任せていた。
「バイバイ……お兄ちゃんを、よろしくね」
少女はそのまま消えた。静かにベッドは元の形に戻った。ピンクのシーツの上には、熊のぬいぐるみだけが横たわっていた。ベッドを触っても、別格変わった所はなかった。
「……大丈夫。ロスは、連れて帰るから」
私は静かに家を出た。
家に帰ると玄関の前に、蹲る人影が一つ。ロスが膝を抱えて小さく丸まって、地べたに座っていた。顔を伏せて、じっと動かない。
「ロス!」
私は早足で駆け寄った。ロスはバッと顔を上げると、安心したように息を吐いた。
「ごめんね、行き違っちゃったみたい」
傍まで駆け寄ると、ロスは立ち上がって弱弱しい声を出した。
「ううん。僕が何も言わずに出ていっちゃったのがいけないから」
「ロス……ところで、どこに行ってたの?」
気を使われているな、と苦笑する。ロスは今にも泣き出しそうな顔をしている。私が首をかしげて聞くと「ちょっと買い物」とだけ答えた。
「帰ってきたらおねぇちゃんが居なかったから。僕を捜しにってどこに行ってたの?」
玄関を開けて、中に入るとロスが質問を返してきた。書置きをしていたメモが、ロスの手の中でくしゃくしゃになっていた。
「えっと……起きたらロスが居なかったから、街を探してたんだけど」
簡単にどこを歩いたか説明する。
「ログハウスにいったんだけど、そこで女の子と会ったんだ」
どこまで言おうかと、私は内心ドキドキする。ロスは彼女の事を知っているのだろうか。
「へぇ……珍しいなぁ。ここには人が来ないのに」
「そう、言ってたね。でも、先に帰っちゃったよ?」
少女はどこかおぼろげで、ロスがここにいることを知っているような感じではなかった。
――そういえば、あの子はどうしてここに来たんだろ?
ロスもそうだけど、いったいどうやってここに来たんだろうか。私の場合と似てるのかと、考えると寒気がした。
――あの子も危ない目に遭ったわけじゃないよね?
「ふーん……あ、今日はたっくさん、遊んでね!」
私の心配をよそに、つまらなさそうに返したロスは、思い出したかのように、おもちゃ箱を抱えて駆け寄ってきた。
「うん……そのまえに、ご飯いいかな?」
――ぐぅぅ~
無邪気な笑顔に、微笑む私の腹部で、情け無い音が鳴った。
――ロスタイム三日目――
『――き――――姉貴!』
――ドサッ!
重い音と、鈍い痛みに私は目が覚めた。やけに近い地面は、茶色でも灰色でも赤でもなく、柔らかなベージュの絨毯だった。
「い……たい」
私はベッドからすべり落ちたのか、脇の床に横たわっていた。打ち付けた肩がジンジンと痛んだ。体を起こすと窓から差し込む光りが眩しかった。
――あれ、呼ばれた?
何か夢を見ていたような気がする。けど、何も思い出せない。
「結局、寝ちゃったなぁ」
私は話をしなきゃと思っていたのに、ロスに流されてしまったのを思い出す。昨日は遊びつかれて二人とも寝てしまった。
「情け無いなぁ」
私は頭を掻いて、立ち上がった。もし、ロスたちが危ない目に遭ってここに来たなら、出来るだけ思い出させたくないと思った。それが胸につかえて、ロスに少女の事を切り出す事が出来なかった。
――人の事言ってる場合じゃないけど……帰らなきゃなぁ。
少女と約束したからでもあるが、ロスをこのままにしておけないという気持ちが大きかった。どうしても、一緒に帰りたいと思う。漠然と、帰らなきゃ、連れて帰らなきゃと思ってはいるけど、方法がまったく分からない。
――あの子が帰ったみたいに……川? あれ?
ベッドが川のように波打っていた光景を思い出した私は、一箇所ここに来てから川を見ていることに気がついた。
「おはよう! ロス」
「お、はよう……おねぇちゃん」
階段を降りて元気に言うと、ロスは眠そうな目をこすっていた。私は洗面台に向かい、盛大に噴き出した。
「今日も、ふあぁ……酷い、寝癖だね」
後ろから半分眠っているような声で、ロスが言ったように酷い寝癖だった。
――相変わらず爆発してる。
寝る前に髪を乾かしているのに、セミロングの髪は縦横無尽に跳ねまくり、表現できない形になっている。毎朝がこの髪を直すところから始まる。とてもめげそうだ。
――結わいちゃおうかな。いっそ、短くしてそのままで……天パ?
私は櫛を持ちながら、ぐるぐると解決策を考えたが、諦める方が早い気がしてきた。私はぺたぺたと音を鳴らして歩いて来たロスを盗み見る。白い髪は短く切りそろえられ、まっすぐに下へと落ちている。
――う、らやましいくらいに……ストレートだ。
寝起きなのに、ほとんど跳ねがない。ロスは小さい手で小さな櫛を取り、まっすぐな髪をさらに梳く。白いウサギの櫛が愛らしい顔でこちらを見ていた。
「ん? どうしたの?」
目を開けたロスが視線に気付いて顔を上げた。私はドキッとして身を引く。
「う、ううん。なんでもないよ」
そこまで気にならなかったのか、ロスは再び髪を梳かし始めた。まだ眠そうに船を漕いでいる横顔がとても愛らしい。
私は髪を適当に直して、顔を洗うと私はリビングへ移動した。部屋に飾られているものをよく見る。
丸い鏡、壁掛けの絵、小瓶、水差し、オシャレな小物がそろっている。
ただ、この家には写真だけがなかった。昨日ロスに内緒でこっそり覗いて回ったが、なにかをモチーフにした絵はあっても、写真だけは一枚もなかった。風景も、小物も、人の写真も、何もない。
――あの写真もない。
遠慮がちに写る、家族写真。
――あの川に、ロスも連れて行ってみよう。
私は一昨日みたあの川が、ヒントかも知れないと意気込む。ロスの事も心配だが、自分自身にもあまり余裕がないような気がしていた。
――ここが夢の中だとしてもう、三日。事故に遭ってから眠ってることになるよね?
私は、病室のベッドで丸三日眠り続けているイメージをする。やけに鮮明に想像が出来てしまって、冷や汗が出るようだった。ロスの後姿をじっとみる。
――私より長く居るなら……ロスはいったいどうやって、ここに来たの?