一日目
「おねぇちゃんは自転車って持ってる?」
ロスが出してくれた軽食を食べ終わり、「街を案内するね」玄関の前でくるりと回ると、ロスが唐突に聞いてきた。私は首を傾げた。
「持ってるけど、どうして?」
少なくとも、今ここにはない。無事な形かも分からない。私が不思議に思っていると、ロスは片手を前へ突き出した。
「見ててね」
それだけ言うと、ロスは目を閉じた。何をするつもりなのかと、目を凝らしていると。
――ぽん!
軽快な音を立てて、もわもわとロスの突き出した手の先の地面から煙が立った。
「な、何?」
煙はすぐに晴れ、そこには一台の自転車があった。私は両目を擦った。
「これが僕の自転車。おねぇちゃんもやってみて」
ロスは黄色の小さな自転車を楽しげに撫でた。
「やってみてって……どうやるの?」
突拍子もない要求に私はパニックを起こしそうだった。ロスはニコニコと笑って言う。
「えっとね、出したい物を想像してみて。で、出てくるように願うの。ここに出て来い! ってね」
ロスの簡単な説明に戸惑いつつも、私は片手を前に出し、ここに来るまで乗っていた自転車を思い起こす。
高校に入るときに買って貰ったピンクの自転車。サドルは皮で出来ていて、かごは少し小さめ。
――で、出てこーい?
私は自転車を思い浮かべ、それが目の前に現れるところをイメージする。
――ぽん!
ぎゅっと目を閉じていた私は、軽快な音に目を開けた。先ほどと同じようにもわもわと煙が上がり、それが消えるとそこには自転車があった。
「で、出来た?」
「うん。よく出来たねー」
呆然となる私の目の前には、お気に入りの綺麗なままな自転車。ロスは私の自転車を「可愛い」と言って眺めている。
――本当に出た……現実でもこのままなのかな。
私は驚くと同時に、不思議に思う。自転車は本当に無事だったのだろうか、自分は本当に無事なのか、急激に不安が押し寄せてくる。固まって考え込んでいると、ロスが「どうしたの?」と声をかけてきた。
「う、ううん。本当に出来たから、びっくりして」
私は心配そうに見上げてくるロスに首を振った。私は内心不安でたまらなかったが、ロスに言っても仕方が無いような気がしてごまかした。
ロスはそっと微笑むと、自分の自転車にまたがった。
「さ、行こう。案内してあげる」
自転車を漕ぎ出したロスに続いて、私も自転車に乗った。ロスを追って自転車を漕ぐと、驚くほどペダルが軽かった。ハンドルをきっていないのに、角を曲がったロスの後ろをついて曲がる。
本当に夢なんだと、私はこの時ようやく実感した。
街並みを見ると、服屋、家具屋、本屋、民家、畑、並木道、が揃っていて私が住む田舎町よりも栄えているかも知れない。
ただ、道もカラフルで、隙間を縫うように無秩序に建てられた街並みはごちゃごちゃとしている。ロスは簡単な説明をしながら街を案内してくれた。
通れそうにない民家の隙間を行こうとするロスに注意すると「大丈夫だよ」とのんきな声が返ってきた。その言葉の通り、自転車は壁にぶつかる事もなく、隙間をするすると進んでいった。私はロスの話を聞きながら、ただペダルを漕ぐだけでよかった。
「おねぇちゃん。そろそろ休憩しようか?」
数十分はした頃、突然前を行っていたロスが振り返った。
「わ、あ、危ないよ! 前見て!」
私はとっさにロスを叱った。ロスは少し拗ねたように「平気なのに」と言ったが、前を向いてくれた。私はほっと一息つくと、辺りを見わたした。
並ぶ家々は、日本家屋もあれば、洋風の家も多くあった。ただ、その多くがどこかしら歪な形をしていた。色もにごりはなく、原色のままが多い。
――目が、ちかちかするなぁ。
私は瞬きをした。明るい色ばかり見ていると目の奥が痛む。
「おねぇちゃん、あそこで休もうか」
ロスはオレンジの道がまっすぐに伸びた先の丘を指差した。
「うん。わかった」
自転車を漕いだまま答えると、ロスはそのオレンジの道へ曲がった。後に着いて行き、坂を上ると視界に街並みが広がり、カラフルな屋根の先に、ピンクの屋根が見えた。ロスの家だ。いつの間にか街並みを抜けて上がってきていたらしい。周りに家はなく、草原が広がっていた。
「ここからなら綺麗に街並みが見えるでしょ?」
ロスは自転車を止めると言った。街よりも少し高い位置にあるのか、通って来た細い道も、歪だけどカラフルな屋根もよく見えた。自転車で通って来たときよりも、街は小さく見え、ロスの家がその中心にあるのがよくわかる。
「僕ね、ここが好きなんだ……ここに来ると、本当に一人なんだって、わかるから」
私はロスの悲しげな言葉にはっとする。
「ここには私とロスしかいないの?」
――ここに来るまで誰とも会わなかった。
私は首を傾げた。ロスを見ると、悲しそうな顔をしていた。独りぼっちを嘆いているように見えて、私はドキリとした。
「うん……前は、他の人も居たんだけどね」
どこか遠くを見るような目で、ロスは呟くように言った。その表情がどこか大人のように見え、私は驚いて身を引いた。驚いていた頭にふと、疑問が浮かんだ。
「その人達はどうやって、帰ったの?」
ロスは帰り方を知らないと言ったけれど、前に来た人達はどうしたんだろう。
