第91話 キャサリン〜幸恵とヒロインと〜
キャサリン・エヴァンス。
いや本名、佐野幸恵。若くしてこの世を去った幸恵は、彼女が生前愛したゲームと同じ世界に転生していた。
鏡に写った幼いキャサリンの姿に、幸恵は歓喜した。物語で良く見たやつだ、と。ついに自分の望む世界に生まれ変われたのだ、と。
生前の幸恵はどこにでもいるような、普通の少女であった。
少ないながら友人は居たが、時折覚える孤独や現実への不満。誰しもが抱く、そうした感覚から逃れるために、ゲームや物語の世界を楽しむ。至って普通の少女であった。
ただ他の人間と違ったのは、幸恵がそれにのめり込み過ぎた事だろうか。
次第にゲームの主人公と現実とのギャップに苦しみ始め、自分はゲームの世界にいるべきだと考えるようになった。
そんな時、幸恵の人生はあっさりと終わりを告げ、彼女の望み通りゲームの世界へと転生した。喜びもひとしおというものだ。
しかし、ここはゲームの世界を模しただけの現実だ。どんな理想も、現実になった途端、理不尽が襲いかかるという事を幸恵は知らなかった。そんな事も知らず、そんな事に気づかず、幸恵は自分こそが選ばれた主人公だという勘違いを極めて行くことになる。
だが幸恵がそれに気付いたのは、手遅れになってからだ。
普通の少女が、特権意識を持った事により自己中心的な性格へと少しずつ変貌していく。これこそこの世界が現実である事の証左である。この世界の環境が、幸恵に影響を与え、彼女は少しずつ変わっていった。
自分こそが特権。選ばれた人間と信じてやまなかった彼女は、真の愛されキャラを目指していた。それは攻略対象だけでなく、悪役令嬢であるライバルたちからも愛される、そんな存在を。
だがここは現実だ。勘違いした少女の奇行に、この世界で生きてきたエリザベスが靡く事など無い。それは幸恵にとって初めて降り掛かった、現実という理不尽だった。
それを〝ゲームの強制力〟などと早急に結論付けて、半ば逆恨みでエリザベスを陥れた幸恵は、それが成功した時に更に勘違いを深めてしまった。
やはり己こそがこの世界の主人公である。と
そんな事など無いのだ。現実である以上、全員がそれぞれ主人公の物語を生きている。誰かが世界の主人公となり得る事などない。前世で嫌と言うほど経験した事に、幸恵は蓋をしたのだ。
そしてこの世界の環境と、幸恵という少女が作り出したキャサリンというモンスターが、今度は逆に世界へ影響を与え始めていた……。変貌していった幸恵と同様に、彼女の近くに居たダリオはプライドを、クリスは闇を、それぞれ増幅させゲームとは全く違う人生を歩み始めている。
蓋の隙間から見えていた、現実という残酷な真実。
それでもまだ、ゲームの世界で主人公として動いている、という醜い執着は、遂に致命的な事態を巻き起こした。
そう……王太子暗殺未遂事件の、重要参考人として、王宮に軟禁されるという事態を。
そうして幸恵ことキャサリンが軟禁されている間、彼女の預かり知らぬ所で、大きなイベントは終了の兆しを見せていた。主人公のいない場所で進み、主人公のいない場所で終わりそうになるイベント。
何とも情けない主人公だと思うが、現実は辛く、キャサリンなど誰も気に留めずに、事態は進んでいた。
王都どころか大陸全土を揺るがした、教会上層部による王太子暗殺未遂事件。
キャサリンが軟禁されている間に、王都市民のデモを皮切りに、騎士団が大聖堂へ大々的なガサ入れを行って、教皇及び枢機卿を捕らえたという。
その裁判が間近に迫る中、キャサリンはようやく解放されて自宅へと向かう馬車に揺られていた。
――聖女キャサリン・エヴァンス。君もクリス同様操られていたのだろう?
