第92話 私達の生きる道
「落ち着いたか?」
「……ちょっとは」
口を尖らせて、紅茶を飲むキャサリンは、耳まで真っ赤だ。びしょびしょに濡れ、ドロドロに汚れた彼女を、屋敷の風呂場――離れではない――へ突っ込み、「自分で洗え」と放置して暫く……。
小綺麗になったキャサリンにリズが服を用立てて、リタが温かい紅茶を入れたのがついさっきの話だ。
降りしきる雨の中、ドロドロの女が何かを叫びながら駆けてきた、かと思えばひっくり返って泣きじゃくる始末だ。ご近所迷惑と、リズの強い要望に負けて家に引き入れた訳だが……
「それ飲んだら、さっさと帰れよ」
吐き捨てるランディに、「わ、分かってるわよ」とキャサリンが口を尖らせた。
「ランディは、キャサリン様がお嫌いですか?」
苦笑いのリズに、「嫌いっつーか……」とランディが顔をしかめた。
「関わりたくねーだけだ」
大きくため息をついたランディが、「混ざっちまうからな」と二人から視線を逸らした。
「白と黒。敵と味方。人間同士なんだ。関わっちまえば、綺麗に分ける方が難しくなるだろ。
感情も人間関係も、空模様みたくグラデーションだ。完全に白と黒に分ける方が難しい。黒だと思ってる相手の方が、ぶっ殺す時に楽だからな」
「あ、アンタ……アタシを殺すつもりなの?」
「お前がリズに危害を加えるなら、な」
言葉とは裏腹に、ランディの瞳には感情の揺らぎが見える。恨みでも怒りでもない揺らぎから、キャサリンが申し訳なさそうに視線を逸らした。
暫し流れる沈黙に、リズが「グラデーション……ですか」と呟き、納得したように頷いた。自分がキャサリンを助けた事、恨みきれなかった事に自分なりの答が出たようだ。
「キャサリン様、今日はなぜここまで?」
自分の中で折り合いがついたリズが、キャサリンにここまできた理由を訪ねた。
「……接触禁止令が出たの」
ポツポツと話しだしたキャサリンが言うには、王太子暗殺未遂容疑の結果、キャサリンには王太子エドガーへの接触禁止令が出されたのだという。もちろんエドガーだけでなく、ダリオやアーサーと言った彼の取り巻きへの接触もである。
「アタシの……アタシの逆ハーが……」
肩を落としたキャサリンが、眉を吊り上げてリズを睨みつけた。
「アンタが七不思議なんか調査しなければ――」
また涙を浮かべるキャサリンに、リズが大きなため息を返した。
「七不思議を調べたのも、それを決めたのも、キャサリン様では?」
ぐうの音もでない正論に、キャサリンが逃げるように顔を背けた。
「それに、私には分かりません。キャサリン様は結局、殿下達とどうなりたかったのですか?」
小首をかしげるリズに、「逆ハーだろ?」とランディは、口から出そうになった言葉を飲み込んだ。この世界には逆ハーなどという言葉はない。いやあるかも知れないが、間違いなくリズには通じないだろう。
別に転生云々を隠しているつもりはないが、間違いなくカミングアウトは今ではない。完全に話が逸れてしまうからだ。
黙ったままのランディの眼の前では、キャサリンがリズに逆ハーを説明中だ。
「それは……破綻する未来しか見えませんが?」
「そんなわけないじゃない。ここはゲームの世界で、私が望めば……」
まだそんな幻想に取り憑かれるキャサリンに、ランディもリズも盛大なため息を返した。
「キャサリン様、ゲームとは遊技盤のことでしょうか? 良く分かりませんが、ここはお伽話でも、大衆小説でも、ましてや遊技盤などではなく現実です」
リズの冷たい一言に、「そ、そんなわけない!」とキャサリンがそれでも食い下がった。恐らく完全に混乱しているのか、それともゲームだという認識が唯一彼女を彼女たらしめる最後の砦なのか。
(恐らく、後者かな……)
ランディには彼女の前世など分からない。だがこの世界に生まれ、間違いなく今の今まで主人公だと思って歩いてきたのだろう。それを簡単に手放せるような、人間の方が稀有かもしれない。
とは言え、そんな事までランディが気を揉む必要はない。
「聖女様よ。悪いがここは現実で、アンタはただケツの青いガキだ」
「が、ガキ……」
「そうだろ? 己のやらかした事の大きさも分からねー。未だに自分の頭の中の、妄想に取り憑かれてる。それをガキだと言わずに何と言う?」