「さぁ? 僕帰るところ見てなくて気付いたら、いなくなってたから」
ロスは俯きがちに目を伏せたまま答えた。どうしてか、置いていかれたと、告げられたような気がした。ロスの表情や言葉につれるように、私も少し寂しいような気分になっていた。
「そろそろ、帰らなきゃね」
ロスがぽつりと言った。私はつられて街を見た。来たときは真上にあった太陽が沈みだしていた。夕暮れはここにもあるんだと思うと、少し物悲しくなる。
――一日の終わりって感じがして……ちょっと寂しいなぁ。
一日の充実感よりも、今日が終わってしまった事の寂しさが募る。
「おねぇちゃん。帰ろうか」
地面に座っていたロスが立ち上がって言った。私は頷くと、自転車にまたがった。
オレンジ色の道を抜けて、来た道を戻ろうと角に差し掛かる。
『――ちゃん!』
「え?」
私は足を出して、自転車を止めた。どこかで聞いたような、耳慣れた声が聞こえた気がした。私は丘からの帰り道とは逆の道を見た。来る時はなんとも思わなかったが、道はコンクリートのようなグレーだった。道までもがカラフルなこの街では始めてみた色だった。その先に、キラキラと光を反射させ輝く川が見える。
「おねぇちゃん!」
ロスの声にはっとして振り返ると、私はいつの間にか川へと引き寄せられるように歩いていたらしい。私の自転車は曲がり角に置きっぱなしになっていた。ロスも自転車から降り、険しい顔でこちらへ走ってきた。
「……帰ろう」
ロスは私の手をぎゅっと握って言った。私はどこか寂しそうで、不安そうな顔をしているロスの手を振り払えなかった。ロスに手を引かれて自転車の元まで戻る。
その場を去る前に、私はもう一度だけ川を振り返った。本当は気になって仕方なかった。じっと見るとゆらゆらとした流れの川は、静かに消えて行った。私は首を捻る。知っている誰かに呼ばれた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
濃紺のセーラー服は中学の頃のそれと大して変わらなかった。変わったことと言えば、赤いスカーフがリボン結びになり、面倒になったことくらいだ。
「真衣ー? 早くしなさいよー」
階段の下から母の声が聞こえる。真衣は今日から新学年になり、来年には受験が控えている。春休み明けの気だるさが残る朝だった。
「はーい。……難しいなぁ」
真衣はうまく結べないリボンをいじり、鏡を睨んだ。丸一年で大分慣れたとは思うが、不器用な真衣はリボン結びに今も苦戦していた。
――コンコン!
ノックの音が響いてすぐにドアが乱雑に開かれた。真衣は振り返り、あ、と小さくこぼした。返事も待たずに開けられた扉に寄りかかり、面倒そうに言われた。
「おせーよ、姉貴。飯にできねーだろ」
真新しい学生服に身を包んだ、四つ下の弟が不機嫌そうな顔で立っていた。弟は、真衣が卒業した中学に今日入学する。一年前まで毎日のように見えていた学ランを、弟が着ているのはなんだか不思議な感じがした。
「先に食べてれば」
「……あっそ」
むっとした真衣がそっぽを向いて返すと、弟の歩はどたどたと音を立てて階段を下りていった。
中学に上がる少し前から弟とはこんな感じで、昔のような仲良し兄弟とは言えなくなった。弟を可愛がっていた真衣としては、反抗期が酷く恨めしい。
「背も伸びたし、声も変わったし……ホルモンめ」
――私の可愛い弟を返せ!
真衣は適当にスカーフを結び、カバンを掴んだ。
「母さん! 姉貴は飯いらねーって」
開けっ放しの扉から階段の下の会話が聞こえてきた。
「え、ちょっと!?」
――ロスタイム二日目――
「食べるって!」
ふかふかと弾むベッドのカバーは、見慣れたピンク色と似ていた。けど、どこかおかしく思えて、私は上品なピンクの壁紙を食い入るように見つめた。
「ゆ、め?」
私は辺りを見わたした。
薄ピンクでまとめられた部屋には自分が座っているベッドと小さな机しかない。物の溢れる自室とは程遠い、シンプルな部屋だ。
――何してたんだっけ?
私は寝癖の付いた髪を手で直しながら思い出そうとする。
――たしか、よく分からないところに来ちゃって? それで。
「あ……帰らなきゃ」
言った瞬間にどうやって帰るのかわからないことを思い出し、私はガシガシと頭を掻いた。
ぼーとしたまま、ベッドを降りて着替えた。ピンクのパジャマを脱いで、クローゼットから適当な服を取った。
白いフリルのシャツと、ピンクのチェック柄のスカート。肌寒さを感じて、ベージュのカーディガンも羽織った。
――つくづく可愛いなぁ……ロスの家。
家も、物も、ピンクやパステル調の色で可愛らしい。囲まれて生活するロスは、それがとても似合っていて、なおさら可愛く見える。
私は部屋を出て、階段を下りていく。パタパタとスリッパが鳴る。階段の下はすぐにリビングになっている。なのに人の気配がしない。
――ロス居ないのかな?
私は不思議に思いながらもリビングを抜け、洗面台へ向かった。
「うわぁ」
鏡に写った私の頭部は、ネコの耳のような寝癖がついていた。
――我ながら酷い。
どんな寝方をすれば、そんな事になるのか。自分でも不思議だ。私は髪を直してからロスを探そうと決意して、ブラシを取った。