有無も言わさぬ法務卿の発言に、キャサリンはただ黙って頷くしか出来なかった。
もちろんそんな事は全て茶番だと気がついた。「クリス同様」と言われた時点で、キャサリンは気がついてしまった。クリスも操られてなどいないことに。
それでも二人が操られていた、とすることが王国の利になることだけは分かった。だから、だからこそキャサリンは、クリスの父である法務卿エイベルに、「クリスと話をさせてくれ」と頼んだのだが……
――もとはと言えば、君が殿下とエリザベス嬢との仲を裂いた事に、起因しているのだぞ? 二度とクリスに、いや彼らに近づけると思わぬことだ。
……エイベルから投げかけられたのは、そんな冷たい言葉だった。
エドガー達への接触禁止令。その原因となったのが、あの婚約破棄まで遡るなど、キャサリンには意味不明であった。だが、一つだけ。思い当たる事がある。
ゲームとは違い、積極的にエリザベスを追い詰める事に、クリスが嬉々として協力していた事だ。つまり今回の王太子暗殺未遂は、自分が婚約破棄の件ではしゃぎすぎたせいで、クリスに悪影響を与えたのではないか、と自問自答し続けている。
「本当に……私の、せい、なの?」
ポツリと呟いた言葉は、キャサリンの身体に重くのしかかっていた。
シクシクと痛む胃は、自分が選択を誤り続けてきた事と、これが現実だという事を嫌でも教えてくれている。
自分は主人公なんかじゃなく、この世界に生きる唯一人の少女だという事を。
聖女という肩書こそあれど、そんな物は教会がひっくり返れば、誰も見向きもしないハリボテでしか無い。
逆にそのハリボテがなくなれば……佐野幸恵には、キャサリン・エヴァンスという空っぽの少女の姿しか残らないのだ。
主人公であったはずなのに、気がつけば世界の隅へ追いやられ、ハリボテすら倒れそうな程ボロボロになっている。
もう何をどうしたらいいか分からない。自分ではどうしようもない。
いや、そんな事など絶対に認められない。キャサリン・エヴァンスは主人公であり、愛されるヒロインなのだ。絶対にこんな所で膝を屈しない。まだ……負けてない。
負けを認めぬ限り、負けることはない。そう自分に言い聞かせているが、それは単純に現実逃避だという事を理解していない。いや、理解したくないだけか。
グルグルと思考がこんがらがるキャサリン、いや幸恵がボンヤリと窓の外を眺めた。外から聞こえてくるのは、ブラウベルグ侯爵が新しく開発したカメラと写真についてだ。
「カメラに写真……」
呟く幸恵の耳に届いたのは、「実は侯爵の娘さんが開発したらしいわよ」という聞きたくもないエリザベスの功績だ。
「エリザベス……エリザベス、エリザベスエリザベスっ! エ、リ、ザ、ベ、スっっ!」
噛み締めた唇から血が流れる。
あの時自分を冷たくあしらったあの女が。
仲良くしようと近づいた自分を拒絶したあの女が。
誰からも愛され称賛されている。その場所には自分が居るはずだったのに、全部全部、エリザベスが奪っていく。
完全な逆恨みだが、既に冷静な判断など出来る状況ではない。
追い詰められているヒロイン。
成功を治め、人々から称賛されるラスボス。
こんな事があって良いはずがない。何かの間違いだ。これは夢なのだ、と完全に錯乱状態に陥った幸恵が、「あ゙ーーー!」と咆哮を上げた。
その咆哮に驚いたのだろう、御者が「ど、どうされました?」と馬車をゆっくりと停止させ……髪を振り乱した幸恵が、速度を落とした馬車から飛び降りた。
「お、お嬢様! どこに――?」
慌てる御者の声を完全に振り切り、幸恵は全速力で駆け出した。ポツポツと降り出す雨も関係ない。髪が濡れ、ドレスが汚れてもお構いなしに駆ける幸恵が向かうのは、以前調べていたエリザベスの住居だ。
途中で地面の凹みにつまづき、石畳に出来た水たまりへ思い切りダイブした。
顔が濡れ、頬が擦り切れる。
それでも構わず幸恵が駆ける。足を動かしているのは、嫉妬か憤怒か。とにかく感情に任せて王都を駆け抜けた幸恵の眼の前には、ちょうど門へと入ろうとしているエリザベスと、その連れの男が見えた。
「エリザベスぅぅぅぅぅぅうう!」
腹の底から叫び声を上げた幸恵が、激しくなった雨を跳ね除け、エリザベスへ向けて駆け出した。
「アンタが、アンタさえ――」
声を張り上げた幸恵が、足を滑らせて思い切り顔面で濡れた石畳を滑った。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄るエリザベスに、幸恵が「さわるな」と声を上げて手を跳ね除けた。
「何で……何でアンタだけ……」
そう呟いた幸恵の瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。頬は血と泥でまみれ、額も大きく切って血がとめどなく溢れている。
「なんで? なんでアタシは全然上手くいかないのに……」
人目も憚らずワンワンと泣く幸恵に、エリザベスが困ったように主人を振り返った。
「接触禁止令が出てんだろ」
冷たく首を振る主人に、「ランディ、お願いします」とエリザベスが頭を下げた。
「駄目だ。自業自得だろ」
エリザベスの主人は、頑なに首を縦に振ることはない。それでもエリザベスが「お願いします。ここで見捨てたら……」と瞳を潤ませて主人の男へ迫った。
「チッ……しゃーねえな」
ため息をついた大きな男が、幸恵の首根っこを引っ掴んだ。
「こんな場所で泣くな。近所迷惑だ」
「離せ! アタシは……」
「うるせーな」
眉を寄せた紅髪の大男が、「すげえ怪我だからな。治療したら帰れよ!」とやたら大きな声で叫んでいる。ご近所への体裁だが、幸恵にはそんな事は分からない。ただ今も「離せ! アンタ達に――」とジタバタと暴れるだけだ。
だが元の体力が違いすぎる。終始ジタバタする幸恵だが、抵抗虚しくエリザベスの住居へと連れ込まれてしまうのであった。
※ついに暴走したキャサリンですが、温かい目で見守って下さい。
今後の展開にも関わる重要な部分とも言えるので、少しテンポが悪いですが、分割をご容赦下さい。