抑揚のないランディの声に、キャサリンが言葉に詰まって黙り込んだ。
「アンタが、遊技盤を指してる気分で下した選択。それがエリザベスを殺したかも。誰かを殺したかも、とは考えなかったのか?」
冷めた瞳のランディに、キャサリンが「それは……」と小さくなって俯いた。
「じゃあ……どうしたら良かったのよ。ゲームの世界に転生して、ゲーム通りに拒絶されて!」
俯くキャサリンの肩が震える。
「やっぱりゲームなんだって……じゃあその役目を果たさないと、自分が不幸になる。死んじゃう。世界が滅びる。そんな確実な未来の重圧に……」
顔を上げたキャサリンの瞳には涙が浮かんでいる。
「ねえ……アンタなら分かるでしょ? 同じ転生者のアンタなら!」
再びリズに詰め寄るキャサリンだが、「すみません」とリズが視線を下げて俯いた。
「何を仰ってるのか……」
「こ、この期に及んでしらばっくれるの?!」
目を見開いたキャサリンに、「本当に、私は何も……」とリズがただ黙って首を振った。
「嘘でしょ? だって美容液とかカメラとか――」
「あ、それは俺だ」
突如として手を上げたランディを振り返ったキャサリンが、「うせ……やろ……?」と唇を震わせた。
「だ、大体アンタ誰よ? さっきから!」
「誰って、ランドルフ・ヴィクトールだが?」
「知ってるけど知らないわよ!」
「どっちだよ……」
ため息混じりのランディが「カメラや美容液は俺発案だ」と肩をすくめて、同じことを繰り返した。
「じゃ、じゃあ……アンタが今までシナリオをぶっ潰して来たの?」
「シナリオ? 何の?」
「だからゲームよ! 乙女ゲー『うせやろ』のシナリオ!」
叫んだキャサリンに、「何だ、そのふざけたゲームのタイトルは……」とランディのため息は止まらない。
だがそれが聞こえていないキャサリンは、今も『うせやろ』の本ルートを、鬼気迫る表情で熱弁中だ。
本来ならエレオノーラに乗っ取られたエリザベスが、公国を滅ぼし、世界を滅ぼす存在になる事を。
「面白い話じゃ……。確かに以前の妾ならやりかねんな」
急にカラカラと笑い出したエリーに、キャサリンがギョッとした表情を浮かべた。
「も、もしかして……」
「お主の言う、禁忌の大魔女エレオノーラ様じゃ」
悪い顔で笑うエリーに、キャサリンが「ヒッ」と顔を背けた。その先にいたのは、憐れみの表情を浮かべるランディだ。
「や、やっぱり。魔女まで味方につけて、アンタがシナリオを壊して回ったんでしょ?! 自分が助かるために! ならアンタもアタシと同じ穴の狢じゃない!」
ランディを睨みつけるキャサリンに、ランディが何度目かのため息を返した。
「悪いが、俺はこの世界がゲームだなんて知らねーよ。『うせやろ』なんて聞いたこともねえ」
「う、嘘よ。じぁ何で……」
「何でも何も……俺はランドルフ・ヴィクトールだ。この世界に生きる一人の人間として、好きに生きてきた。やりたいようにやって、俺はずっとこの人生を楽しんできた。その結果だろ」
呆れ顔のランディが、「そもそも男の俺が、乙女ゲーとか知るか」と鼻を鳴らした。
「嘘よ。ウソウソ……」
壊れた機械のように「嘘だ」と呟き続けるキャサリンだが、現実は残酷だ。
「悪いが全部本当だ」
ランディの言葉に、キャサリンがビクリと肩を跳ねさせた。
「てことは……私はずっと独り相撲をしてただけ……?」
膝をついたキャサリンが、「ははははは」と乾いた笑い声を上げた。自分なりにリズに対抗しようと頑張ってきたアレコレが、単純に全て空回りだったこと、そして今まで歩んできたキャサリンとしての役回りが、全て徒労だった事に気がついたのだ。
「独り相撲の結果、盛大に転がって……。全部失ったの?」
その言葉に答えられる人間はいない。キャサリンの言う全部が、ランディにもリズにも理解が出来ないのだ。まだ生きてる、ならばいいではないか。そう言いたい二人だが、何が大切かはその人にしか分からない。
「主人公でもない……もうゲームの知識も役に立たない……じゃあどうしたら――」
膝をつくキャサリンを前に、エリーが盛大なため息をついた。
「どうしたら良いか、教えてやろう」
ニヤリと笑ったエリーを、キャサリンが涙まじりの呆けた顔で見上げた。
「貴様の言うゲームとやら通りに、妾に殺されればよかろう」
殺気を放つエリーに、思わず「い、いや……」とキャサリンが腰を抜かしたまま後ずさった。
「エリー、駄目ですよ」
そんなエリーを抑え込んだリズが、「すぐ悪ぶるんですから……」とため息交じりに屈み込んで、キャサリンに視線を合わせた。
「キャサリン様……」
「何よ……笑いたきゃ笑いなさいよ。生きる道を失ったくせに、死ぬ事が怖い小物だって」
憎まれ口を叩くキャサリンに、リズが首を振って微笑んだ。
「笑いませんよ。私もそうでしたから」
微笑むリズにキャサリンが「え?」と首を傾げるが、リズはそれ以上何も言わない。いやキャサリンに、あの時の気持ちを、教えるつもりはないのだろう。
侯爵令嬢として、全てを失い死んでも構わない、そう思っていたのに、死の間際に握りしめたあの石の感覚を。
そしてそれに応えるように飛び込んで来てくれた、ランディの勇姿を。
あの時からリズにとって、新しい……いや、自分のための人生が始まったのだ。それをキャサリンに教えるつもりはない。……が、少し自分と似ているキャサリンに、助け舟を出すくらいは出来る。
「転生者、ということは、前世の知識がお有りなんですよね?」
微笑むリズに、キャサリンが訝しげな表情のまま頷いた。
「では、昔のお名前は覚えておいでですか?」
「言いたくない」
「では、ファトゥリナ様とでも――」
「何よその名前」
顔をしかめるキャサリンに、「何となく浮かんできました」とリズがすっとぼけた顔を見せた。
「嘘よ。アンタそれ、古代の魔法言語の愚か者をもじったでしょ?」
ジト目のキャサリンに、「さあ?」とリズが驚きつつも微笑んだ。
「すっとぼけて……」
「なら、ちゃんと教えてもらえます?」
「幸恵。……佐野幸恵。幸恵が名前よ」
小さく呟いた幸恵に、「サチエ様……ですか。素敵なお名前です」とリズがまた微笑んだ。
「サチエ様。貴女はサチエ様ですか? それともキャサリン様ですか?」
「……意味が分かんないんだけど」
口を尖らせそっぽを向いた幸恵の頬を、リズが両手で挟み込んで真っ直ぐ前を向かせた。
「貴女は今まで、貴女が知る、こうあるべきだというキャサリン様を演じてこられたのでしょう? それはサチエ様の意思ですか? それともキャサリン様の意思ですか?」
「……分かんない」
ポツリと呟いた幸恵に、リズがまた微笑んだ。
「ならそれを捨ててはどうです? そしてサチエ様として、キャサリン様として、本当にやりたいことをやればいいのです」
「私の……やりたい、こと?」
呟く幸恵に「はい」とリズが頷いて立ち上がった。
「ここはサチエ様の知っている決められた世界ではなく、現実ですから。……サチエ様が、キャサリン様として生きていくためにやりたいこと。それを突き詰めた時、初めてお二人が一つになって、この世界に受け入れられるのではないでしょうか?」
「無理よ。アタシは聖女だから、魔女を倒すのが――」
「でもその魔女は今、人畜無害の可愛らしい女の子ですよ?」
首を傾げるリズの後ろに、『誰が人畜無害の女の子じゃ!』と叫ぶエリーが見える気がする。
「今回の事で教会と聖女の在り方も、変わるでしょう」
大きく息を吐いたリズが、言うのは、教会による聖女洗脳と言う設定が与える影響だ。
教会、いや教皇と言う一人の意思で、聖女と言う存在が良いように使われていた。つまり、聖女は教会が用意した、都合の良い駒だと言う事が世間に知れ渡ってしまう。
「教会の言う、聖女としての使命に意味がなくなるかもしれません。……そもそも、聖女の使命もこの通り女の子になっちゃいましたし」
苦笑いのリズに「シュークリームを納めときゃ、大人しいしな」とランディが笑った。
「サチエ様、あなたは何がしたい……いえ、どう生きたいですか?」
「どう、生きたい、か……?」
「はい」
天使のような微笑みを見せるリズに、「そ、そんなの分かんないわよ」と幸恵が再び顔を背けた。
「分からなくても良いです。いえ、分からないから良いじゃないですか」
微笑むリズがゆっくりとソファへ腰を下ろした。
「分からなくとも、走ってる内に見えてくる物もあるのではないでしょうか。少なくとも、私はそうでしたから」
大きく息を吐き出したリズは、「最初は何となくでした」と遠くを見つめるように、虚空を見上げた。
「追放されて、全てを無くして……でも運良く拾われて、友人も出来ました」
胸に手を当てるリズが言う友人は、間違いなくエリーの事だろう。
「最初は友人の頼みを聞けば、空っぽの私にも価値があるかも、そう思ったんです」
恥ずかしそうに笑うリズに「空っぽ?」と幸恵が首を傾げた。
「はい。侯爵令嬢だけが、私の拠り所でしたから」
ニコリと笑うリズに、幸恵は罪の意識からかそっと目を逸らした。
「ですが、その何となくが、色々な事に繋がり、大事な事が増え、私は全然空っぽじゃなかった事に気付かされました」
また虚空を見上げたリズが、「本当に、沢山の事が私の中にありました」ともう一度胸に手を置いた。
「アタシは……そんなに――」
「ありますよ。必ず」
真っ直ぐに幸恵を見つめるリズが、「だから立って、歩くべきです」ともう一度微笑んだ。
「少なくとも、古代の魔法言語すら把握している努力は、誇るべきではないでしょうか?」
「そ、そんなの普通じゃない」
「普通ではないですよ。ランディは、全く分かりませんから」
苦笑いのリズに、「現代魔法言語も怪しいからな」とランディが自慢げに胸を張った。
「何なのよ……アンタ達……」
「元侯爵令嬢と」
「貧乏子爵家嫡男だ」
「大魔法使い様もおるがな」
名乗る三人を前に、幸恵が小さく笑った。
「…………アンタ……いいヤツだったのね」
呟いた幸恵が、恥ずかしそうに涙を拭って立ち上がった。
「いいえ。私はいい奴ではないですよ」
首を振ったリズが、笑顔のまま続ける。
「サチエ様にはちゃんと立ち直って貰いませんと。人生の頂点に至ってもらわねば、突き落とせないじゃないですか」
笑顔なのに妙に圧があるリズの顔に、「は? え?」と幸恵がわずかにたじろいだ。
「まさかご自分のしたことが、許されてるとでも?」
「え? いや……それはその……」
モゴモゴと口ごもる幸恵に、「そんなワケ無いじゃないですか」とリズが「フフフ」と微笑んだ。
「私はサチエ様がした事を、生涯忘れません。そしてあなたが人生のピークにたどり着いた時、笑顔で崖の下に叩き落とすのが目標ですから」
満面の笑顔で話すリズだが、それがどこまで本気かなど、この場にいる誰もが分かっている。それがリズなりのエールだと言う事を分かっている。
それならば、それを汲むのがライバルと言うものだろう。
「アンタ……性格悪いわね」
「サチエ様ほどでは」
首を振ったリズに、幸恵が「ハァ」とため息をついて、それでも晴れやかな顔を上げた。
「アンタなんかに負けるワケないじゃない。突き落とされるワケないじゃない。アタシはキャサリン・エヴァンス。アタシこそが主人公で、愛されヒロインなのよ」
胸を張ったキャサリンに、ランディは「お前、リズの言ってたこと分かってんのか?」と盛大に眉を寄せている。
「分かってるわ。アタシがしたいこと、今は分かんないけど……」
両頬を叩いたキャサリンが、リズを真っ直ぐに見つめた。
「今日ここからが、キャサリン・エヴァンスの本当の始まりよ」
「はい」
「見てなさいエリザベス。アンタには絶対負けないから」
「応援してます。キャサリン様。突き落とせるくらい、高い山に登れる事を」
微笑んだリズに、「うっ」とキャサリンが半歩退いて、苦笑いを見せた。
「ま、何にせよ元気になったんなら、さっさと帰れ。一応接触禁止令も出てるからな」
「それはアタシが洗脳されてたって事で、無効だって」
鼻で笑い飛ばしたキャサリンに、「ならもう一度出してもらうか」とランディが大きなため息をついた。
「どういうことよ?」
「そう言う事だ」
ニヤリと笑ったランディが「ハリスン、お客様のお帰りだ」と扉の外で待機していたハリスンへ声をかけた。
ハリスンに連れられ、キャサリンが外に出た時には、先程までの豪雨が嘘だったかのように、綺麗に晴れ渡った夕焼けが空を照らしていた。
小さくなっていくハリスンの馬車を眺めるランディが、「嵐だったな」と大きくため息をついた。
「少しは気が晴れたか?」
「分かりません。感情は、空模様の様にグラデーションですから」
そう言いながらも、微笑んだリズが空を見上げた。
「ランディは……」
「俺はランドルフ・ヴィクトールだよ。もうずっと前から、な」
「そうですね。ランディはランディです」
空を見上げる二人の視界には、一番星が小さく輝いていた。




